足枷
春の暖かな陽気にまんじりとしておりましたところ、鐘の音が鳴り響きました。
どうやらまた、授業が終わったようです。
生徒達は強迫観念に駆られるように礼と言ってお辞儀をし、席に付きました。
私にはそれが愉快、滑稽に見えるのです。
それは社会とかいう、人間の作り出した足枷のようでした。
変わっていることは異端と略され、上を目指しても遮られてしまうのです。
誠実でないものは、いつでも敵でした。
出来ないものも、いつでも忌まれる対象でした。
それが、群れを好む人間という生物でした。
力がないものは肉を食われるしかない、とよく人間は言っておりますが、それはひねくれた考えに過ぎないのです。
ある一部の。
それも、人間という動物の括りでの話です。
自分勝手な個体が、不服な面で呟いた戯言にすぎません。
弱くても生きているものはいますし、必ずしもそのものが弱いとは誰も断定できないのです。
何を基準にしているかというのもあるのでしょうが、強い弱いと口にしているだけで結局、そのなかの強者もその程度で片付いてしまうのです。
ほら、人はまた足枷をはめていました。
その代わり、私は違いました。
私は、のびのびと生きているつもりでいます。
少なくとも、上をめざして、あの天道をのように誇り高いつもりでいます。
群れなくとも、生きていける。
それだけで見下せる理由も口実も、すべてなくなってしまうと、私の考えているのであります。
とはいえ、私はただの植物に過ぎません。
私とてプランターと言う足枷からは抜けられません。
生きとし生けるものには、足枷が必要なのでしょうか?
それを知るのは神なのかも知れませんし、そうでないのかも知れません。
つまるところ、こうして光を浴びてまんじりとしている事が、一番の最善策のように思われます。