■殺し屋編 その3
20XX年7月15日 某国某資産家邸 20:15
かようにBの生い立ちは荒んだものだった。
愛情など感じることはなかったし、与えられたこともなかった。
関わりあう人物はみな、ビジネスパートナーであり、今日の依頼者が明日の標的になることも珍しいことでもない。
それまでは、そのような生き方しかしてこなかったBだったが、お嬢様の側近となり、その目となって生活の面倒をみるにつけ、少しずつではあるが、これまでにはない感情が芽生えてきたのだった。
お嬢様は、心美しい、それでいて明るい性格で、自分のハンデをおくびにも出さず、接する者を和ませる不思議な魅力のある人物だった。
少なくとも、金と欲望にまみれた裏の世界ではついぞ会うことのなかった人柄。
それに人から優しくされたことのないBにとってお嬢様の存在は、荒廃したBの心に井戸を掘り、水を湧き出させるような存在となったのだ。
出会って間もなくは隙を窺っていた、が、そんなお嬢様の人柄に触れるにつれ、殺すことに徐々にためらいを持ちはじめ、何度も殺る機会に恵まれながらもぐずぐずと引きのばしになっていたのだった。
依頼者から、催促の連絡が頻繁に入った。
「おい! さすがにもうこれ以上は待てないぞ!」
Bは迷った。
迷って、迷って、迷いぬいている最中にこの騒ぎが起きたのだった。
『奴はどこだ? 間にあってくれ!』
お嬢様のいる場所まで一目散にかけ続ける。
『いた!』
曲がり角のところに身を潜めて、相手の行動をうかがう。
『やつは誰だろう? 服装から見てご主人様の側近のうちの一人だな』
お屋敷では、制服の着用を義務づけられていた。
だから、相手の服装を見ればどこの所轄かはすぐわかる。
ただ、ご主人様の側近は、男女一人ずつしかついていなかったお嬢様と違って複数人いたので、誰かまでは絞り込めない。
Bは名も知らぬ同業者の背後を取っていた。
ピストルを構え、撃とうとしたその時、
「ブブブブ……」
内線の着信があった。
たぶんお嬢様からだろう。
ケータイは仕事の性質上、電源を切れないようになっていた。
こんな有事の際でも万一のためBは音量をOFFにはしていたが、バイブの小さな振動でもこの音ひとつない空間では十分すぎるほどのアラートとなって静寂を切り裂いた。
『くっ、よりによってこんな時に!』
Bはとっさに来た道の壁に隠れた。
相手は振り向きがてらBを確認しつつ、通路の真中にある柱へと身を隠した。
『だ、誰だ? 屋敷はもぬけのからだと思ったが……』
名もなき殺し屋は考えをめぐらす。
『さっき、チラッと見えたが、あの衣装はお嬢様の側近。Bだな』
『俺を背後から狙い撃ちしようとしていた。まさかこんな事態になってもお嬢様を守ろうというのか? 酔狂なやつだな。こんなことになったいま、もう任務もくそもないだろうに……。まぁそれは、俺にも言えることだがな』
同業者は口元に笑みをたたえながら思った。
『だが、逆に気に入ったぜ。そのプロ意識が。俺の任務は誰にもじ邪魔させない! 勝負なら受けてたってやる!』
柱からそっと、Bのほうに目をやる。
壁に隠れていて見えないが、Bはお嬢様と内線で会話している最中だ。
「B! 早く来て! いったいお屋敷はどうなっているの?」
「お嬢様、お気を確かに! あと少しで馳せ参じます。今しばらくお待ちください」
そういって、内線を切った。
Bと同業者との膠着状態は続く。
「……」
依然、お互いに動く気配はないが、Bは同業者に声をかけた。
「おい! お前の目的はなんだ?」
「この状況を見れば、説明するまでもないだろう」
と同業者。
「こんな状態にまでなっても、お前はわざわざ任務を遂行しようというのか?」
「ああ、そうだとも、なぜなら俺はプロだからだ。それはお前とて同じだろう」
『プロ?』
その言葉にBは自分の本当の任務である、お嬢様の殺害のことを思い出した。
『プロか……それならば、なおさら奴を倒さなければならないな』
奴にお嬢様を殺害されては、自分が未遂になってしまう。
『それなら早めに決着を』
意を決したBは通路に出て柱から少しはみ出している同業者の体にめがけて発砲した。
すると、見事に同業者の左腕をかすめて、鮮血がほとばしった。
思わず柱を背にしながら走り出す同業者。
それを追いかけるB。
銃撃戦は続く、しかし、お互いに分かっていた。
走りながら発砲したところで、相手を撃ち抜くのは難しいということを。
が、威嚇の効果には十分だ。
お互いにけん制しつつ、距離を縮めていく。
『この先は行き止まりだ。そこまで奴を追いつめれば、勝負はもらったも同然』
Bはピストルのけん制攻撃をしかけ続け、同業者を誘導するように行き止まりのほうへと追い込んでいく。
と、そのとき、同業者の手から手榴弾のようなものがBのほうへ投げ込まれた。
「!」
とっさに来た道を戻るB。
しかし、それは手榴弾ではなく、発煙筒だった。
周囲に煙が充満し、視界はさえぎられてしまった。
見失ってしまった。
しかし、Bは焦らなかった。なぜなら、この先は角を曲がったところで行き止まりとなっており、通路の左右に部屋が一つずつあるだけだからだ。
もう追いつめたも同然。
発煙筒の煙が引くのを待つのに、数分の時間を要した。
そして、まもなく視界は完全にクリアになった。
『よし、いくか』
まず床に目をやる。
さきほどBが撃ち抜いた傷口からの鮮血が点々と目印のように床に垂れているのがわかる。
角を曲がると、左右にそれぞれ部屋があり、その先は行き止まりとなっている。
床の血は左側の部屋に続いていた。
同業者が左側の部屋に潜んでいるのを証明している。
Bはゆっくりと歩み、左側のドアに近づいてドアを開けた。
そして、
「パン!」
ピストルの発射音が一発、館内に響き渡った。