■プロローグ
20XX年6月30日 某国某州 11:00
博士は満面の笑みを浮かべた。
それは数十年来の時をかけて研究した新薬がついに完成したからだ。
博士はビーカーの中で揺れる薄紫の液体を目を細めていとおしそうに見つめている。
しかし、その新薬完成の喜びを分かち合う同僚や助手はいない。
なぜなら博士はひとりだからだ。
なぜ、博士はひとりなのか?
それは博士が嫌われ者だからだ。
どうして嫌われているのか?
それは博士の見た目が異常なまでに醜悪だからにほかならない。
どれくらい醜いのか?
それは言葉で表すのはちょっと難しい。
神は二物を与えない。
というより、突出した個性の持ち主には、枷をはかせることもしばしばある。
まさに博士は、その好例だろう。
生まれた時から好奇の目で見られてきた。
成長するにつれ、忌み嫌われだした。
身長は140センチと人並みはずれて小さい割には、若いころからはげ散らかした頭だけは異様にでかく、まるでデフォルメされた人形のようにアンバランスだ。
右目の斜視は右側いっぱいに寄って視線が定まることはなく、つぶれた鼻は蓄膿症のため、顔周辺に異様な悪臭を漂わせている。
唇はめくれあがり、発する言葉は小声の上にドモリもあるため、聞き取るのが困難なほどだ。
その割には両手だけは長く、歩くのはビッコと、まるで身体を患った猿とでもいおうか……いや、やはり博士の醜さは博士という以外、表現のしようがない。
しかし、頭脳だけはずば抜けていた。
才智はほとばしり、知識は水の尽きることがない泉のごとくわき出るほどに。
またたく間に、大学を卒業して研究所に勤務することになったが、そこでもかなりの結果を残していた。
が、そんな博士の成果を認めるものは、一人もいなかった。
理由は親しくなりたくないから。
近くにいてほしくないから。
友達になることで、自分のランクを下げてしまう。
もしくは、親しくしているところを見られると同類として陰口をささやかれてしまう。
他人にとって博士とは、まさしくそんな負の存在だった。
博士自身は特に何もしていないというのに……。
ただ、醜いというだけで、人から避けられる大きな理由となった。
だから、誰も博士に寄りつこうとはしなかった。
子供のときから避けられ、忌み嫌われてきた博士にとっては、すでにそのような処遇は分かっていることであるとはいえ、やはり認めてもらいたいという欲求はあった。
そのためには、世間をアッといわせて振り向かせるほどセンセーショナルな研究成果を上げるしか、道はないと考えていた。
親からすら、本当の愛情を受けられなかった。
博士の両親は誰もが認めるおしどり夫婦だったが、なかなか子宝に恵まれなかったのだが、30半ばも過ぎ、ほとんどあきらめていたところに夫人が妊娠したと知るや、二人は手を取り合って大いに喜んだ。
充実した日々を送り、生まれてくる日を今か今かと待ち望んでいた。
「どっちに似た子が生まれるかな?」
などと空想を膨らませながら。
そして、出産を迎えた当日。
父親が見守る中、母親は苦難の末、子供を生み出したのだが、これまで幾度となく生命の誕生に立ち会ってきた医者や看護師ですら、そのときばかりはギョっとした。
その異形の顔立ちにである。
『とても人の子とは思えない……』
博士は生まれながらにして、周囲に不快感を与えた。
そして、当の博士の両親ですら、ひどく落胆した。
あれだけ喜び、期待していた我が子が、見るも無残な奇形児だったのだから、それは想像に難くはない。
『こんなことなら子供を授からないほうがよかった……』
口にこそ出さないものの、両親はお互いに思ったのだった。
種のせいか、畑のせいかはわからない。
しかし、博士の誕生をきっかけに、両親は暗黙のうちに、もう子供を作ることを諦めた。
また、奇形の子供が生まれてはたまらないからだ。
それが原因で、仲がよく、信頼しあっている夫婦間に溝を作りたくはなかったからである。
両親はもちろん博士を愛したかった。
が、しかし、どうしても我が子と思うことにためらいがあり、踏み込めない愛情しか与えることができなかった。
気持ちとは裏腹に、よそよそしくなる。
博士は、好きなものを与えられた。
また、何をしても怒られなかった。
それを愛情としてではなく、同情であるということに博士が気がつくのには、そう時間はかからなかった。
こんなことがあった。
小学校に入って間もないころ、クラスの子供の持ち物がなくなった。
騒ぎは大きくなり、犯人探しも間もなく行われたのだが、その時なぜか、というより当然のように疑いの目は博士にかけられたのだ。
これもまた、嫌われ者の宿命であろう。
嫌なこと、辛いことはすべて嫌われ者が担うのがこの世の常である。
