花簪
市ヶ谷橋の一帯は昔、旗本が集団で配されていた。
今は堀を挟んで外の岸に陸軍士官学校。堀の内をなぞって北へ進めば、靖国神社。そういう地域に、松竹楓と石の配された庭付きの家屋敷があった。高田という家で、花簪を商っている。家主の名を『冶兵衛』といった。
橋に近い大きな屋敷の奥。
外界と隔離されたここは、苔も美しい小さな箱庭だった。薄紅色の秋海堂が、あざといほどの自然さで先取りした秋を彩っている。
雪輪は待合のような庭の、縁側に居た。数時間前にチョコレートを食べ、身体の震えは止まっている。
「では頼みます」
「クアッ」
一声啼いて頭を上下に振り、大きな鴉は飛び去った。啼いた烏の羽音が聞こえなくなるまで見送った娘は、裾を返して六畳の部屋へ戻る。
雪輪が視線を斜め左下へ動かすと、少女が一人転がっていた。
さっきまでお手玉をして遊んでいたのだけれど、飽きて寝てしまった少女。桔梗色の着物と柿色の帯。痩せた手足を縮め、孵化する前の雛と同じ形で眠りこけている。ぱさぱさの黒髪は見栄え良くまとまることを拒否し、藁団子のようになっていた。
雪輪が両国近くの古道具屋を離れ、市ヶ谷まで移ってきた直接の原因は、畳でくうくう寝息を立てている。膝をついて傍らの羽織を取り、布団代わりで掛けてやっても起きなかった。
遡ること、大川の花火の日。
この子は一人で、古道具屋の数鹿流堂へやって来た。
抽象で固められた秋を眺め雪輪が回想に耽っていると、ひたひた潜めた足音と共に、墨染めの衣と白い頭巾の女性が現れる。
「雪輪様……おや」
部屋を覗いたのは尼僧だった。羽織の下で丸まっている少女を瞳に映し、微笑んだ。
「眠ったか」
中肉中背。薄い皺の走る色白の顔立ち。五十代ほどに見える尼は、座敷へ入り静かに座った。
「お内儀は……お桂さんは?」
鹿目を起こさないよう雪輪が小さな声で尋ねると、尼僧も声を小さくして俯く。
「一昨日、一番下の子が熱を出したそうでな。そちらへかかりきりで、お桂はまた心を失っている。“話し”は出来そうもない」
ここ高田屋の妻『お桂』について、そう語った。
「やはりこの一年、不安定だったそうだ。今も看病に夢中で、周囲の者が『お休みください』と申しても、聞く耳を持たぬ。それでも私の見た限り、子は快方へ向かっていた。治れば落ち着きも取り戻す」
高田家の末っ子は、まだ三歳足らずの幼女という。裕福で他に人手もあるけれど、母親のお桂は寝る間を惜しんで世話をし、娘の傍より離れないとのことだった。
「高田の家が恙なく片付いた後は、この子の……鹿目のこともな」
畳で眠る『鹿目』を、柔らかな眼差しに包んで尼は言う。
「有難う存じます。浄蓮尼様」
頭を下げる雪輪の言葉に、浄蓮尼はこれまでより軽快に笑った。
「私が湾凪様とお会いしたいばかりに、この子に言伝を頼んだのが始まり。それにかような成り行きともなれば、『子授け観音』が直接関わり合うより、通りすがりの旅の尼の方が、親も話しやすかろう」
声色はのどかな響きを湛え、慣れた様子。こんなことは過去に幾度もあったかと思わせる雰囲気だった。
「しかしながら……わたくしどもまでこちらへ招かれて、良かったのでしょうか?」
貸し切っている状態の高田家の一室を眺めて雪輪が言うと、浄蓮尼は苦笑する。
「この家の者達に、雪輪様の『神通力』のことは話しておらぬ。祈祷をさせるつもりもないゆえ、ご心配召されるな」
穏やかな声と微笑で、白い娘へ言葉をかけた。
「今は雪輪様も鹿目も、私の『弟子』。もっとお楽になさるが良い。師である私が、高田の家に用事があったのだ。そして、ちょうど何処かに身も隠したかった……また“憑き物”に気に入られたようでな」
「憑き物でございますか……?」
雪輪の小さな問いへ答える代わり、尼僧は声を立てず笑った。
「それよりも、先ほど冶兵衛に問われた。まことに夕餉は一人分で良いのかと」
家主の心配を運んできた浄蓮尼に、雪輪は目で頷く。
「はい。鹿目の分だけ、お願い申し上げます」
「雪輪様も、いらぬと?」
「食べられぬことはございません。人並みに脈も息もしておりますが、浄蓮尼様と同じく、断食として頂きとうございます」
「ふふ、私と同じか」
手で口元を覆い、尼僧は微笑んだ。
「いつから、さような御身の上に?」
墨の衣を纏った身体ごと傾け、尼は娘の白い顔を覗き込んでくる。しがらみの無い自由さは、少女のようだった。
「気付いたのは帝都へ着く、前か後か……」
「……空腹が消え、眠りも忘れ?」
雪輪の言葉を繋ぎながら、尼は聞いてくる。
「はい。寒暖も、殆どわからなくなっておりました。当初は疲れが過ぎたかと思っておりましたが、弟は疲労と寒さで日に日にやつれて参りますのに、わたくしは変わらず」
眠りも、飢えも乾きも無い。既に半分死んでいるのも同じなのだと、その頃に理解した。
「弟とも折りよく別れ、ならば良かろう。まだ『人』であるうちに、潔く終わらせようと思った日もございました。しかしながら」
隅田川の赤目御前に、『終わらせてはならぬ』と言われた。
冬の名残が漂っていた両国橋を思い返し、雪輪は語る。浄蓮尼は白頭巾に覆われた頭をゆるく振った。
