三人寄っても
古道具屋の一室で、下宿書生三人が車座になり座り込んでいた。
秋の匂いを含んだ風が忍び込む、板敷きの部屋。三人は揃って台所を見る。静まる土間に、先頃までそこを維持管理していた娘の姿はなかった。時計は間もなく五時を回る。
「どこ行ったんだアイツ?」
腕組みした柾樹が、藪睨みに近い目つきでもって沈黙を破る。
「ちょいと遊びに出た……にしては長いよな」
長二郎が軽く肩をすくめた。
「里へ帰ったんだろうか? 何か辛抱しきれないことがあったか? それとも、行方知れずだった弟の居場所が分かって、そこを頼ったか……?」
大きな背中を丸め、千尋が続く。
「もう顔を見せないのだろうか?」
一番沈んだ表情で言った。
雪輪がいなくなり、七日が過ぎている。
さすがに下宿人達も、女中が消えている事実に気付かなかったのではない。それでも迅速に次の行動に移らなかった。理由はたくさんあって、当人達も捉まえきれていない。世間には、急にぷいといなくなる使用人というのが実在する。何食わぬ顔で戻ってくる気もした。探そうにも心当たりがない。
誰も事へ手を付けないまま、そっと放置された。ようやっと、先ほど千尋が他二名に「雪輪さんの話しなんだが」と言い出して、現在の状態になっている。
「僕らは結局、あの人のことを何も知らなかったんだなぁ」
長二郎が、板の隙間を指先でいじりながら呟く。
「言わなかったアイツが悪いんだ」
「誰のせいだとか、そんな話しをしているんじゃないだろう」
そっぽを向いた柾樹へ、慰めるような窘めるような口調で千尋が言った。しかし柾樹の耳に声は入らず、目つきは三角になっていく。
「恩知らずめ」
挨拶も残さなかった女中を、金茶頭が罵った。
「そんな言い方はやめたまえ」
「雪輪さんなりに、恩義なら返してくれていたと思うぞ?」
長二郎と千尋から交互に言われた銀縁眼鏡は「あ」と瞬きし、思い出した顔になる。
「ああー、そうだった。返されたんだった、クソッたれっ!」
「? 何の話しだ?」
床へ転がり、足元の籠を蹴飛ばした柾樹を、長二郎が不思議がる。二人をよそに、千尋は口を曲げていた。
「雪輪さんを最後に見たのは、長二郎だよな?」
千尋に尋ねられ、鳶色の癖毛頭が頷く。
「何度でも言うが、寝る前に向こうの縁側で針仕事をしていたよ。『おやすみなさい』と言ったら、あちらも『おやすみなさいませ』と答えた。その後に何があったのかはわからない。朝になったら、後も残さず消えていたと、こういうことさ。『立つ鳥、跡を濁さず』とは言うが見事なまでだ」
再び土間を眺めて言った。
早くも雑然とし始めているが、雪輪が消えた最初の朝。
清められた食器や道具は整然と並び、水瓶には綺麗な水。竃も火鉢も、すぐに火を熾せるようになっており、蔵の二階は香を燻らせるとまではいかずとも、髪の毛一本落ちていなかった。
「『女中なんぞ最初からいなかった』と言われたら、信じてしまいそうだ」
存在の痕跡も気配も消えている部屋を改めて、言った千尋自身が少々青くなり振り返る。
「雪輪さんいたよな!?」
「いた」
「いたよ。僕の着物には繕ってもらった跡がある」
バカバカしいと言いたそうな顔で、柾樹と長二郎が答えた。
「……いつ寝ていたんだろうな?」
転がっていた柾樹が身を起こし、胡坐をかき直してぽろっと呟く。千尋と長二郎は返事をし損ね、間が開いた。
「雪輪さんがか? もっぱら夕暮れから翌朝にかけて、女中仕事をしていたから……なぁ?」
「うん、寝るなら昼の……昼の? あれ?」
千尋に続いて言いかけた長二郎が、違和感に気付く。
「昼の、いつ寝ていた? 俺が何時蔵へ行っても、アイツは起きていたぞ。本を読んでいるか縫物をしているか、内職をしているかのどれかだった。寝ている姿を見たことがねぇ」
床板を見つめ、柾樹は機嫌悪そうに話し続けていた。だが千尋も長二郎も、それを聞かされたところで返せる答えの種類は限られる。
「うたた寝で、何とかなる人だったんじゃないのか?」
「少し話が逸れるが、蔵に乗り込んで雪輪姫が床についていたら、君はどうするつもりだったんだ?」
「んなもん、そのとき考えりゃいいだろ」
簡単に主題は失われ、またしても収穫のないまま話しは終わった。
「さて、目下の懸案は、水仕事を誰がやるかってことだが……」
腕を組んだ痩せ書生が、別の現実問題を切り出す。
「それはまぁ、田上しかいねぇよな?」
「長二郎が一番上手いじゃないか」
「おだてても乗らないぞッ! 乗らないからなッ!!」
生活能力が無い二人の掛けてくる、『当然』の圧力。
