■孝編 その1
20XX年6月28日 日本・東京 12:45
孝は会社の屋上のフェンスにもたれかかり、幸福をかみしめていた。
それというのも、長年恋い焦がれていた梢と正式に交際することが決まったからだ。
梢はとても可憐な女の子で、明るく清楚さも兼ね備え、男女に関係なく好かれている女の子だ。
きれいな左右対称の二重瞼に、スッと通った鼻筋、じゃっかん肉厚な唇がチャームポイント。
セミロングの髪の毛はいつもつややかで、それだけでもいい香りが漂ってきそうなほどだ。
そんな、社内のアイドル的存在ともいえる梢が、自分のような人間と付き合ってくれるというのだから、孝は天にも昇るほどの喜びを感じた。
自分も見た目はそこまで悪くはないとは思っているし、これまで付き合ってきた女の子もそれなりにはいたことからも、ある程度は自分自身を客観視できたが、それでもコンプレックスはあった。
それというのも、右目が二重、左目が一重というアンバランスな顔立ちだからだ。
常々直すべきかどうかと考えているのだが、
「右と左で表情が違うなんて、二度おいしいじゃない」
なんて梢は冗談交じりに言ったりするが、本当にそんなものなのだろうか(いや、決してそんなことはないと思うけれど……)。
『梢は俺のどこに惚れたのだろう?』
そんなことを考え始めるときりがないのは分かっているが、やはり気にはなる。
見た目なのだろうか? 性格? それとも両方?
少なくとも見た目ではなさそうだと思う孝。
もし外見で選ぶんだとしたら……。
そのとき、非常ドアが開く音がしたので振り向いてみると、そこには同僚の学の姿があった。
孝の存在を認めると、「おう!」と元気な掛け声をかけて近寄ってきた。
「飯はもう食ったのか?」
「ああ、さっきサンドイッチをね」
二人並ぶとはっきりわかるのだが、身長差が15センチもある。
しかし、それは孝が小さいわけではなく、学がでかいのだ。
190センチの長身に、いわゆるイケメン要素満載の顔立ち。
アイドルだの俳優だのの顔パーツのいいとこどりをしたような、かなり欲張りなマスクをしている。
生まれてこのかた、女に不自由したことはないと豪語しているが、それがいやみに聞こえないほど、男の目から見てもかっこのいいヤツなのだ。
学はいつものように、孝の頭めがけて上から言葉を落とすように話しかけてきた。
「おいおい、そんなんで足りるのかよ! 仕事は昼飯からのほうが長いんだぞ」
すると孝は含み笑いの顔で、言った。
「ちょっと今日は定時上がりの予定なんでね」
すると、いぶかしげな顔をした学だが、すぐにピンと来たようで、
「ああ、なるほどね。梢ちゃんの家に行くんだっけ?」
ニヤニヤしながら脇腹を突かれた。
いまでこそ、こんな会話をしているが、少し前までは孝と学は友人であると同時に恋敵でもあった。
孝と学、梢の3人は3年前に入社した新卒の同期組。
その他同期入社の女子社員の中でも群を抜いてかわいかったのが梢だった。
だから孝や学以外にも、言い寄る男は後をたたなかったが、ガードの固い梢の前に、多くの男たちが告白しては撃沈していった。
そんな中で残されたのが孝と学だった。
3人は同期入社ということもあってか仲がよく、3人で、ときにはどちらかと2人でデートのようなことをよくしていた。
言葉は悪いが、長いことそんなあいまいな両天秤に掛けられながら、学になびいたかと思えば孝の側へフラリと、まるで梢を中心とした振り子のような三角関係がちょっと前まで続いていた。
しかし、そんな関係を清算しなければならないときがきた。
孝は大阪本社へ転勤することになったのだ。
この報を受けたとき、孝は驚いた。
いや、孝以外の同期たちも同様に思ったであろう。
『なぜ学ではないのか?』
と。
学はリーダーシップもあり、社の若手グループを牽引するやり手。
同期や一部辣腕な上司たちからの評判はかなりよかった。
その点、孝は目立った成績はないものの、堅実に仕事をこなしていく実直タイプ。
いわゆる扱いやすい人柄というだけで、大きな取り柄はない。
しかし、今回の人事はいわゆる保守層が実権を握っており、そのことが孝を抜擢する大きな要因となったのだ。
抜きん出た能力者には嫉妬する者が付きまとうものである。
学はデキる男なだけに、保守的な考えの上司からのウケはあまり芳しくなく、その点コツコツと従順に仕事をこなしていく孝に白羽の矢が立ったのだ。