クラスの生徒みんなから、そして先生からも詰問され、放課後になると両親まで呼び出された。
「ぼ、ぼ、僕は盗んでいません!」
博士のドモリがさらなる怪しさを増し、疑いの目はますます強いものになった。
その後博士の両親は教師とともに職員室へ行ったかと思えば、間もなく戻ってくると博士を伴って下校した。
「なにが起きたのか?」
気にはなるけれどとても聞くことはできない。
そしてなによりも、聞ける相手もいない。
まるで何もなかったかのごとくクラスは平常に戻り、そして博士はいつもどおりに誰からも相手にされずひとりきりだったのだが、そんな孤独感にも種類はある。
「何かがあったのだろう」
頭脳並みに猜疑心もずば抜けているだけあって、おかしな空気感には敏感に反応した。
そんな鬱鬱とした日々を過ごしているときに、博士はたまたまクラスメイトが話している内容を小耳に挟んで愕然とした。
職員室に張り込んでいたクラスの誰かが聞き耳を立ててその一部始終を知ったらしく、すべてを内密にする名目で博士の濡れ衣をはらさないどころか勝手に折れてしまったのだという。
両親は、あろうことかなくなった物品を弁償したのだ。
博士は強いショックを受けた。
自分の無実を両親すら信じてくれないということに。
この一件が、博士の生涯を決定づけたと行っても過言ではない。
『僕を哀れんでいる……』
幼心にも聡明な博士は、その真意を感じ取ることができた。
そして博士が自身の硬い殻に閉じこもることとなるきっかけともなった。
そして博士は外気に触れず殻の中に閉じこもり、ひたすら勉強に打ち込んだ。
頭のいいものは、自分の頭の良さを理解している。
ゆえに、優秀になれるのである。
叩いては鍛え、また叩いては鍛える鉄のように、博士は勉強に勉強を重ねて、ありとあらゆる知識を幾重にも重ねていった。
結果、その町どころか、州でも一番の才児としてその名を轟かせることとなった。
しかし、そんな博士が芽を出すことに、あろうことか両親は好ましく思っていなかった。
『あまり目立たないで欲しい』
口にこそ出さないものの、博士にはそっと静かに暮らしてほしい、というのが両親の考えであったのだ。
家族の恥部。
そんな思いを持っていたからに他ならない。
それだけに、本来であれば、もろ手を挙げて喜ぶべきことでも、両親の表情は冴えなかった。
しかし、博士の考えは違った。
「ぼ、僕を黙殺してきた世間の連中を見返してやるんだ!」
動力源は、ポジティブよりもネガティブのほうが強い力を秘めている。
博士は、世間から受けてきたいわれのない仕打ちに対して反抗するかのように、ただひたすらに勉強に励み、結果、研究者として多大な成果を収めるに至ったのだった。
しかし、前述したように、そんな博士の仕事ぶりを認めようとするものはいなかった。
醜い。
ただ、それだけのことで。
博士はジレンマに苛まれた。
研究の成果を上げれば上げるほどに自分の存在価値の尊さ、自身の偉大さを噛み締めずにはいられないからだ。
「ぼ、僕じゃなきゃ、ぼ、僕にしかできないことはたくさんあるんだ」
これは欲望ではない。
ほんとうにささやかな、それこそ存在意義さえ認めてもらえれば博士はそれでよかった。
過大でなくてもいい。正統な評価であれば……。いや、1人の人間として認めてもらえれば。
そして間もなく、そんな博士の気持ちを神様がくんだのかチャンスは偶然にも巡ってきた。
それは、他の研究をしていたときにたまたま見つけた抗体。
これをうまく利用すれば、あるウィルスに対して絶大な効果を発揮することがわかったのだ。
この研究が完成すれば、それこそノーベル賞も夢ではないほどの発見だった。
「こ、この研究が成功すれば、ぼ、僕もきっと認めてもらえるはず」
博士はいつになく、研究に精を出し、人目をはばかることなく没頭していたいのだが、そんな折、急に博士に親しげに近づいてくる者があった。
名前は……
「あ、あんなやつの名前なんぞ、く、口にしたくもない」
と、博士が言うので、ここでは仮にAとしておこう。
Aは博士と好対照の人物だった。
彫の深い目鼻立ちのくっきりした渋いマスクに、髪形はオールバックで固めたナイスガイ。
身長も190センチと大きく、たくましい体は逆三角形にきっちり鍛えこまれている。
それこそ俳優にでもなれるのではないかというくらいの美形と体躯の持ち主で、研究所内の女の子連中はもとより、男にも評判がよかった。
いわゆる人気のある男。
チョウが誰に教わるでもなく美しく羽ばたけるように、Aもまた生まれながらにして人を引き付けるオーラをまとい、話す相手を魅惑した。
そんなAが、博士なんぞになんの用があるのか?
