第1話 老僧
惟任日向守こと明智光秀が、その男を見つけたのは偶然であったが、気に掛けたのは必然であった。
「似ている…」
近江坂本、己の居城の城下の街角に立つ老いた托鉢僧。天正十年(1582年)一月末(旧暦)、まだ寒い時期なのに笠もかぶらず顔をさらしていた老僧を馬上から見て、衝撃を受けたのである。
その顔が、己にそっくりであったからだ。
「御坊、名は何と申す? 儂は惟任日向守じゃ」
「これは、お殿様でございましたか。拙僧は随風と申します」
問うた相手がこの地を治める領主と聞いても、礼節は保ちながら臆した様子もなく答える老僧、随風。
「随風な。宗旨は?」
「天台にございます」
「天台…よい度胸をしておる」
近江坂本は天台宗の総本山、比叡山延暦寺のお膝元と言ってもよい位置にある。にも関わらず「度胸がよい」と光秀が言ったのは、その比叡山が他ならぬ光秀の主君、織田信長によって焼き討ちされていたからだ。光秀自身も、その戦に積極的に参加している。それ以降、叡山は荒れ果て、十年以上たった今も再興されていない。
「前右府様は、逆らう宗門にはご容赦なさらぬお方ですが、一人一人の信心まで咎めることはないと聞いておりますが」
「よく存じておるな」
光秀は秘かに舌を巻いた。確かに彼の主君、前右大臣織田信長は敵対勢力には一切の情け容赦を持たぬ苛烈な人だが、逆らわぬ者に対しては改宗を要求することも、信心を理由に遠ざけることもない。だが、その事実を知っている、ということ自体が尋常ではない。
そして、信長を「前右府」と呼んだ。それはすなわち信長が2年前に辞官したことも知っているということに他ならない。叡山はもとより朝廷との縁が深いのだから、天台の僧ならその程度は知っていても不思議はないが、それだけの伝手があるということでもある。この老僧、凡百の売僧ではなさそうだ。
「御坊、儂の城に参らぬか? ひとつ頼みがあるでな」
「お殿様のお誘いとあらば、お断りはできますまい」
随風を坂本城に連れ帰った光秀は、腹心である家老、明智左馬助秀満と斉藤内蔵助利三のみを同席させて頼みを口にした。
「儂の影になってはくれぬか」
顔のみならず、背格好もよく似ていたのだ。影武者として最適である。
「殿、この者、信用できるのですかな?」
利三は疑いの眼で随風を見ている。薄汚い托鉢僧、それも天台宗と聞けば疑うのも当然だろう。
「それは、今後の働きで見ていけばよろしいでしょう。殿に近侍するのです。他所と連絡を取るような動きは見つけられましょう。殿を狙うようなことがあれば切り捨てれば済むこと。この者の外見は貴重です」
秀満の方は賛成した。影武者として用いるなら、主君の身近、すなわち最も警備が厳重な所に常に居続けるのだ。外部との連絡を取ることは困難であり、光秀を狙うような怪しい動きを見せたならば、その時点で切ってもよいのだ。そこで老僧一人に主君を討たせるほど明智家の近習は甘くはない。毒味役もいるので毒を盛ることも難しいだろう。
危険性以上に、光秀そっくりという身体的特徴の方が役に立つ。そこを割り切って使えばよい。光秀の現実主義は家臣にも浸透しており、中でも一番弟子と言えるのが女婿でもある秀満である。
「であろう。返答は如何に?」
「左様ですな…」
光秀の問いに、随風は即答せず、少し考えてから口を開く。
「もとより、断れる立場でないことは承知しております。これより誠心誠意お仕えいたしましょう。ですが、愚僧の働きをお認めいただけましたならば、ひとつだけ叶えていただきたい事柄がございます」
「貴様!」
条件闘争をしかけてきた随風に、いきり立つ利三。だが、それを制したのは光秀本人だった。
「よい。儂に叶えられることならば考慮しよう。それで、何が望みじゃ?」
「今とは申しませぬ。いつか上様の勘気を解いて叡山の再興を」
信長を「上様」と呼ぶ。それは信長の家臣である光秀に本気で仕える気があるということを表している。そのことに気付いた光秀はかすかに口の端に笑みを浮かべながら答える。
「すべては上様のお気持ち次第じゃ。確約はできぬぞ。じゃが、働きかけだけはしてみよう。それから、儂の影になるということは、還俗するということじゃが、よいのか?」
叡山再興を目指すほど信心に励んでいる身で還俗してもよいのか、と問う。僧形でなくなり、光秀と同じ生臭物を食す必要がある。日々の勤行も行えなくなるだろう。
「形だけ出家するお侍もおりましょう。ならば、逆に姿形だけ俗世に戻っても心に御仏の教えを守っている者がいてもよいではありませんか。それで叡山の再興がなるなら、これも方便にございます」
その言葉を聞いた光秀の口の端の形が、微笑から皮肉げな笑みに変わる。
「方便、な。これからは武略に替えてもらうぞ」
「武略、でございますか?」
光秀の言葉の意味をつかめず、問い返す随風。
「左様じゃ。仏の嘘を方便と言うなら、武士の嘘は武略と言うのでな」
そこまでは皮肉げな口調の光秀であったが、そこでフッと自嘲するように笑って、ぼそりと呟く。
「そう考えると、土民や百姓は何と可愛いことか」
そして、思わず絶句した随風に「これからは宜しく頼むぞ」と声をかけて座を立つのであった。