侵入不可能な家2
こちら側からの侵入を諦めた三郎は、家の横手を確認しようと思い腰を上げた。その瞬間――
背後で低いうなり声が聞こえた。
中腰の状態で動きを停める。耳に神経を集中させた。声は一か所だけではない。真後ろ、右斜め後ろ、左斜め後ろ、唸り声が三郎の背後を囲んでいるように聞こえる。一気に全身の毛穴から汗が噴き出してくるのがわかった。こめかみを汗が流れ落ちる。
恐る恐る顔だけを振り返らせた。
心臓が大きく鼓動を打った。肩越しに見えたのは闇に光る目だった。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……いったい、いくつあるのか数えきれない。それぞれの目の下には白い牙があった。
月の光を受けた黒い影が動き、枯葉がざざっと音を立てた。いや影ではない。夜目の効く三郎は、目を凝らせばその姿がはっきりと見えた。黒い犬だ。つやつやと黒光りする毛並みに引き締まった体躯、耳が垂れている。それに驚くほど大きい。体高は一メートル近いのではないか。犬というより猛獣に近い。
黒い大型犬が数十匹、三郎の背後を取り囲んでいた。頭を低くして鼻の脇に皺を寄せ、白い牙と赤い歯茎を剥き出しにしている。低く唸り声を上げ、いまにも飛びかかってきそうだった。
動けなかった。ナップサックの中にペットに吠えられないようにソーセージを入れているが、少しでも動けば一斉に襲って来るだろう。そもそもこれだけの数の犬に与えられるだけのソーセージは用意していない。
くそっ、犬なんて聞いてねえべ。
ム所仲間の何人かが、この家への侵入を試みて失敗していた。過去に幾人もの同業が侵入を試みたが、まだ誰も成功しておらず、ついたあだ名が『侵入不可能な家』だ。
だが仲間の誰からも、こんな大きな犬が放し飼いになっているという話は聞いたことがなかった。
どうする……。三郎は必死で考えた。何とかしてここから逃げなくては。
けれども、一向にいい考えは浮かんでこなかった。逃げ足には自信があったが、犬相手に勝てる見込みはない。汗が顎を伝い、滴になってぽたぽたと地面に落ちた。
犬たちの頭がいちだんと低くなった。駄目だ、喰われる――。
目をぎゅっと閉じた。
「止めっ!」
突然、鋭い声が響いた。
三郎は目を開いた。犬たちが同じ方向に顔を向けていた。細長い尻尾が左右に揺れている。犬たちの視線の先に顔を向けた。
黒い人影がふたつ、玄関のほうからこちらに歩いてくるのが見えた。雲が流れ、月の光が姿を浮かび上がらせる。髪を七三に分けた銀縁眼鏡の男と、背の高い細身の男だった。いずれも黒っぽいスーツを身に着け、きちんとネクタイを締めている。
犬たちがいっぜいに、ふたりの元へ走っていった。周りを駆け回ったり、後ろ脚立ちになって身体を預けているものもいる。
三郎はしばらくの間、唖然とその様子を眺めていた。だが、ふと気が付いて辺りに顔を巡らせた。もう周りに犬はいなかった。
しめた――。
走り出そうと右脚に力を込めた。
「止まれっ」
空気を震わせるような声に、びくりと身体が動かなくなった。まるで催眠術にかかってしまったようだった。三郎はどうにかこうにか首を動かして、声のほうに顔を向けた。
眼鏡の男と目が合った。そのまま逸らせなくなった。
「逃げるなよ」
じっと目を合わせたまま眼鏡の男が近づいてきた。隣には痩せた男も並んでいる。その後ろには犬の群れが従っていた。
眼鏡の男が目の前で立ち止まった。同時に痩せた男が三郎の背後に回った。手首を掴まれ左腕を捻りあげられて、背中を押された。激痛に全身の力が抜けてしまい、思わず地面に両膝をついていた。