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Third time lucky

 先進的でも、看護婦養成所は華族女学校とは違う。看護婦見習いの娘たちは、学業ばかりに専念出来る身ではなかった。身辺の整理整頓はもちろん、食事の支度から片付け、雪隠の掃除など多くを自分達で行わなければならない。


 まだ薄暗い時間から、養成所に併設された寄宿舎では食事の支度が始まった。そして今日の飯炊き当番の一人は、桜だった。薄茶色の髪をした娘は、湯気と煙の立ち上る竈の前で、火吹き竹を手にしゃがみ込みボーっとしている。足元には十能と火鋏。


 その横を、きれいな島田髷が皿を抱えて通りかかった。ややおたふくとも呼べそうな、ぽっちゃり型の白い顔。筆で引いたような細い目に小さな口をした娘は、釜の加減を見ていない人に気付いて足を止める。


「前田さん」

「え?」

 声を掛けられ、ほわっと答えた桜が振り仰ぐと、島田髷の娘は柔らかく微笑んだ。

「焦げますよ?」

「へ……あッ! きゃああっ!」

 竃の番人は悲鳴と共に飛び上った。ここでご飯を炭にしたら、大損害である。


「あっつつつ!」

 大慌てで開けた釜から噴き出す蒸気の直撃を受け、飯炊き係は大わらわ。とうに蒸らす段階は過ぎていて、焦げ臭かった。通りすがりだった人も、皿を置いて助けに入る。協力して竈から釜を降ろし、しゃもじを持ってきてかき混ぜた。


「すみません! ごめんなさい!」

 桜は半分べそをかいて、あわあわと謝る。鍋底の米は、しっかり焦げていた。しかし炊け具合を確認していたおたふく娘は、ご飯を一口噛み締めて笑いかける。


「大丈夫。ちゃんと食べられますわ。お焦げも、お醤油をかければ美味しいですし」

 落ち着いた物腰で言った。桜の表情が、ほっとゆるむ。それにしても今日の釜底は、黒々と焦げていた。

「すみません、ぼんやりしてしまって……」

 竃の火を片付けた桜は、大急ぎで戻ってくる。


「前田さん……何だかこの頃、心ここにあらずといったご様子ね?」

 手分けしてご飯をお櫃へ移しながら、島田髷の娘がちょっと不思議そうに尋ねた。声は輪郭と同様、ふっくらと柔らかい。

「何か、お困り事でもおありなの? 私でお役に立てそうでしたら、遠慮なさらず仰ってくださいな」

「い、いえ……そんな、困り事というほどじゃ……」

 言いかけた桜の口と、しゃもじを持つ手が止まった。


「五本松さん」

 との呼びかけに、島田髷の娘は「はい」と答えた。右隣を見れば、花のような娘がしおれている。


 島田髷は、おやおや、と思った。

 普段お互い、特別仲良くしている間柄ではない。それでも『五本松さん』なりに、『前田さん』には敬意を抱いていた。ふんわりした薄茶の髪の看護婦見習いが、活発で才気もあり、努力家であるのは知っている。


