■孝編 その2
終業のチャイムが鳴った。
仕事の終わりを告げるこのチャイム、終身雇用なんて言葉があった大昔では、確かに仕事の終わりを意味していたのであろうが、そんな制度など崩壊して久しい今となっては、
「これからが仕事の本番」
と、社員の気を引き締めさせるものへと変わっていた。
そんな中、ひとり帰るのに多少のむずがゆさを感じながら、孝は右手にかばん、左手に梢の実家へのお土産を片手に席を立った。
「お先に失礼します」
みんなに挨拶をすると
「お疲れさま~」
という返事があちこちから聞こえてきた。
仕事場を出る際、学の方を見ると親指を立ててこっちを見ていたので、軽い笑顔を返してその場を後にした。
待ち合わせ場所の会社から、少し離れたコンビニの前で梢は待っていた。
近づくと、お疲れさまと挨拶されたので、孝もお疲れと返した。
間もなく、孝の左手にあるものが目にとまったらしく、
「なにそれ?」
「ん? なにって、君の家へのお土産だよ」
「そんな気を遣わなくていいのに」
「だからって、まさか手ぶらってわけにもいかないだろ?」
「そんなものかな?」
「そりゃそうさ」
孝は少し勘ぐった。
もしかしたら梢はまだ家に男を呼んだことがないのだろうか?
まさか、来る男来る男が手土産なしの常識外れというわけでもあるまい。
並んで歩く。
間もなく駅に着き、電車を待つ。
「この時間でもけっこう帰る人多いんだね」
「そっか営業の人はこんな時間に帰ることなんてまれだもんね」
「そうだな。いっつも10時くらいかなぁ」
「大変だよね、営業の人は。その点総務なんて暇でしょうがないくらいなのに」
「まぁ、なかなかちょうどいいくらいの仕事ってのもないもんだよな」
「あっ、ごめんね、忙しい人に対して仕事が暇だなんて言って」
「いいさ、気にしてないよ。そのあたりは部署によりけりなのはわかっていることだし」
そんな話をしているところに、電車が駅へ滑り込んできた。
窓越しに見える車内はすでに満員だ。
「うわぁ、こんな混んでるの乗るなら、10時帰りのほうがまだいいかもな」
「この時間はいつもこんなものよ」
電車に乗ると乗客率は何百%かと思えるぐらいギュウギュウのすし詰め状態となった。
とても梢と和気あいあいな会話を交わせるような状態ではなかった。
しかし、そんな状態にも関わらず、2人だけの世界を築き上げているバカップルが目につき、孝はなんとなく腹が立った。
『ったく、こんなところにまで恋愛ゴッコを持ち込むなっての。俺たちみたいに清く付き合えないのかよ!』
決して嫉妬ではないと自分に言い聞かせつつ、そんなことを思う孝であった。
電車は走る。
人々を乗せて。
そして、そこにはいろんな顔があった。
まだ6時過ぎだというのにすっかりくたびれて寝ているおじさん。
満員電車にもかかわらず大股開きで座る学生らしき若者。
イヤホンから漏れる音がうるさいOL。
そしてさっきのバカップル……。
『みんなどこかへ帰って行くんだろうな』
などと考えながら、これから向かう梢の家のことを考えた。
すると、昼間に学から脅されたセリフ「ウチの娘はやらん!」が頭をよぎった。
「……」
ふと、梢に視線をやると目が合った。
すると梢は微笑んでくれた。
『大丈夫だろう、きっと、たぶん……』
7つほど駅を行ったところで、
「次だから」
と梢がぽつりと言った。
電車は相変わらず混んでおり、会話どころではないので簡単な返事のやり取りで終わらせた。
が、バカップルだけは相変わらずだった。
駅に着き、ようやく混雑から解放され、一息付けた。
「いやぁ、すごい混んでたね」
「この路線はいつもこうなの。しかもよく止まるしね」
とりとめのない会話をして歩いていると、まもなくして梢がある建物に指をさした。
「私ん家、あれ」
指の差された先には、お世辞にもきれいとは言い難い、というより小汚い4階建てのアパートがあった。
一瞬驚いてしまったが、刹那、梢にその表情を悟られなかったかとそっと盗み見たが、特に気がついた様子はなかったので、孝はホッとした。
『にしても、しかし……』
これが本当に梢の家なのだろうか?
