悪女モナ1
3
「ママ、間宮様がいらっしゃっていますが」
マネージャーの新藤が耳元で声を潜めた。
モナは心の中で舌打ちしたが、そんな気持ちは微塵も表情にしない。微笑みを維持したまま、少しだけ顔を横に向け「わかりました」と答えた。
すぐに不動産会社を経営しているという五十過ぎの脂ぎったオヤジに顔を戻し、つまらない自慢話に大袈裟に驚いてみせたり、男の膝に手を置いて笑って見せる演技を続けた。
男のひどい口臭に、我慢も限界に達しそうになったとき、マネージャーが薄いピンクのドレスを着た亜美を連れて席に近づいてきた。
「ちょっと失礼します」
モナはポーチを手に取り、席から立ち上がった。入れ替わりに亜美が男の隣に座る。
「どこ? アイツ」
進藤の横に立ち、笑みを消さずに訊いた。店内での立ち居振る舞いは、常に客の視線を意識している。
「右奥のボックスです」
進藤が目で示した先に、店内を見まわすふりをしながら視線を向けた。
ベージュを基調とした落ち着いたインテリア。五十人座れる席はほとんど埋まっている。ボーナスが出た直後の金曜日なので、いつもより客の回転が早い。
赤やブルーのドレスが客の黒っぽい上着の中でフロアに彩りを与えている。バカラに特注したシャンデリアの光が、テーブル上のボトルやシャンパングラスに反射してきらきらと輝いていた。
照明の加減で他より暗くなっている隅のソファに間宮がひとり、ふんぞり返って座っていた。黒いスーツに白いシャツ。ネクタイはしていない。髪は整えているが、伸び放題の無精ひげが顔を覆っている。血走った目を店内に巡らせているのが、離れていてもわかった。
目が合いそうになったので横を向き、モナは店の奥に脚を進めた。
洗面室でメイクを直し、鏡に映った自分の姿を見つめた。
ぬかりなく手入れした肌はあくまでも白く滑らかで、シミや曇りひとつない。アーモンド型の眼、細く通った鼻筋と高い鼻梁。ぷっくりと膨らんだ唇がグロスで濡れているさまは、自分でもうっとりするほどセクシーだ。
身体の向きを変えて、肩越しに後姿を確認する。背中まで伸ばした髪は鏡のように輝いていた。髪をまとめて顔の左側に流す。背骨がうっすらと浮いた白い肌が、ヒップの上あたりまで深く開いた黒いドレスに映えていた。背中のケアは気を抜くとすぐにニキビやシミができてしまうが、今日も完璧だった。
ポーチを開き、中からスプレー式の小瓶を取り出した。メイクの上から霧吹き状になった保湿用化粧水を振りかける。暖房のせいで常に店内は乾燥していた。肌の乾燥は美容の大敵だ。モナはどこに行くにも保湿用のスプレーを携帯していた。
それにしても――いったい間宮は何の目的でやって来たのか。
おおよその見当はつけていた。たぶん金だろう。間宮は親が経営していた老舗の料亭を継いだとたん、「格好悪いから」という理由だけで取り壊し、趣味の悪いラブホテルのような外観のフランス料理店に建て替えた。
昔から間宮家に仕えてきた大番頭やベテランの従業員の首を切り、金に群がってきた性質の悪い連中を引き入れ、百年続いた老舗をたった五年で潰してしまった典型的な金持ちの馬鹿息子だ。
もっともそんな馬鹿だったからこそ、モナもいい思いをすることができたわけだが、間宮を見限ったときには、すでに都内に持っていた不動産は借金の抵当に抑えられ、自由になる金はほとんど残っていなかった。この店の権利をモナが格安で買い取ることができたのも、そんな間宮の状況があったからだ。
ドアが開き、亜美が洗面室に入ってきた。モナの横に並ぶ。鏡越しに目が合った。
顎のラインに沿って切りそろえた髪、切れ長の目に小ぶりな顔、ピンクのドレスからこぼれそうなほど豊かな胸とくびれたウェスト。腰の位置が高く、モナと並んでもまったく遜色のないプロポーションをしている。背も高い、モナより少し低いくらいだから百七十センチを切る程度だろう。
モナは唇を緩めた。
「どう? あの、お客様」
えー、と髪をいじりながら唇をすぼめた。頬の両側に小さな笑窪ができる。大人っぽい外観と、こんな表情のアンバランスさが男の心をくすぐるのだろう。亜美は、ここ『ヴァ―サタイル』でもトップクラスの売り上げを取れる娘だ。
「あのお客様、口臭がきつくって」
「わかるけどね。しかも自慢話ばかりの嫌なジジイだけど、小金は貯めてそうだわ。うまく乗せれば結構、お金を落としてくれそうだから、頑張ってね」
たとえ大きな売り上げが期待できない客でも、通ってくれれば店の経営の安定につながる。
「わかってまーす」
「お願いね」
ポーチを手に取り、洗面所を出た。ドアの前に進藤が立っていた。
「どうしたの?」
「間宮様がママを早く呼べ、と。すでにかなり呑んでらっしゃるようで」
「今から行くわよ」
髪を掻き上げて、歩みを進めた。