侵入不可能な家1
1
軽く吐いた息が、鼻の先で白く曇った。三郎は樹の幹に背中を預けたまま、顔を上げた。重なり合った枝と葉の間から月の光が細長く差し込んでいた。ぐう、と腹が鳴る。仕事中に便意をもよおさないように今日は朝から何も食べていない。昔は〝ウンがつくように〟という洒落で、ひと仕事した後、糞をしていく同業者も多かったが、今はDNA捜査のせいで身元が一発で判明してしまう。糞どころか髪の毛一本でも残せないのだから、本当にやりにくい世の中になったものだ。
履いていたスニーカーを脱ぎ、傍らに置いたナップサックの中にしまう。代わりに足袋を取りだして履き替えた。いろいろ試してみたが、足音がしないのと足裏の感覚が直接伝わる点で、最近の仕事はいつもコレだった。
足許に気を付けながらナップサックを背負い、座っていた太い枝から立ち上がる。おおよそ十時間、同じ場所に座っていたので全身の筋肉がきしみ、腰と尻が痛かった。
足の下には十メートル以上の高さの空間が広がっている。月影が、地面にも白と黒のまだら模様を作っていた。落ちたら骨折、打ちどころが悪ければ即死だろうが、三郎は特に恐怖を感じなかった。
闇を透かして前に目を向けた。門から二十メートル続く道の両側に木立が広がり、伸びた枝が空を覆う先に屋敷の玄関が見える。広いポーチ、扉のガラスから光は漏れていない。
針に蛍光塗料が塗られた腕時計で時間を確認した。午前二時十五分。顔を上げ、耳と目を凝らしてもういちど周りの様子を覗う。屋敷を囲う塀の向こうから車のエンジン音は聞こえず、通りを挟んで向かいに並んだ屋敷の灯も消えている。風が通り抜け、ざわざわと葉が音を立てた。
三郎は大きく息を吸いこんだ。冷えた樹木の匂いが鼻腔を通り抜けていく。
紺色の毛糸の帽子を脱ぎ、剃り上げた頭をつるりと撫でてから被りなおす。右脚を枝の下に伸ばし樹皮に足をかけ、幹に両腕を回し、そろそろと降りていく。
右足から地面に下りて衣服についた樹皮や汚れを払い落した。濃紺のジャンバーのファスナーを首元まで上げ、濃紺のズボンの尻ポケットから取り出した黒いマスクで鼻から下を覆う。
もういちど周りの気配を確かめてから慎重に一歩を踏み出した。地面を覆った枯葉が潰れ、かすかに音を立てた。腰をかがめて小走りに樹と樹の間を進む。今夜は月が明るい。枝や葉に遮られた月影がくっきりと浮かび上がっていて、その分、闇が濃い。
三郎は木立を抜ける直前、闇のいちばん深い所で脚を停め、しゃがみこんだ。前方にそびえている屋敷を見上げる。
マッチ箱を立てたような白い家が月の光に照らされていた。高さからすると三階建てだろう。こちらから見える壁は表面の仕上げが滑らかで、ちょうど二階のあたりに細長い隙間のような窓がひとつあるだけだった。屋根はもちろん庇などの突起物がいっさいない。つまり手をかけて上に昇れないということだ。雨どいが一本見えたが、窓から二メートル以上離れているので、雨どいを昇って手をかけることはできそうにない。いや、例え手が届いてもあの窓では頭すら入らないだろう。
「こりゃ、何だべ……」
三郎は思わず口にしていた。屋内に侵入できそうなところがない。まさしく噂通りの〝侵入不可能な家〟だった