「実は君のことは前から気になっていたんだよね。研究成果もすごいしさ。ホント尊敬しているよ」
生まれてこのかた、まともに人から相手にされたことがないどころか、いわれもなく忌み嫌われ続けてきた博士にとっては、ちょっとした事件であった。
が、そんな生い立ちもあってか、胡桃のように硬い猜疑心も併せ持っている博士は、このAを最初は遠ざけるようにしていた。
しかし、Aの持前の明るさと人懐っこさには、そんな博士の氷結した気持ちを次第に融かしていき、気がつけばAは博士の初めての友達となっていたのだ。
博士の性格上、口にこそ出さないものの、その喜びは天にも昇る思いだった。
『友達! なんて素敵な響きだろう!』
しかもAと親しくなったことで、仲よくしてくれる女の子も現れたのだ。
「研究がんばってね! きっと成功すると思うわ」
などと声をかけられると、
「ど、ど、ど、どうも、あ、あ、ありがと」
と、ドモリもさらなるものとなり、自分でも何を言っているのかわからなくなる時があるほどだった。
さらに喜ばしいことには、なんと博士の研究をAが手伝ってくれるのだという。
この申し入れは、博士にとってはかなり嬉しいものだった。
仲間のいない博士の立場上、助手が一人増えるだけでも開発時間は飛躍的に短縮できる。
しかも人気者のAには、たくさんの研究者や助手も仲間としているだけに、さすがの博士でも一人ではいつできるともしれない新薬の開発時間も、1年、いやもしかしたら半年で完成することができるのでは、と思った。
博士はこの申し入れをもちろん快諾。
研究への没頭はさらなる拍車がかかった。
そして数ヶ月後……ついに新薬は完成した。
「あ、ありがとう! き、君の手助けがあったから、こ、こんなに早く完成することができたよ。ほ、本当にありがとう」
このときばかりは、さすがの博士もAの手を取り、大いに喜んだ。
「何言ってるんだ? 当然のことをしたまでさ」
そんな謙虚なAの態度に、ますます感動を深める博士だった。
が、しかし、そんな喜びは長くは続かなかった。
なんと!