「無名の君の『針の先』となれば、人の心や映し世の是非で終わるものでは、とても」
「そのようにございますね」
水底に近い静謐に満たされた秋の奥座敷で、尼とその俄か弟子は語らっていた。時計の針の音が、均等に時を刻んでいる。
「雪輪様が召し上がるのは、あのチョコレイトだけ?」
離れた場所に置いてある黄色い缶を見て、浄蓮尼がまた首を傾げた。雪輪も黄色い缶を見た。あれは唯一、古道具屋から持ち出した品。
「何故か、震えが止まるのです。一時、『針の先』ではなくなったかと思うほど」
「不可思議よな。私が頂戴しても、何も起きなかったのに」
雪輪の答えに、尼僧の丸顔がまた楽しそうに笑った。
「鹿目が、その缶に悪戯をしていた。それは姉様のお薬ゆえ、つまんではならぬと言い含めたが……食べたがっているのとも、違うようだったな」
浄蓮尼は眠る鹿目を見下ろして囁く。
鹿目は、チョコレートを欲しがっているのではなかった。雪輪が一つくれてやったときも、少女は口へ入れるなり、「苦い」と顔をしかめていたのだ。
「鹿目は、飢えているようです」
「家では、食事も与えられておらなんだか?」
「いいえ、日々の食事や着物はあったと……」
雪輪はそこまで答え、再び鹿目の羽織を掛けなおした。
「雪輪様は、これまであまり人と関わらぬようなされてきたとのことだが……何ゆえ鹿目をお傍に? やはり、『子授けの神通力』で生まれた子ゆえか」
白い娘の動作をしげしげと眺め、浄蓮尼が問いかける。
「それも無いではございませぬ……しかし、あまりにもこの子に、迷いが無かったのです」
しばしの時をおいて、雪輪は答えた。
「貧の極み、というわけでもない様子。にも関わらず、この子が妙に痩せているのも、かような身形をしているのも。何か事情があるのではと……鹿目は自分で、うまく話せぬようですが」
眦の切れ上がった黒い眼で、少女を見つめて呟いた。鹿目を自分の身辺に置くのに、雪輪も不安が無いと言えば嘘になる。
それでも
「当面だけでも、鹿目を望むまま……望む場所に、置いてやりたいのでございます」
それが雪輪の傍らだと言うのなら、それも良い。甘んじて受け入れてやるのも、『子授けの神通力』に関わった者としての、筋ではないかと考えていた。
「浄蓮尼様。こちらを、高田屋殿にお渡し願えますか」
雪輪は言い、懐紙に包んだものを取り出す。包みを受け取り、浄蓮尼が尋ねた。
「これは?」
「僅かではございますが……謝礼と思っていただければ。鹿目の食事も、お頼みせねばなりませんし」
渡したものは、今まで雪輪が古道具屋の女中仕事で貯めてきた金の一部だった。浄蓮尼は役と用事がある。けれど雪輪と鹿目は、招かれていない客だった。
「たしかにお渡しする」
尼僧は皮膚も薄い目元をふわとゆるめ、小銭の包みを額へ捧げて懐へ入れる。
「それはさておき、鹿目の気兼ねが消えた後、雪輪様は如何なされるのだ?」
人の声も遠い奥座敷で、浄蓮尼が別の話しを持ち出した。
「古道具屋へ……数鹿流堂へ、戻られるか?」
「いいえ」
「……そうか。まぁ、今日明日に、ここを発つというわけでもなし。ゆるりとな」
尼は美しい箱庭へと目を移す。
この高田家はつまみ細工の『花簪』を製造、販売もしているそうで、職人たちが住み込んでいた。
花簪は、縮緬の花で作られた美しいつまみ細工が下がる髪飾り。元は上方で流行していた。それが最近は帝都でも娘達に持て囃されている。
かつて冶兵衛は上方で花簪の製造を学んでいた。
それが帝都に花簪が無いと聞くや、一大決心をした。何が何でも流行らせてやろうという固い決意が、当時一文無しだった彼に、東海道を走らせた。流行っていないものを流行らせるというのは、生半可なことで成せるものではない。しかし帝都へ来て以来、足を棒にして働き回り、頭を下げて売り込み、工夫と苦労を重ねた冶兵衛は、帝都で花簪を流行させつつある。行動力と才気に溢れた冶兵衛は、ただつまみ細工を作って満足する職人ではなく、ただ売れるのを待つ商人でもなかった。
意気軒昂な簪職人は、帝都で妻子も得る。商売は軌道に乗りはじめ、職人も増えて大きな家屋敷も持つに至った。花簪は評判を呼び、いよいよこれからという矢先。
家を襲った不幸とそれに関わる一件で、浄蓮尼はここを訪れていた。
冶兵衛は気の利く男だった。
尼の『弟子』達を一見するや、何も聞かず奥の間へ案内してくれたのだ。弟子たちを見ても、冶兵衛が然程の動揺を見せなかった理由は、チョコレートの効き目と、商売人である男の成熟に求められそうだった。雪輪も住民達とほぼ顔を合わせる必要がなく、助かっている。
けれど所詮は仮の宿。
「お一人で、御室の里に帰られるか?」
浄蓮尼は尚も尋ねてくる。
「……里は、既にございませんゆえ」
畳を見つめる娘の答えも尼僧は抱くような笑みで見返し、表情の陰影を深くした。
「里人達を供養されるなら、私が経を上げて差し上げようぞ?」
「有難う存じます。湾凪の家の者として、里の者達を弔ってやるのも良いやもしれません」
先を言いかけた雪輪は口を閉じて、黒曜石と同色の瞳を伏せた。
時はもう近くまで来ていて、『帰る』までもないのではないかと思いながら。




