およづれごと
切り回す使命を負った者がいなくなると、容易に放棄される。
それは食を司る『台所』という神聖な場所も例外ではない。帝都のように飲食を供する店が豊富にある環境は、ますます放棄を許すし助長もした。金があれば、もっと加速する。
『飯を作る』という生活技術、及び基礎知識の土台も才能も乏しい書生たちは、店屋物で腹を満たす暮らしへ移行し始めていた。雇いの女中がいなくなって二週間が過ぎ、古道具屋内の整理整頓は脆くも崩れ去っている。
「そういえば、噂を一つ拾ったぞ」
朝飯が終わりかけた頃、千尋が言い出した。
今日の飯炊きは千尋が担当した。芋の煮えたもご存じなかったぼんくらも、飯が炊けるようになった。朝餉は米だけ炊いて、菜は昨日お滝が差し入れてくれた大根の煮物の残り。各自の皿へよそい分けるのさえ面倒なので、大きめの瀬戸物の茶碗にどかんと入れて終わりである。でも味噌汁もあるのだから、出来の良い朝飯だった。一昨日など、五つ団子とお茶だけ。当番は柾樹だった。
「子供に纏わる話だ。理髪床屋で、客が話しているのを聞いた。袋田さんのトコじゃないぞ? 謎めいているといえば、謎めいている。『子授けの神通力』と関わりがあるかどうかは、別として……」
「どんな話だ?」
まだ眠そうな顔で、柾樹が尋ねる。遊び歩いて柾樹が帰ってきたのは夜中だった。起き抜けで着物は着崩れ、琥珀色の髪も寝癖であっちこっち跳ねている。
「場所は番町の、とある屋敷の話らしい」
七時を告げる時計の音を合図に始まった千尋の話しの冒頭部分に、聞き役たちは箸や茶碗を持って微妙な顔をした。
「番町……」
「皿屋敷……?」
お武家様の家宝の皿を割った腰元が残酷にも手打ちにされ、その幽霊が夜な夜な皿を数え続ける化物屋敷。有名なあまり、それとされる屋敷が各地に多数発生し、完成度の高さゆえ笑い話にまで昇華されてしまった怪談である。
「皿を割ったかどうかは知らん。そこのお内儀が『百物語』に凝っていて、話してやると小遣いをくれる」
言ってから、千尋は味噌汁を一口すすった。
「物好きな女がいたもんだな」
最後の大根を自分の皿へ回収し、柾樹が答える。空になった丼茶碗の底まで沢庵できれいに拭うと、茶碗を左前へ置いた。躾役も兼ねていた源右衛門の影響で、部分的に細かい。
「物好きじゃない。本気で『話』を掻き集めているそうだ」
「化物見たさに?」
柾樹を正した千尋の発言へ、長二郎が尋ねてから口いっぱいに飯を頬張った。
「いいや、それも違う。実は幽霊も話しの数も、目的じゃない。『手掛かり』を探しているそうなんだよ」
椀を一旦下ろした千尋は、視線を斜め下へ向ける。数秒後、起点を見つけて語り出した。
「その家は男子二人と娘が二人いたそうでな。元気に育ってきたが、次男坊が死んだ。父親の拳銃を持ち出して、暴発させて事故死したんだ。六歳だった」
平穏な家内に鳴り響いた銃声。人々が駆けつけた部屋は血の海で、少年は頭を撃ち抜き死んでいた。
「よく聞くが……そんな簡単に暴発するものなのか? 安全装置がついているんだろう?」
飯を飲み込んだ長二郎が、拳銃の類と親しくしている柾樹へ質問した。
「するときゃする。懐に入れて歩いていたら、暴発して片っ腹に風穴が開いたって話しも聞くだろ?」
「それは聞かない」
「ま、古い拳銃だったのかもしれねぇな?」
柾樹は想像を巡らせるような表情を浮かべて答える。
昔の拳銃は、ちょっとした弾みで暴発することが多々あった。装填済みの銃を携帯する時の事故を防ぐため、一発だけ弾を入れないでおくという対策がとられたりもしたほどだった。
「しかしな、この子供が死ぬことは、生まれた日に予言されていたというんだよ」
二人のやり取りが一区切りしたところで、千尋が話しの続きを始めた。
「事の始めは、次男が生まれたときだ。赤ん坊が生まれて、やれめでたいと喜んでいた家の門前に、『誰か』来た」
長引いたお産が終わり、母子共に無事。元気な赤ん坊のなき声。人々が喜んで沸き立つ屋敷の門の前に、立った者がいた。
「誰だったんだ?」
平らげた茶碗を置いた長二郎へ、千尋は首を横に振る。
「それがどこの誰とも知れないというんだ。家の主人だけが、姿を見ている。手拭で頭をすっぽり覆って、顔を隠した大男で……そいつが門の外から家を覗き込み、『六歳までだ』と言ったそうだ」
屋敷の主人がたまたま玄関先を通りかかり、ぽつねんと立っている男を見つけた。急な客か、どこぞの使いかと、忙しい中でもあるし自ら出て応対しようとした。けれど何処から来たとも知れず、何者かもわからない男は手拭の下から屋敷を見つめ、先のことだけを告げたのだという。
「主人は滅相も無い、嫌な奴だと腹を立てたが、不気味な男もすぐに立ち去ったので、もう気にしないことにした。縁起が悪いと、いっそ誰にも語らず、何年も過ぎて忘れていた。そうしたら……」
