第6話 母子
「立派なお城ですな」
亀山城の三層の天守を見上げながら、随風は感嘆した。
「なかなかの物とは自負しておるが、次の城はもっと良い物を作る積もりだ」
だが、転封を内示されている光秀にとっては、この城は既に過去の物だ。
それを聞いた随風は、己と同じ服装で騎乗して並んで馬を歩ませている光秀を見て、以前から疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「殿は、丹波が惜しくはないのでございますか? 丹波一国を征するのには、多大な労力と犠牲を払ったかと思うのですが。噂では、人質に出した母君まで失ったと…」
それを聞いた光秀は、皮肉気な笑みを口の端に浮かべる。
「母、な。確かに、義理とはいえ波多野秀治に人質に出した母を殺されたな。人質に出す前日に猶子になったばかりとはいえ、一応は儂の母親に違いはあるまい」
猶子とは、養子よりも弱い親子縁組みであり、家名の変更などはされない事が多く、相続も普通は受けられない(例外はある)。
「前日!?」
「左様。波多野家に滅ぼされた旧家の出でな。品の良い媼であった。儂の母親と言っても通るくらいにな。それで、儂が猶子になった上で、秀治をおびき出すための人質になってもらったのよ。それで、上様が秀治を磔にかけたので殺されたのだがな。憎っくき波多野家を滅ぼすのに役立ったのだから、本望であろうよ…これが武略というものだ」
「…その媼に家族はおらなんだのですかな? 殿以外に、ですが」
「家族か。まだ若い娘が一人おってな。それで内蔵助に世話をするように命じたのだが…内蔵助、お福は元気か?」
「お福?」
突然出てきた名前に疑問を持った随風だったが、それには光秀に問われた斉藤利三が答える。
「福とは、今年三歳になる拙者の娘の名でな。もちろん元気ですぞ、殿。最近は女子にしては活発に暴れ回っておりまして、ほとほと困っておりまする」
「そのくらい元気がある方がよかろう。内蔵助め、世話をしろと預けた娘に手を出しおってな。それで生まれたのがお福なのよ」
「心外ですな。産後の肥立ちが悪く儚くなり申したが、最後まできちんと面倒は見ましたぞ。福についても、最初は良い顔をしていなかった安ですが、赤子の頃から育ててきたためか、今では実子同然に可愛がっておりますでな。一鉄の糞爺ィさえ、実の孫と勘違いしている有様で」
安とは利三の正妻で、西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄の娘に当たる。福とは血のつながりは無いが、正妻として育てているうちに実子同然に可愛くなったのだろう。このため、福は安の実子だと思っている者も多いようだ。
なお、利三はかつては義父である稲葉一鉄に仕えていたのだが、今では非常に仲が悪い。関係が悪化したため血縁を頼って明智家に奉公替えをしたのだが、一鉄は信長を通じて利三を返すように強硬にねじ込んできたこともある。そのとき、光秀は信長に逆らってでも利三を守った。そのこともあって、利三は光秀に絶対の忠誠を誓っている。
「ははは、内蔵助が言いおるわ。そういえば、内蔵助は儂の従兄弟にあたるのだから、そう考えると、あの媼は儂の義理の叔母にも当たるわけだな」
利三は光秀の妹の子であるため、従兄弟にあたるのだ。
「まあ、丹波を手に入れるのに苦労をしたことは確かよ。だが、そこに留まっている気も無いのでな。出雲、石見なら開発のし甲斐もある。今から楽しみよ」
随風の疑問にはそう答えた光秀だった。それは一応本心ではある。坂本や丹波に思い入れはあっても、出雲、石見に魅力を感じてることも事実だ。
だが、自分自身が口にしたことを、本当に心の底から信じているのかどうかは、光秀本人にすら分からなかった。