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耳に順う

作者: 田村まめ

とってもすきな先生がいました。

ともだちには笑われたけど、ほんとうにすきだったし、じぶんのなかでいちばん素敵なひとだと思ってました。いまもです。


 黒板は黒ではなく緑だ。

 反射だとか見やすさだとかを考えた結果らしいけれど、それなら名前を緑板と変えてしまえばよかったのに。それでもわたしたちは緑の板を黒だと言う。

 今日、そんな黒板を普段の授業の『大事なところ』にすら使わないくらいカラフルな色が所狭しと埋め尽くしている。肝心の、黒だか緑だかもほとんど見えない。

 そして真ん中には『卒業』の大きな文字。


 「終わっちゃいましたね、卒業式」

 「そうだな」

 もうこの階にはわたしたち以外誰も残っていない。卒業生は最後の校門を涙ながらにくぐるし、在校生は感謝の言葉を言い逃すまいと目をぎらぎらさせて目当ての先輩を探す。

 わたしと彼は、そんなことを知らないかのように、まだ、ここにいる。ずっと。


 「これでお別れなんて、信じられないです」

 そう告げると、彼は少しだけ笑った。

 「県も離れてしまうんだもんな。気軽に会えなくなるのかあ」

 「そうですよ、…ほら、最後に何か言うことありません?」

 「例えば?」

 「わたしへの、あいのこくはくとか」

 「ないです」

 「即答しなくてもいいじゃないですかぁ…」

 ふふ、と笑って寂しくなる。もうこうして笑い合うことは出来ないのだ、ここじゃないどこかでは、わたしたちの関係性も変わってしまうから。もう、本当にこれっきり。これで、最後。


 「クラスとお別れするのは、寂しいですか?」

 「当たり前だろう。二年間ずっと一緒に過ごしてきたんだから」

 ふっと目を細めて彼はカラフルな黒板を見遣る。こんなだと目が痛いね、とぼやきながら。


 「…そろそろ行かないといけないんでないの」

 「そうやって邪魔者扱いするんですか」

 「おお、わたくしにはこの教室の長として、この黒板を綺麗にする仕事が課せられているのだ」

 「長ってなんですか、」

 ふふ、と笑ってまた寂しくなる。

 「手伝う?」

 そう言って彼がわたしに黒板消しをひとつ渡してくる。仕方ないですねぇと受け取れば、年下のくせにと返ってきた。お手伝いに年上も年下も関係ないはずなのに。彼のこういうところが好きで、いや、全部好きで。離れたくないなあ、と思うのだ。離れてほしくないなあ、と思ってしまうのだ。


 「君は、」

 彼が左側から消していくから、わたしは右側を担当する。

 「最後までシグマが解けなかったね。何度も教えたのに」

 「教え方が悪いんじゃあないですか」

 「ぬあにい」

 「でも誰よりわかりやすかったです、ありがとうございました」

 「歴代の先生方は、きっと泣いてるなあ」

 笑いつつ、放課後のことを思い出す。部活の合間を縫って数学を教えてくれていたこと。数学の模試ではじめて十位以内に入ったこと。だけどどうしてもシグマだけは解けなかったこと。

 「シグマの上のあのnが気に食わなかったんです、あれがnの文字式になったりするとわけがわからないし」

 「あんなに教えたのになあ」

 「やっぱりほら、教え方が」

 「ぬあにい」

 お互い三回黒板消しクリーナーを使ったところで、黒板が元通りの色になった。クリーナーも洗わなきゃいけないんじゃないか。

 「今まで本当にお世話になりました」

 「三十点」

 「…低いですね」

 「月並みなんだもん」

 だもん、なんて言葉は彼に驚くほど似合わなかった。

 「理系なんだもん」

 「免罪符にするな。あと、理系でシグマが解けないのは致命的にも程が」

 「だからほら、教え方がって言ってるじゃないですか」

 はは、と彼が笑ったのを聞いて、思わず涙が出た。ああ、これで本当に最後なんだ。

 「…今日はいい天気だなあ」

 気づかないふりをしているのだ、と思った。ず、と洟をすすってこくりと頷く。あの。振り絞った声が震えた。寒さのせいなんだろう。


 「ずっと、好きでした」


 「…三月でこの天気なら、運がいいよな」

 聞こえないふりをしてくれているのだ、と思った。涙がもうひと粒流れた。なんでだろう。それでも頷く。

 「それ貸して」

 「これですか?」

 「そう、それ」

 手に持っていた一枚の紙を彼に手渡す。彼はそれを両手に持って背筋をぴんと張ると、わたしに向かって言った。

 さっきの卒業式のときと同じ、卒業証書授与だ。


 「卒業おめでとう」

 「先生も。定年おめでとうございます」

 彼の最後の生徒であったことを、わたしはずっと誇りに思う。好きでした。好き。

先生お元気ですか。来年は、一緒に桜を見たいです。

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