「予言のとおりに子供が死んだ、と」
理髪床屋で拾われた物語の最後を、柾樹が小さな声で引き継いだ。
「倅が死んだ後、お内儀はこの予言の鬼の話しを夫から教えられた。それからというもの、我が子の死を予言した男を捜しているそうだ。だがそいつは見つからない」
番町屋敷の怪談筋を追うのに熱中し、千尋の食事の手はさっきから止まっていた。
「そこでまずは手当たり次第に、怪談奇談を集めているのか?」
お櫃の蓋を開け二杯目をよそいつつ、長二郎が質問を投げる。
「話を集めて、もし手掛かりが見つかって……その男に辿りついたとして、どうするんだ? 子供を取られた恨みを晴らそうってのか?」
柾樹もイマイチ得心しない顔で尋ねた。
だがそんな質問をされても、千尋とて母親の気持ちどころか女の考えることなんぞ謎だらけなのだから、知るわけがない。それでも気のいい青年は、「ふむ」と真面目に考え込んだ。
「気狂いってやつだろう。夫は困っているそうだ。最初は喜んで小遣いをせびっていた連中も、お内儀の熱心さに心が痛むし、気味も悪い。もう近付かなくなっているとさ」
零れ聞いた話しと、持ち得る限りの想像力を駆使して答えた。
「その家の詳しい場所は?」
「わからない。家や、子供の名も知れない。なので、実在する家かどうかもわからん」
柾樹に返事をしてから、やっと食事を再開した千尋に代わって長二郎が口を開く。
「もしかして、帝都ではない別の番町かもしれないな? 人の噂なんてそんなものさ。適当に尾鰭や背鰭がついて、七十五日で消えていく」
半眼に、知った風な口ぶりで言った。
「……うん?」
と、味噌汁を飲み干した柾樹の目が、いきなり見つけてしまった『あるもの』へ集中する。
「とはいえ、四人兄弟や拳銃の事故と、かなり特徴はあるな。調べれば何か……え?」
長二郎のお喋りも、横の人の怪訝な眼差しと、その先にあるものに気付いて止まった。
さっきまで、大根の煮物が入っていた瀬戸物茶碗。
その下から、蟋蟀みたいな黒い脚が一本、にゅっと出ていた。
「……虫?」
千尋は大きな身体を竦ませる。
「どこから入り込んだ?」
柾樹が箸を銜えて手を伸ばし、茶碗を取った。持ち上げた茶碗の下に大きな黒い虫がいる。
はずだった。
「あれ?」
大きな黒い蟋蟀が飛び出してくると、三人とも決め付けていた。しかし茶碗のあった場所には何も無い。茶碗の裏に『それ』がくっ付いているのかと、柾樹が丼茶碗を改めた。食事の手を再び止めた千尋と長二郎も、友人の作業を特に理由もなく見ていた。
……のだが。
カキカキと空を掻く黒い蟋蟀に似た脚が一本、茶碗から直接生えていた。茶碗の内底を覗いてしまった柾樹は、そこで動いている赤い虹彩の目玉を発見する。目玉がぎょろっと人間を映し、考える前に「わっ!」と叫んで茶碗を投げた。
「ぎゃあーッ!」
「投げるなよ!」
脚の生えた茶碗を投げて寄越され、他二人は悲鳴と共に避ける。一瞬宙を飛んだ茶碗は畳の上で転がり、一本足でカサカサこそこそ動き回っていた。
「何だ? 何だコレ?」
「箸でつつくなあッ!」
蟋蟀足でカサコソ足掻いている茶碗を箸で転がす柾樹へ、退く長二郎が怒鳴った。茶碗はほぼ同じところで、グルグル回転している。
「捕まえるぞ。虫篭あったよな?」
「よせ! 何でそんなこと考えるんだ! やめろやめろ!」
反応も判断も間違えている柾樹を、箸も椀も放り出した千尋が青い顔をして止めた。その間も大きな茶碗は、床板の上で足掻くのをやめない。けれど、それも束の間で
「あ……おい、見ろ。消えたぞ!」
手招きして叫ぶ長二郎の声で二人が見返ると、丼茶碗は一回ころりと転がって、動かなくなった。三人とも呼吸まで停止し、茶碗の様子を見る。
「……消えた?」
「本当だ……どこ行った? ……あの、虫の脚?」
もう一度、柾樹が慎重に茶碗を手に取って確かめるものの、それはただの瀬戸物だった。静物に戻った茶碗の肌には穴も傷も無く、蟋蟀の脚の痕跡も無い。
「急に消えた。逃げたんじゃない。しゃぼんが弾けるように、パッと見えなくなったんだ」
しっかり距離を取っていたにしては、観察していた長二郎が説明する。
「何だったんだろう……?」
柾樹の手が持つ大茶碗を、怖々と隣から覗き込んで千尋が訝った。
「さっきここに……底の部分に、真っ赤な目玉みたいなもんが一つ、見えた」
持った茶碗を八方から眺め回していた柾樹が、茶碗の内底を指差して言う。
「目玉?」
「目玉に見えたが」
痩せ書生に答える銀縁眼鏡は、自分で自分の見たものが信じられないという顔だった。
「一本足に、一つ目? ……唐傘お化けみたいだなぁ」
緊張の解けた千尋が何気なく吐いた言葉に、「おばけ?」と柾樹が顔を上げる。オバケを教えた人は、目を丸くした。
「知らないのか? 古い道具が化ける妖怪だよ。九十九神というんだ」
そんな問いかけをされた方こそ、全く意外そうだった。