博士が開発した新薬をAが無断で学会に発表してしまったのだ。
それももちろん博士のものとしてではなく、自分の研究物として。
Aが博士に近付いてきた狙いは、これだったのだ。
怒り心頭、Aの部屋に怒鳴りこんだ博士。
このときばかりは、博士は大いに怒った。
怒り狂った。
普段から嫌われ続け、頭にくることだらけの博士だが、殺意を抱くほど憎悪したのはじめてのことだった。
「き、貴様! い、いったいなにをしたのかわかっているのか!」
「なにを怒っているんだ?」
「と、とぼけるな! ぼ、僕の作った新薬を勝手に発表しやがって」
「あ~そのことか。あれは俺の発明だろ?」
「な、なんだと?」
「研究所のみんなに聞いてみるがいいさ。誰が作ったのかはすぐに答えが返ってくるだろうよ」
「ぐっ……」
時すでに遅し。
たぶんAはすべて用意周到に立ち回っているだろう。
持ち前の人脈と政治力を活用して。
しかも、今回の開発にはAの息のかかった研究者たちで構成されている。
口裏を合わせるのは容易なことだ。
「ふ、ふざけるな!」
「ふ、ふざけてないよ」
と博士のドモリをまねて挑発するA。
そのとき、ドアをノックする音がして、Aの秘書が入ってきた。
「失礼します。A博士、○○新聞の方が取材にお見えです」
「そうか、わかったすぐに行く」
Aが言うと秘書は博士の存在などまるでないかのように無視して、去ってしまった。
「というわけさ。俺はこれでみんなよりワンステップ上にいく。そうなると、もう君と会うこともないだろうな」
当然寂しさなど微塵も感じさせずに冷たく言い放つと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「……」
立ち尽くす博士。
知らず、涙がこぼれてきた。
顔面がくしゃくしゃになった。
醜い顔立ちが、いっそう醜くなった。
『あ、あれは僕のすべてだったんだ。あ、あれで世間に認められるはずだったんだ』
血がにじむほど手をにぎり締め、ただ、茫然としていた。
◆■◆
「わっ!」
見る者を驚かせるだけの存在感。
茫然自失の博士の姿は、まるで物の怪だ。
研究所内を行くあてもなく徘徊し、ちょうど給湯室の前を通りそうになったとき、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
ゆいいつ博士と仲良くしてくれていた女の子だった。
「ねえねえ、Aさんとはいつ結婚するの?」
この発言に、博士は驚いた。
女の子と交際するどころか、まともにしゃべった経験すらない博士は、この子は自分に気があるのではないか、と勝手に勘違いしていたからだ。
さらに、ショックな発言は続く。
「そんなことより、これであいつと話さなくてすむことのほうが嬉しいわ。ホンット気持ち悪かったんだから」
タバコの煙を吐き出しながら言った。
「え~! かわいそ~。あんなに仲良くしていたのに~」
「ちょっと! やめてよ! Aに頼まれたから仕方なく話していただけなんだから。だから、他人に見られるのが本当にイヤだったよ。友達だと勘違いされたらたまんないからね」
その刹那、
「うわっ!」
「どうしたの、ひっ!」
女の子たちが軽い悲鳴を上げる。
それは、その場に当の博士がおり、女の子たちの方をずっと見続けていたからだ。
しかし、間もなくすると気を取り直し、怒気を含めて博士に文句を言うAの彼女。
「なんですか? なんか用ですか? 用がないならどっかにいって!」
身動き一つせず、ひたすらAの彼女を見つめ続ける博士。
集団、噂話……博士は、そういう現場に出くわすと、これまでは即座に立ち去るように心掛けてきた。
それは、少しでも自分が話題になるのを避けたい気持ちがあったからだ。
そんな博士にとって、この行動はもしかしたら初めてとった勇気ある行為だったのかもしれない。
ただ、そこにいるだけのことだが。
しかし、それだけのことにもかかわらず、博士の鼓動は倍加して、いまにも弾け散らんばかりにドクドクいっている。
そんな博士の姿に、さすがの女の子連中も気味悪がり、
「なにこいつ、気持ち悪! 行こう行こう」
そう言い捨てるなり、その場を去ってしまった。
「……」
その場に立ち尽くす博士。
ぴくりとも動かない。
『な、なんでぼくだけいつもこんな目にあわなくちゃいけないんだ』
『た、ただ、み、見た目が人より劣るというだけで』
『ぼ、僕はいつだって誰にも迷惑をかけたことがなかった。で、でも、あ、相手から何もしていないのに拒まれるんだから、い、いったいどうすればいいんだ?』
『い、いったい、ど、どうすればいいんだよ』
美と醜、美と醜、美と醜……。
醜さは嫌悪の象徴であり、陰であり、また悪でもあった。
それは歴史も証明していること。
醜きものが描かれた名画が残っているか? 否!
醜き英雄がこれまでにいたか? 否!
これは身近なところでも同じことが言える。
醜きクラスの人気者がいたのかと。
答えはほぼ間違いなく「否」だろう。
博士もまた、「否」の人間なのだ。
そして、もしかしたら世間が振り向いてくれるかもしれない発明すら奪われた今、そのすべてを失ってしまったのだ。
しかし、博士の瞳には新たな決意に漲った意志がやどっていた。
「や、やつのおかげで新しい目標ができた……な」
そして不敵な笑みを口元にたたえながら、歩き始めた。
その後、博士は研究所から姿を消した。
が、しかし、それを気に止める者も、またいなかった。