飛び彦三1
下げた視線の中に、黒い革靴が踏み入ってきた。三郎は膝立のまま、男を見上げた。
同時に男の手が伸びてきて、着けていたマスクを引き剥がされた。
「あれ? お前、彦三か」
男が眼鏡の奥の細い目を見開いた
思いもしない言葉に、三郎は目を瞬かせた。〝飛びの彦三〟という名は稼業の通り名だ。それを知っているとは……コイツ、何者だ。
「俺だよ」
男が眼鏡を外した途端、見覚えのある顔が現れた。ここで男の容貌を書く
「あ、あれっ、刑事さん? 梶谷さん……だべな?」
思い違いでなければ、目の前の男は警視庁捜査三課の梶谷だった。三課は窃盗犯を専門に担当する部署で、そこの所属の刑事は、三郎の天敵みたいなものだ。梶谷は高い検挙率を誇る優秀な刑事らしいが、押収品の横流しだとか、自分がパクった奴がム所暮らしをしている間に、その女に手を出したり、と悪い噂の絶えない男だった。
「おお、久しぶりだな」
「何で、ここに?」
「まあ、そこは色々あってな」言葉を濁し、梶谷が三郎の上に視線を移した。「おい、こいつはいい。離してやれ」
腕を攫まれた力が緩んだ。三郎は立ち上がり、どうも、と梶谷に愛想笑いをした。
「お前、ちょっとついて来い」
そういって梶谷が来た方向を戻っていった。「行け」と後ろから背中を押される。三郎は仕方なく後をついて歩いた。
2
連れてこられたのは、屋敷の裏手にあるプレハブの家屋だった。中はスチール製の長テーブルのまわりに折り畳み式のパイプ椅子が四つ囲んでいるだけだった。テーブルの上には新聞や週刊誌、吸殻の積み上がったアルミの灰皿が載っている。隅のほうに大きなストーブが置かれていたが、あまり効いておらず、吐いた息は相変わらず白かった。奥にも部屋があり、半開きになっている扉から監視カメラのモニターが並んでいるのが覗いていた。
梶谷が奥の椅子に腰を下ろし、上着から取り出した金色のライターで煙草に火を点けた。口の端にくわえたまま「座れよ」と顎をしゃくった。
三郎は砂で汚れた床板を歩き、梶谷の斜め前の椅子に座った。細身の男が隣に腰を下ろす。歳のころは二十代後半から三十代、髪を短く刈りこみ、耳がカリフラワーになっている。二人ともスーツの下はワイシャツ一枚でコートも着ていない。寒くないのか、などと関係ないことを思った。
「煙草、喫うか?」
梶谷がマルボロの箱をテーブルの上に滑らせた。すいません、と頭を下げ、口にくわえる。ポケットを探っていると金色のライターが差し出された。
「いいライターですねえ」
追従もあったが、実際高そうに見えた。
「まあな、いい歳こいていつまでも百円ライターじゃねえだろ」
確か梶谷は四十を超えているが、まだ巡査部長だったはずだ。どうせ押収品をパクったというところだろう、と三郎は見て取った。
「あの……ここは?」
「ここの警備員室だよ、見りゃわかんだろうが」
「いや、そりゃ分かんべが……」
三郎は毛糸の帽子を脱ぎ、頭をつるりと撫でた。
「お前なあ、自分の立場わかってんのか」
「あ、いえ、そりゃ、もう」
梶谷がふっと鼻から煙を吐き、黄色い歯を見せた。
「俺ぁ、今ここの警備の責任者だ。もうデカは辞めたんだよ」
「あ、そうなんですか」
そんな気がしていたが、いかにも驚いたという態度で答えた。
「コレが良くってな。まあ、その分お前らみたいなのが、ここは多いんだ」
梶谷が口端の片方を上げ、人差し指と親指で輪を作った。
「今年に入って五人目だ」
「はあ……」
「だから、ここに侵入しようとした輩だよ。誰がこの〝侵入不可能な家〟に最初に忍び込むか、って話題になってんだろ? お前もそのクチか」
「ええ、まあ……」
本当はそれだけではないのだが、理由のひとつなのも事実だった。ここの侵入に成功したとなれば、賊としての格が上がる。
梶谷が椅子から背を離し、テーブルに両肘をついた。にやにやしながら痩せた男に顔を向け、顎だけを三郎にしゃくった。
「コイツ、彦根三郎っていってな、その筋じゃ〝飛び彦三〟っていわれてる大泥棒だよ」
「いや、それほどでも」
ほう、と答えた細身の男の視線を顔の横で感じつつ、三郎は禿げ頭を掻いた。
「腕は現役ん中じゃ、ピカイチじゃねえかな。なあ」三郎に顔を向ける
「はあ……まあ」
「な、否定しねえだろ、こういう奴なんだよ」
梶谷と痩せた男は声を上げて笑った。
何となく和気あいあいとした雰囲気に何とも居心地の悪さを感じた。梶谷の奴、何を考えてやがる。
「なあ、彦三。実際入ってみてどうだった、ここ?」
「いやあ、どうっていわれてもですねえ、困ったべなあ」
「犬、ビビったろ?」
「あ、あれは驚きました。何だべ、あのデケぇ犬」
「グレートデーンって犬だ。人間なんざ、本気になったら喰い殺しちまう」
「はあ、恐っろしいべな」
「値段のほうもスゲエぞ」
「と、いうと……」
「そいつぁ、お前が知らねえほうがいい。馬鹿馬鹿しくなっちまうぜ」
自分から話題を振っておいて、答えない。こういう我儘な性格が災いして警察を辞めるはめになったのだろう、と三郎は勝手に想像した。
「あの犬な、ここのオーナーのアイディアだ。オーナーって誰だかわかるよな」
「はあ、笹蟹の……」
梶谷は無言で頷いた。ここの家主が〝笹蟹の昌〟といわれた伝説的な大泥棒なのは、同業のあいだでは有名だ。そして盗みで得た財産を守るため、同業が目を着ける忍び込みのポイントを全部消した家を自ら設計した、というのも有名な話だった。
「こんだけ広い庭にゃ、センサー張り巡らせるより、犬を放っておいたほうがお前らみたいな連中は嫌がるってんだが、やっぱりそうなのか」
「まあ、そうですねえ。センサーや監視カメラは鳴ったって映されたって、逃げる余裕があっからねえ。でもああいう獰猛な奴は、その場から動けなくなっちまいますから」
「なるほど、やっぱりそうなのか」
「そうですねえ」
梶谷がテーブルにつけた肘をにじり寄らせて、顔を近づけてきた。探るような目を向けてくる。
「お前、この家に何があると思ってんだ」
「さあ、それは……何だべか」思わず目を逸らし、横を向いて煙草を喫った。
「まさか名誉だけじゃ、こんなトコにゃ入らねえだろ」
「まあ、どうなんだかねえ」テーブルの上のアルミの灰皿を引き寄せ、煙草を潰した。ずっと横顔に梶谷の視線を感じていた。
「ここにはな、現金とお宝がたんまりあるぞ。もちろん全部盗品だけどな」
はあ? と顔を戻した。いったい何をいいだすのだ、コイツは。