 この『五本松さん』は男爵家の娘だった。優秀な成績と判断力に加え、肝も据わっている。立派な看護婦になるであろうと、周囲から有望視されていた。


 その五本松女史へ

「五本松さんは、『花言葉』ってご存知?」

再びお櫃へご飯を移す作業を始め、桜が小声で尋ねた。


「え、花言葉……? 薔薇が『愛』ですとか、百合が『純潔』ですとか、そういう?」

「そう、それ!」

「存じてますわ。聞きかじった程度ですが」

「よかった! 私もこの前、花言葉の本を読ませて頂いたんです」

 喜ぶ桜と、着々と作業をこなす五本松女史はお櫃へご飯を移しつつ話しを続ける。厳しいシスターや他の人もおらず、気兼ねがなかった。


「前田さん、洋書をお読みになって?」

「まさか! 英語は苦手ですもの。翻訳されたものです。どなたかが持ち込んだものを、先週の解剖の講義の後に見せて頂いて」

 きゃっきゃとにぎやかな娘の話しに、五本松さんは「そうでしたの」と穏やかに答えた。


「五本松さん、『花言葉』って、とても浪漫的だとお思いになりません? 花の一つ一つに、相応しい言葉を添えるなんて」

 薔薇色の頬をほころばせて、桜が笑う。


「そうですね……我が国でも美人を花に例えますし、花で特定の意味や季節を表すという点では、季語などはございますけれど。それとはまた少し趣が異なるようですから」

 鍋底の焦げ過ぎている部分を、しゃもじでガリガリと取り除きがてら、聞き役は答えた。白米だったはずが、茶色になっている。


「近頃、寄宿舎で流行っていますね。誰それさんは、あの花に似ていらっしゃるとか。あの方は例えれば、こんな花じゃないかとか……あれは、その花言葉の本が原因だったのかしら?」

 手を止めて、黒々と艶やかな島田髷が傾いた。

 先日、級友に「五本松さんはご自分のこと、どんな花だったら良いとお考えなの?」と尋ねられたのを思い出している。「トリカブト」と答えたら空気が凍ってしまった。花言葉に詳しくない五本松さんは、何故なのかしらと、未だに疑問に感じている。


「でも、花言葉がどうかなさって?」

 五本松女史の質問に、数秒の沈黙の後。

「この前……養成所に幼馴染が訪ねてきたんです。弟みたいなものなんですけど」

 ぶすくれて、桜が答える。聞き役は察しがついた。


「ああ……あの方」

 くすりと笑いが漏れて、お櫃に蓋をする。『前田さん』が急に花言葉などというものを引っ張り出してきた理由は、『あの方』にあるらしかった。

 桜がもう一つのお櫃に布巾をかぶせて、大きな目を瞠る。


「五本松さん、もしかして見ていらしたんですか?」

「それは、はい……」

 見ていたも何も。

 門の辺りに『若い男の方がいる』といって、看護婦養成所が騒ぎになっていたのを桜は知らないのだった。彼女は呼び出された人で、待つ人に会いに行っていたのだから、無理もないかもしれないと五本松女史は考え直す。


 実家からの使いや、使用人といった風ではなかった。

 親しげな様子で、姿も立派な男らしい風貌の書生さんは前田さんの

『親戚!?』

『許婚!?』

『もしや恋人!?』

 看護婦見習いたちは物陰や窓に隠れ、わくわくして様子を伺っていたのだ。五本松女史は個人の性格と、すでに親の決めた軍人の許婚がいるのもあり、周りの黄色い声を微苦笑と共に見守っていた。


「千尋というんです。近頃図体ばっかり大きくなって、ちっとも可愛くなくなっちゃった」

「まぁ、お気の毒というか……」

 不満げな様子からして、桜は姉さんのつもりだったのだというのが見て取れた。それが背丈も抜かされて、何だか色々変わってしまったのだろう。幼馴染とはそういうものかと、興味深く聞いていた。


 そんな五本松女史は、窓辺を通りすがりに“彼”を見ただけである。率直に言って、印象は悪くなかった。


 遠目にも、着ているものは小奇麗に整い、体格も堂々とした精悍な若者。

 近頃は男子たるもの汗臭く、垢だらけなくらいが良いのだという向きもある。絹織の着物で、ちゃらちゃらするなぞ女々しい。威風堂々、勇ましく筋骨隆々、逞しくあれと言われる。けれど、やはり身奇麗な殿方に好印象を受ける娘は少なくない。五本松女史もそうだった。

 そういう彼女の隣で、桜は話しを続ける。


「それで……突然来て何事かと思ったら『お前はこの前、神保町へ行ったか?』と聞かれたんです」

「神保町……? 前田さん、ご用事でも?」

 聞き役は尋ねて、お櫃に蓋をした。尋ねられた桜は首を横に振る。


「いいえ、神保町なんか行っていません。そう答えたら、『そうだよなぁ』なんて首を捻っているんです。神保町で、私とそっくりな人に会ったらしいっていう、そこだけはわかったんですけど」