長二郎が肩をいからせ大声で拒否していると、裏戸の方で物音がし、やがて開け放っていた勝手口から大きな影が土間へ差し込む。
「ご免くださいまし」の声と入ってきたのは、相内屋敷の若い門番だった。
「与八郎?」
客の名を声に出したのは、長二郎だった。無言で立ち上がった柾樹が、大股で台所まで赴く。土間で坊主頭を下げている門番に、目線で「何用か」と促した。
「実は、手前が先頃こちらへ伺った時のことを、お伝えに上がりました」
無愛想な門番は、四角い顔を上げて訴え出る。
「お前、訪ねて来ていたのか? いつだ」
今更ながら驚いて、柾樹は一歩踏み出した。
「大川の花火の日の、夕刻に。こんな遅くなって申し訳ありません」
「ふん。構わねぇが……何があった?」
「へい。あの日、紅葉様が柾樹兄様と、花火に行くと仰いまして」
「また破獄したのか」
姪っ子が、何故こうも自分を追いかけてくるのか。そこまで懐かれていると感じていない叔父としては、理解できない。
仕事を増やされ、与八郎もいい迷惑だろうに。無骨を絵に描いたみたいな青年門番の顔のどこにも、不平の色は窺えなかった。柾樹も『家出』している身である。しかし与八郎が言わないならば、いい加減にしろと紅葉に自分が言ってやらなければならないかと、ちらと考えていた。
主家の御曹司の前で、与八郎は話しを続ける。
「花火の日は番頭さんの報せで、お嬢様をこちらへお探しに参りました。しかし、すでに皆さまお出かけになったご様子でした。そこで紅葉様をお連れして立ち去ろうしたとき、子供が一人、壁を登って古道具屋から出て参りまして」
空き巣の報に、後ろで話しを聞いていた二人の顔色が変わった。柾樹だけは無表情で門番を見下ろしていたのが、おもむろに口を開いて尋ねる。
「どんなガキだった?」
「十二、三くらいの子供です。たぶん女かと」
与八郎の答えに、質問者は眼鏡の向こうで微かに目を細めた。
「もしかしてキンキン声の、ツラだけは出来の良い、人形みてぇなやつか?」
「いいえ……? 人形どころか、何だかみっともないガキです。見た感じ、乞食や貧民ではなさそうでしたが」
柾樹に確かめられた厳つい門番は、静かに否定する。日焼け顔の瞼だけが、一体何者のことであろうと言いたげに動いた。
「そ、それでその子は?」
ばたばたと寄ってきた長二郎が首を突っ込むと、与八郎は当時の続きを物語る。
「捕まえました。その場で、金も何も持っていないのは確かめたんですが……隙をつかれて逃がしました。申し訳ございません。古道具は無事でしょうか? 観音像は? そこがどうも気になって」
坊主頭を下げ詫びてから、若い門番は下宿人達に尋ねてきた。
「観音像?」と繰り返した柾樹の声を拾い、与八郎が言う。
「そのガキが、『子授け観音様を拝みに来た』と申しておりましたので」
説明した。ひやりとした緊張が、薄暗い屋内に波紋となって広がる。
「こ……」
「子授け観音……?」
長二郎と、遅れて参加しに出てきた千尋が洩らしたそれらを、聞き逃すほど与八郎は迂闊ではない。が、意味は図り損ねた顔をしていた。
「観音像ならある。あの座敷の一番奥に見えるだろ。盗まれてねぇよ」
柾樹一人が無感情で、顎を使い座敷の奥の方を指す。
与八郎は前屈みになって、古道具屋の内部を覗いた。道具の山の彼方に、黒ずんだ木製の古い観音像が佇んでいる。門番は「へい」と頷いた。
「与八郎。逃げたそいつは歳が十二、三で、他はどんな作りのガキだった?」
柾樹に質問に、坊主頭はもう一度頷いた。
「ちっとばかり反っ歯で、猫みたいなでかい目に、肌は地黒。痩せていて、髪は頭の天辺でくくっておりました。麻の葉模様の桔梗色の着物と、柿色の帯って身形で……背丈は、これくらい」
与八郎は右手で、子供の身長を表現する。
「それだけ覚えてりゃ上等だ」
珍しく他人を褒めた柾樹だったが、地黒の顔に喜んでいる風はなかった。
「それと……『かなめ』と名乗っておりました」
褒められた側も、特に嬉しそうでもない態度で報告を続ける。
「わかった。帰っていいぞ。もし、またそのガキを見かけたら報せろ」
手を振った柾樹の指示に、与八郎は「かしこまりました」と答える。門番の青年は他の留守居達にも目礼し、数鹿流堂を出て行った。
「『子授け観音』か……」
報告者が去った後、右手で額を押さえた長二郎が、深い息に乗せて呟く。
「あの『神通力』のことじゃないか? 雪輪さんが話していた、女に触れられない理由の……」
焦り顔で千尋が意見すると、青色に沈み始めた室内で金茶髪も頷いた。