そんな喜ぶべく事態のはずなのに、孝は激しいショックを受けた。
いや、絶望すら感じた。
出世には欠かせない大事な栄転にもかかわらず、これで梢と会えなくなってしまう……。
そう思うと、仕事なんぞ糞食らえ! 本気で会社を辞めようかと思った。
が、しかし……、
「仕事は一生、女は一瞬……」
誰の言葉かは忘れたが、そんなことも頭をよぎった。
だが……、
「仕事は一瞬、女は一生」
という考え方も当然あるのではないか? と孝は思った。
何事も表裏は一体、逆もまた真なりなのである。
『俺にとっての梢とは、それだけ大事なものなのだ』
当然、仕事を辞めるとなると、親の反対もあるだろうし、現在働いている職場が大手企業とはいえ、たいしたキャリアを積んでいない今の状況での転職となると、孝が望むべく仕事にありつくとこは難しい。
だいたいにして、今の仕事に不満などなく、それどころか天職と考えているだけに、退職する気は毛頭ない。
『それならどうする?』
女か仕事か、仕事か女か。
散々迷っているところに、なんと! 梢から交際して欲しいとの申し入れがあったのだ。
「離れ離れになったとしても、別れたくないの……」
と、恥ずかしげに、うつむきながら梢は告白した。
孝は転地がひっくり返るほどに驚いた。
そして、大げさではなく
「生きていてよかった!」
とすら思うほどに舞い上がった。
が、そうなると、気になることがないわけではない。
そう、学とのこれからの付き合いについてだ。
孝と学は社内では切磋琢磨するライバルであると同時に、恋敵であるより先に、仲のいい友達だからだ。
これまでも、それぞれ梢との付き合いで、どこにデートへいったとか、プレゼントはなにを貰ったとか、お互いに梢とのデート自慢をしていた、いわゆる「仲良くケンカ」をしている状態だったが、その絶妙な三角関係のバランスが完全に崩れたいま、孝は学に対してどういう態度をとって望んだらいいのか、本気で悩んでいた。
『もう、友達として付き合うことはできないだろうな……』
落ち込む孝だったが、学の対応はまったく正反対のものだった。
「おめでとう! 梢ちゃんを大事にしてくれよな!」
そういうと、
「これからも友達としてよろしくな」
と付け加えてくれたのだった。
この学の発言には、思わず胸がジンと熱くなった。
はたして自分が学と同じ立場だったら、かような振舞いができるかというと、正直自信がない、というより無理だろう。
たぶん、多くの男性にとっても、それは難しいことだと思えるが、学はそんな困難ともいえる付き合い方を選んでくれたのだ。
そのことに、孝は感謝した。
また、喜びもした。
見た目も仕事も自分より何倍も優れている学と競り合った結果、恋人も手に入れ、また栄転にも恵まれるという両手いっぱいの幸せをつかんだのだから。
そして、梢と付き合うことになってから今までの間、孝は学との間に違和感を覚えることもなかった。
それどころか、親密なアドバイスをくれるなど、それまで以上に仲がよくなったといえるくらいだ。
すべては学の心の広さと、気持ちのよい性格によるものだろう。
「梢の家かぁ、いったいどんなとこなんだろうな?」
と孝。
「お前知らないのか?」
そう言う学に少し嫉妬したが、すぐに誤解だと気づく。
「まあ、俺も知らないんだけどね」
と学。
「そういえば梢ちゃんて、自分の家のこと話したことないよな? 実家暮らしなのは知っているけど」
「そうなんだ? 俺も実はよく知らないんだよね。聞いてもはぐらかされるし」
「いきなり親父が出てきて「ウチの娘はやらん!」とか言われたらどうする?」
「おいおい! プレッシャーかけるのやめてくれよ! ただでさえ緊張してんだから」
「なんだ? お前? 女の子の家に行くくらいでそんなんだったら、これからどうすんだよ?」
「そんなのわかっているけどなぁ。やっぱ緊張するよ」
「まぁ、せいぜい絞られてこいや。だめだったら俺が補欠だからな」
「お前! コノヤロ! まだ梢に未練あんだな」
冗談めかしながら怒ったフリをするが、少し気になっていたりもする孝。
「冗談だよ。冗談に決まってんだろ。それより、しっかりな」
「ああ、ありがと。せいぜいがんばるよ」
そのとき休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「さて、それじゃ仕事に戻りますか」
「だな、俺も早く帰る分がんばらないと」
そういうと二人は足早に非常階段へと向かった。