 幼馴染が運んできた謎の質問の中で、桜に意味がわかったのはこれっぽちだった。五本松女史は、三日月形の眉をひそめてしまう。


「そっくりな人……? またですか? 前田さん、たしか以前にも……」

「そう! そうなんです! そんなに気安く見かける顔や格好してますか私!?」

 自分の顔を力いっぱい指差し、桜は勢いよく尋ねた。


 この娘は一度、知らぬ間に『影武者』にされていた経験がある。それもあって釈然としなかったのだろう。五本松女史は返答に詰まった。薄茶色のふわふわした髪に、大きな目と色白の顔。西洋のドレスが似合いそうな体型といい、前田さんの外見は、あまり見かけない方というのが正直な本心だった。


「い、いいえ……。それで、幼馴染の方のご用向きは、それだけでしたの?」

「はい。それだけだったんです。何しに来たんだか」

 ふ、と息を吐いた薄茶髪のイギリス結びへ、島田の娘はふくよかな頬で微笑んだ。


「では、きっと町中で、前田さんを思い出すような方をお見かけして、お元気にしているかしらと、ご挨拶にいらっしゃったのではないかしら?」

「五本松さん優しい……!」

 何事も悪く考えない女史の解釈に、桜は目を潤ませた。しかし

「でも、どうにも引っかかるんです……千尋がこう、何か隠しているというか。以前より、チャンとしているし」

眉間に、もやもやした気配を浮かべて俯く。


「どういうことでしょう? いけないんですか?」

 五本松女史は、再び質問する側へ回った。幼馴染が自堕落に身を持ち崩していて、心配するという理屈ならば想像もしやすい。

 すると桜は両手でしゃもじを握り、誰もいない窓の外へ向かって叫びだした。


「いいえ! いけなくなんてありません! 着物がシャンとしていて、身支度も整っていて、どこに出しても恥かしくない格好で、文句無く結構なんです! だけど前に古道具屋さんで会ったときは、もっとだらしなかったんです! それが何というか、千尋にしてはきっちりしているというか!」

 そうして叫んだ後、声と瞳が暗くなった。


「……誰か、女の人が、傍にいる気がする」

「エッ」

 厨房の余白が一瞬、ピリッと痺れる。

 きちんとし過ぎている幼馴染の背後に、ちらつく女の影。勘の良い桜は、そこに気付いてしまった。かと言って気付いても、ただの幼馴染に過ぎない。詮索するのはおかしい。おかしいが、落ち着かない。


「あの、下女などは……?」

「下宿に、女中が一人いましたが……」

 まだ腑に落ちない顔で、桜はしおれてしまった。

「それで私……お恥かしいお話しなんですけど、ちょっと、尋ねてみたくなっちゃったんです」

 情けない声で白状する。


 千尋は自分の用件がすむと、「それじゃ」と帰ろうとした。その彼を必死で捉まえ、尋ねたい衝動はあるが桜は迷った。別に彼の親兄弟でも許婚でもない。滅多な発言をして、恥知らずや勘違い女と思われたくはない。それに自分は看護婦になる目標を、第一義として生活せねばならない立場である。