「花火の日となると、いなくなる一週間前だ……関係ありそうだな。弟が迎えを寄越したか? あるいは、本人か」
声色が坊ちゃんから柾樹に戻った柾樹が言って、考え込む。
「しかし迎えに来たとすれば、元旗本の若様だろう?」
「それがどうした」
何を言いだす? という眼差しを柾樹に向けられ、千尋は眉も下がり、表情が情けなくなる。
「雪輪さんの弟だぞ? 与八郎が話していたような、出鱈目な身形格好をするか?」
「しないのかよ?」
「う、うむ……絶対にないとは言い切れないか」
言い返されると納得してしまう青年は、自論を呆気なく引き下げた。
「ここで僕は、諸君に話していなかったことを打ち明けなければならない」
と、長二郎が切り口上気味に喋りだす。
「食い逃げでもしたか?」
「柾樹に言われるとっ! 他の人に言われるのの百万倍くらいっ! 腹が立つんだよッ!!」
「ま、まぁまぁ、長二郎! それで何だ?」
始まりかけた喧嘩を押し止めて千尋が促すと、小柄な貧書生は子爵家の跡取り息子を睨み上げた。
「雪輪ちゃんは故郷の里で、『子授け観音』と呼ばれていたようだぞ」
言って、鼻先で笑った。
「えッ!?」
「何だそれ!? 誰に聞いた?」
「土々呂だよ。薬売りの」
大声を上げる二人へ、長二郎は得意げに語る。
「随分と前の話しになるが、土々呂と道端で話しをしたんだ。その時に。でも相手が相手だったんでね……今まで僕自身、半信半疑だったし、捨て置いていた」
次第に俯き気味になった顔へ浮かんだ長二郎の微笑は、弱かった。
「ええと……雪輪さんは、『子授け観音』と呼ばれていたのか。そう土々呂が話したんだな? でも雪輪さんと土々呂は、とても親しげとは言えない様子だった。土々呂は雪輪さんに付き纏っていて、この前も桜の姿をした『タヌキ』と一緒に現れたな。そういえば河童が出たときも……だああ~、わからなくなってきたッ!」
まとめてみようとしたがまとめきれなかった千尋は、両手で自分の頭を抱える。
「今の時点で、考えられる可能性は二つあると思う」
苦しむ友人を無視して長二郎が言った。
「一つは、花火の日にここを訪れた件の子供が、『土々呂の仲間』ということだ。何の関係も無い他人が、使い走りをしていただけというのも有りそうだけどな。もう一つは、雪輪ちゃんの知り合いである可能性だ。あの人が殆ど話そうとしなかった……というか、僕には隠しているとしか見えなかった、『故郷と過去に関わる者』ということだよ。本当に弟だったのかもしれないな?」
姿を消した女中の手掛かりを並べる。
しかしこれだけでは今までと然程変わらず、新たな景色は見えてこなかった。日は暮れて、古道具屋の建物の中もより暗くなり、灯りが欲しくなってくる。庭からは虫の声が響いてきた。
「さあ、どうする? あの人を探すか?」
長二郎が二人を見比べ、改めて尋ねた。
「え、探さないで放っておくのか!? 土々呂に攫われていたらどうするんだ!」
千尋は驚いて、ついでに目を剥く。
「万端整えていなくなったんだぞ。攫われたってことはねぇだろ」
柾樹が冷めた顔で反論した。
「事情があったんだろ。アイツは陰気で胡散臭くて、如才なくて用心深くて可愛げもねぇが、少なくとも狂言まがいの事をして、憐れを引こうとする女じゃねぇしな」
ひどい評価だが、最後の一点において、雪輪は柾樹から全幅の信頼を寄せられていたと言って良い。まず初対面時、源右衛門の長屋を離れた直後、何の有難味も無さそうに早々立ち去ろうとした娘である。
「だからって、そんな不人情な……」
変な信頼の上に成り立っている柾樹の言い分で、人の良さが取り得の若旦那はもっと弱り顔になった。
「ま、噂なんかを少し探ってみるか? 存外すぐに見つかる気もするよ」
それまで中立だった長二郎が千尋へ同調を示したことで、二対一となり何となく決着した雰囲気になる。
「あーあ、とりあえず腹減ったなぁ」
そして小柄な書生はうーんと伸びをし、踵を返した。
「そうだな。まずは飯にするか……」
「何も残ってねぇだろ」
それぞれ言い出し、話しは一度途切れる。ランプを点けたり、鍋の中を覗いたり。そのうちに
「ん……あれ?」
「どうした?」
納戸を開けた千尋が、中でごそごそし始めた。柾樹が声をかけると、探し物をしていた人物は広い肩越しに振り返る。
「チョコレートが無い」
そこに置いてあったはずの、黄色い缶のチョコレートだった。
琥珀色の前髪の下で、柾樹が薄っすら笑う。
「アイツ、持って行ったか」
銀縁眼鏡の奥の目に、夕陽の残光が揺らいでいた。