『総務とはいえ、ウチの会社の給料ならもう少しいいところに住めそうだが……』
などと余計なことを考えつつ梢についていき、よりアパートに近づいたことで、いっそう建物の古さ、汚さが際立つ。
錆びてボロボロの金属の階段を上ると、一段ごとにギシッギシッと悲鳴を上げる。
階段を上りきると、奥のほうへと歩いていく梢。
どうやら4階の奥が梢の住む部屋らしい。
通路左手にある転落防止の柵には、
「危険! 物を立てかけたり、寄りかからないでください」
という張り紙がしてあった。
その孝の視線に気がついたのか、
「そこ柵の鉄がダメになっているの。ほんとボロアパートでいやになっちゃう」
と梢はいった。
孝は無言の返事を返すと、梢はそのままドアノブをひねった。
鍵はかかってないらしい。
ずいぶん不用心だなぁと孝は思った。
「ただいま」
あまり元気のない声で梢が部屋に入るのに従って、孝も玄関に上がる。
部屋のドアは開いており、そこには酒瓶を片手に大の字で転がっている、50くらいの腹巻をしたおっさんが、いびきをかきながら寝ていた。
「ちょっとお父さん! 今日は飲まないでいるって約束したでしょ!」
怒気を強めて、父親に詰め寄る梢。
梢にそんな気の強い一面もあるのだなと新しい発見をした孝だが、状況が状況なだけに正直うれしい発見ではなかった。
「う……おう、帰ったか」
そういうと面倒くさそうに起き上がり、ふぅと一息ついた。
酒臭い息がこっちにまで届いてきそうだ。
その時、ふと親父は玄関にいる孝の存在を認め、
「ん? 誰だ、おまえは?」
あまり興味はなさそうに、問いかけてきた。
「は、はじめまして! このたび梢さんとお付き合いさせていただくことになった金田孝と申します」
親父の存在感に面食らったうえに、緊張していたことも手伝って、思わずドモってしまう孝。
「今朝言ったでしょ。交際相手を連れてくるって!」
「ん~? そうだったか? おい、それは土産か?」
「お父さん!」
怒る梢を無視する親父。
「もしかして酒か?」
「いえ、違います。銘菓になります」
「ちっ、甘いもんか」
興味無さそうに親父が呟く。
「さあ入って、汚いところだけど」
会話を遮るように、梢が促す。
上がってみると、室内は整頓されていた。
酒瓶やタバコなどでとっ散らかっている親父の周辺以外は。
たぶん、というか間違いなく梢が整頓と掃除をしているのだろう。
きれい好きな孝にとって、これは高得点だった。
ただ室内環境はひどい。
タバコ臭くて、ヤニも壁にべったりしみ込んで変色している。
タバコが嫌いな孝にとっては、梢の家という理由がなければ早々に退散したい場所であった。
「ここに座って」
梢に出された座布団は相当使い込んでいる様子で、くたくたになっていた。
座っても弾力性がなく、お尻が床に直に当たっているようで痛い。
親父がムクリと起き上がって、孝の対面に座る。
「おまえ、梢の同僚か?」
「はい、そうです」
「それなら、結構貰ってるんだろうな? あ?」
「お父さん! ちゃんと話題を選んで!」
梢が親父をたしなめる。
「もしかしたら旦那になるかもしれねぇ男の収入聞いて何が悪い! 大事なことだろうが」
「なに気の早いこと言ってんのよ……」
親父の突然の発言になかば呆れながらも、梢の返答にはチクリとした。
孝としては結婚を前提とした交際を望んでいるからだ。
それにしてもこの親父、本当に梢の血縁者なのだろうか? 梢のイメージとはあまりに違いすぎて、とても肉親とは思えないほどの乖離を感じる。
間もなくすると鍋が運ばれてきた。
ずいぶん早くできたところから考えると、今朝、会社に行く前にでも仕込んでおいたのかもしれない。
「どうぞ」
そういって梢が鍋の具を小皿に取り分けてくれた。
「いただきます」
一口食べてみる。
悪くはない。
勝手な想像だが、たぶん、これまで一家の料理を担ってきたのだろう。
失礼ながらあまり金のある家とも思えないので、安い材料でもそれなりに作る技術が身についたのかもしれない。
「お味はどう?」
「うん、美味しいよ」
「へっ、早くも女房気取りか?」
無視する梢。
親父もそれ以上余計なことは言わず、もくもくと鍋をつつき始めた。
夕餉は終わった。
間もなく梢は冷たいお茶をだしてくれた。
みんな一息ついている。
「梢、酒持ってこい。この兄ちゃんと酌み交わすから」
「孝さんはこれからまだ仕事が残っているから、それはダメ。お父さんも少しはお酒を控えて!」
ぴしゃりと梢がいう。
普段は優しく、気の弱そうな一面すら見せている梢が、親父にだけはかなり強気で、そのギャップには違和感を覚える。