 捉まったまま大人しく待っている千尋に、桜がやっと言えたのは


「『私を花に例えたら、何の花になるかしら?』って」

 何故そんな質問。

 台所で相談役となっている看護婦見習いは、出かかった本音を、持ち前の優秀さでもって全力で押し止めていた。


「そうしたらアイツ、何て言ったと思います!?」

「さ、さぁ?」

 泣いても怒っても、どちらに転んでもおかしくなさそうな表情で詰め寄る桜の出題に、五本松女史は首を傾げる。


「『ドクダミ』よ! ドクダミって言ったのよ!」

 しゃもじを振り回して、桜が喚いた。

 女史の脳裏で、『割れ鍋』と『綴じ蓋』という単語が阿波踊りしている。だが男爵令嬢とは、そんな不用意は微塵も表に出さない生き物だった。


「ドクダミは薬草ですから。私たち、看護婦見習いでしょう? それで『薬』が思い浮かんでドクダミに……」

「だからってドクダミはあんまりじゃありません!? 日陰のじめじめした場所に咲くんですよ? おまけに変なにおいもするし! 大体名前が良くないわ!」

 この娘の名前の通り、『桜の花』とか言っておけばこんなに荒れなかったろう。


「よ、良かったじゃありませんか、ウドやワサビの花じゃなかっただけでも!」

「嬉しくないぃーッ!! 何でドクダミなのよ! なんでーッ!」

 嘆く桜の隣で、我慢しきれなくなった五本松さんはお腹を抱えて笑い出した。そこへ、静かに近付いてきた人影が一つ。


「貴女たち。何ですか大声を出して、はしたない。心を鎮めるために、後で礼拝堂へいらっしゃい」

「はーい……」

 厳かな声で、罰が処された。


 ……と、かような具合で桜と五本松さんがシスターに叱られていた頃。


「オレは、そんなにまずいことを言ったでしょうか?」


 問題の震源地である千尋は千尋で、別の人に相談を持ち掛けていた。

 朝の数鹿流堂の裏庭で、忙しく立ち働いている女中の周囲を、歩き回っている。


「花の名前なんて、オレが知るはずないだろう。どうしてアイツもあんな無茶を……」

 腕を組み、文句を垂れていた。相談されている女中は、洗い張りの手を止めて言う。

「看護婦で、お薬が思い浮かび、ドクダミと仰ったのなら……失礼ながらその時に桜さまへ、お伝えになれば宜しかったのでは?」

 静かな声で答えた。それから改めて作業を再開する。


 普段のゆっくりした動作とは異なり、朝の雪輪は動きが早かった。今も真っ白な手は震えていても、着物を手際よく板へ張っていく。古道具屋の女中は、自分が当然の業務としてこなしているこういった日々の仕事が、下宿する書生たちを『小奇麗』にし過ぎているなどと思ってもいない。


「言う暇も無かったんです。急に血相変えて、寄宿舎へ引っ込んでしまったんだ」

 横から作業に手を出し、千尋が言った。「わたくしがいたします」と雪輪は止めたが、留守居頭は「いいよ」と笑い、布の張り付いた板を壁に立てかけていく。


「それに、似ていると思ったんだがなぁ?」

 腰に手を当て、千尋は晴れ渡る青空を見上げる。

「……ドクダミと、桜さまが?」

 全身小刻みに震える娘が、確認した。

 それこそ咲き零れる桜花のようなあの娘に、ドクダミは似ているとは雪輪とて思えなかった。千尋は首を廻らせ、女中を見る。


「ほら、花の形が……こう、十字架みたいでしょう?」

 一つ息を吐いて、指で花の形を作って言う。信仰の象徴に似た形をし、人の傷を癒し、日陰で咲く小さな白い花。


「あいつと何となく、似ているように思ったんだが」

 千尋の呟きを聞き、雪輪は彼が何を言わんとしているのかわかった。


 雪輪も、一度だけ会ったことがある桜。華やかとしか表現しようのない娘だった。そこにいるだけで、陽が差したように周囲を明るくする人に見えた。でもきっと千尋は、周りの目にはおいそれと映らない、桜という娘が持つ他の一面も知っているのだろう。


「この次、桜さまとお会いになられましたら。今仰ったままを、お伝えしてはいかがでございますか」

 最後の洗い張りを立てかけ、娘は言った。聞いた千尋が、嬉しそうに目を輝かせる。


「機嫌も直るでしょうか?」

「恐らくは」

「そうか! 雪輪さんがそう言うなら間違いないな! あいつは何が立腹の火種になるか、まるでわからないんです。いつだったか、頭が雀の巣みたいになっていたのでそう言ったら、怒るわ怒るわ……」

 たぶん単純な視覚的印象として、千尋は述べただけなのだろう。「どこがそんなに気に入らなかったのかな?」と不思議がっている千尋の昔語りの横で、雪輪は黙って洗濯道具を片付け始めた。


「残る問題は、オレが次に桜に会う時まで、この話しを覚えているかどうかっていう、ここだな!」

「……忘れるんかい」


 近くで寝ていた猫の火乱が片目を開けて囁いたけれど、千尋には聞こえていなかった。

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