『しかし、なんで仕事があるなんて、嘘をついたのだろう?』
梢なりの考えがあってのことだろうと思い、その場は合わせた。
また申し訳ないが、あまりこの場に長居はしたくない。
「それじゃ、そろそろ」
タイミングを見計らって、帰宅を切り出す孝。
「なんだ? もう帰るのか? まだゆっくりしてきゃいいのに」
「お父さん、仕事なのよ。あまり無理言わないで」
「それでは、ごちそうさまでした」
「おう、またこいや! 今度の土産は酒で頼むぜ」
そういうと、手元に酒瓶を引き寄せて、コップになみなみと注いで飲み始めた。
もう、孝の存在など忘れたかのようですらある。
「それでは失礼します」
返事はない。
その代りプハーという息遣いが聞こえてきた。
「さ、行きましょ」
梢に腕を引かれて、家を後にした。
◆■◆
外に出ると、もう暗くなっていた。
夜道を歩くと、街灯が二人の影を大きく伸ばしている。
さっきまでお土産を持っていたほうの手で、梢と手をつないだ。
デートらしきことは何度もしてきたが、手を握ったのは初めてのことだった。
「今日はごめんなさいね」
「え? なにが?」
気を遣って知らぬふりをする孝。
「ありがとう、気を遣ってもらって。でもね、本当はあんな嘘つかないつもりだったの。それに今日はゆっくりしていってもらいたかったし……」
「……」
「なぜかというと、私やその取り巻く環境のすべてを知ってもらいたかったから。そのうえで受け止めてほしかったから」
「……そうなんだ」
「お父さんがあれだもの、正直人に会わせたくなくてね。だから人を家に呼んだのってすごい久しぶり」
梢ももしかしたら、結婚を前提とした付き合いを望んでいるのだろうか?
いや、そうでもなければ、失礼ながらあんな父親を紹介するとは思えない。
「お父さん、昔かあらああなの。お母さんは小さいときに気がつけばいなくなっていた。でも内心ホッとした。これで毎晩続く夫婦喧嘩を見なくてすむのかと思ったからね」
「……」
「お父さんなんて、大嫌い。ときどき、いなくなってくれたらな、って思ったりすることもあるの。で、そんなのだからさ、当然クラスでも話題になるよね。いわゆる「遊んではいけない子」だったの私」
遊んではいけない子。
そういえば、必ずひとクラスに一人くらいは、そういう扱いを受けていた子供がいたことを思い出す。
そう言われている子自身には問題なく、いいやつが多かったような気がしたが、もしかしたら、そういう扱いを受けていた彼ら彼女らは、梢の家のような背景の持ち主たちなのかもしれない。
一転孝の家はというと、いわゆる中流、それも上流に近い位置にある家族だった。
小学生のころは公立だったが、中学から高校、大学は名門私立の、いわゆるレールの上の生活を送ってきた孝は、当然友達もそのレベルにふさわしい家庭ばかりなだけに、今日うかがった梢の家には正直ショックすら覚えたほどだ。
『はたしてあの親父とうまくやっていけるだろうか? いや、それ以前に両親が……』
そんな孝の心を見透かしたかのように、
「お父さんとうまくやっていく自信ある?」
「そ、そりゃもちろん」
唐突なふりと、そのことを考えていたタイミングだっただけに、思わずドモってしまった。
「実は今日、本当は私なにも口出ししないつもりだったのよね。孝がお父さんとうまくいくのかどうか見たかったから。でもダメね。やっぱりあんなお父さんの振る舞い、黙って見過ごすことなんてできなかったもん」
そういうと梢は、子どもが手をつないでいる時のように、握っている手を大きく振り上げたり下ろしたりした。
いじらしい。
孝は思った。
『梢が人一倍明るく、他人に対して気を遣うのは、生い立ちによるものなのかもしれない』
優しい言葉をかけたくなった。
「それより今度は俺の家にきなよ。家の両親にも会ってもらいたいから」
見ると梢が笑みを浮かべている。
「ホント!?」
「ああ、そんなウソはつかないよ。大阪に行く前に一度呼ぶからさ」
「うん! 絶対に行くね。約束だよ」
「ああ。約束する」
気がつくと駅に着いていた。
「それじゃ、今日はごちそうさま」
「いえいえ、どういたしまして」
「お父さんにもよろしく」
「ホームまで行くよ」
「大丈夫。もう到着しそうだからそれに乗るよ」
「うん。わかった。それじゃ」
会話もそこそこに改札に入って振り向くと、梢は胸のあたりで小さく手を振っていた。
それに応じて手を振り返す孝。
階段も中腹まで上がると梢の姿も隠れて見えなくなったので、到着して間もない電車に乗るため軽い駆け足で階段を上り切り、まもなくして車中の人となった。