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消えたひと

「そいつは違いますね。その女は逃げたんですよ」


 煙に霞む薄暗い台所で、理髪床屋の女房お滝が言った。


 白髪まじりの小柄な女は、竃の煙と湯気を浴びて忙しく立ち働いている。千尋は板間で胡坐をかき、長二郎は上がり框に腰掛け、柾樹は隣の十二畳との境にある柱にもたれて、女の話を聞いていた。


 小林弥助のところへ押しかけ女房が来たとの噂は、もう広がるだけ広がっている。古道具屋へ飯炊きに来たお滝は、何はなくとも弥助と押しかけ女房の顛末を聞きたがった。書生達はあまり気乗りしなかった。めでたい結末でもない。


 でもお滝は「お三人方はご存知なんでしょう!?」と目を爛々と光らせ食い下がってくる。どうせどこかで知れるのだしと、手間賃代わりに掻い摘んで話してやった。


「弥助に惚れ込んでやって来たそうなんですが……実は後家さんだったんです。嫁ぎ先とのこともあったようで、この前、家へ戻りました」

 やんわり千尋は話した。しかしお滝の反応は先のとおりで、『やんわり』は全否定されたのである。


「まぁねぇ……数鹿流堂の善五郎さんとおのぶさんみたいに、惚れ合った同士だって鼻先つき合わせて暮らしてりゃ、呆れたり喧嘩したりで、それが当たり前なんですけどねぇ。まずお互い赤の他人なんだから、やる事も考えも、違ってなかったらおかしいでしょうに」


 冬瓜の味噌汁を仕上げつつ、お滝は喋り続けている。七輪の上で焼いていた鰯の丸干しを回収してくると言った。


「それにしても辛抱しきれなかったんでしょう。世の中が開けて新しくなると、人間が狡すっからくて弱くなっちまって。困ったもんですね」

 この女の目で見る世界はそういう景色になっているのかという新鮮な思いで、書生三人は話しを聞いている。


「溺れるものは、藁をも掴むという言葉もありますな」

 焦げ目のついた鰯が各皿へ並んでいくのを眺め、頬杖付いた長二郎がぼやっと呟いた。手拭で顔をぬぐって、お滝は大きな声で笑う。


「あっははは。そうそう、溺れかけているときには藁にもすがりつくのが人情ってもんですよ。そうして夢中で掴んでも、陸に上がってハタと見てみりゃ藁は藁。こりゃしまったと気がついたんでしょう。その女は、ていの良い口実を見つけてコレ幸いと逃げ出したんでございますよ」

「弥助は藁だったのか……」


 千尋の口から漏れた言葉は、理髪床屋の女房の耳には届いていないようだった。

 太く短い手を忙しく動かし、お滝は料理を器へ盛り付けていく。飯と冬瓜の味噌汁。芋の煮付けに鰯の丸干し。これが今日の夕飯だった。


「きっと綺麗なイイ女だったんでしょう。イイ女は悪い女と、昔から相場は決まっているもんです。弱くてずるくて寂しそうな女だなんて、男がコロッと騙される話しじゃないですか。あたしみたいな、強くて正直であけっぴろげな女の方が、良いに決まってるのにねぇ。どうして世の中の男は、こんなことがわからないんだか」

 ちゃっちゃと器を片付け言い切るお滝は、あけっぴろげで間違いなさそうだった。長二郎が苦笑いする。


「袋田さんは、お目が高かったということですね」

「またそんなこと!」

 書生の言葉に、流しへ鍋を置いてお滝が振り向いた。眦がつり上がっている。


「ウチんとこは周りの連中が、年頃だから打っちゃっとけねぇって言って、あたしの知らないところで世話焼いて、わあわあやってたらいつの間にかくっついちまっただけですよ!」

 お滝は菜箸を握り、腹立たしげに語った。


「そ、そうなんですか?」

 千尋が怯えまじりの声で問うと、女は「そうですとも」と強く頷く。


「嫁入りした明くる日の朝、ウチの宿六は『貧乏は嫁を選べずだ』なんて寝言抜かしたんですからね! こっちの台詞だ饂飩で首くくって死んじまえと、桶の水ぶっかけてやりましたよ」

 圧倒的な現実。人生や幸せとは、様々な形を持つものらしい。お滝の武勇伝に長二郎と千尋は言葉をなくし、後ろの方で「ぶっ」と柾樹が吹き出した。


「ま、ウチのことはさておいて。そんな女に弥助さんみたいな立派な殿方勿体ない! 弥助さんには、あたしが今度ちゃーんとした人をお引き合わせしますから」

 日焼けした丸顔で真面目に言い、お滝は逞しい腹を叩いた。


 出会い頭の事故のように結婚し、惚れたハレたも何もなく、腹立たしい新妻時代は遥か昔の出来事となり、泣いたり怒ったり多くを諦めたり折れたりしながら、貧しくつつましく過ぎてきた。そういうお滝には、勝手に男の家へ押しかけ、再び勝手にいなくなったという女に親近感など湧かないようだった。


「弥助は独り身が良いと言っていましたよ」

 箱膳に皿を載せ、千尋が弥助の言っていたことを告げた。


――――俺はよ、あいつは鶴だったと思うことにしたんだ。


 昨日、書生三人に会いに来た弥助は、自らそう言っておゆりの話しを持ち出した。

 長屋へ押しかけてきたあれは蝋燭問屋の後家ではなく、いつぞや釣り糸から解放してやった鶴であったのだと。


――――因幡屋へ櫛を届けに行ったら、まるきり違う女が出てきたからな。


 弥助は真面目くさってそう言っていた。


 この前まで、古道具屋で預かっていた月兎の櫛。

 やはり持ち主の手元へ戻るべきであると理屈をつけて、中年男は自分で蝋燭問屋へ届けに向かった。おゆりのことが心配だったという真心も、嘘ではなかっただろう。


 すると蝋燭問屋の奥から美しい後家が出てきて、にこやかに探偵を迎えたのだ。


『マァ、つまらないことで親分さんのお手を煩わせまして……!』

 おゆりは古い櫛を受け取り、しとやかに丸髷の頭を下げた。


――――ずいぶんな嫌味を言いやがる。


 露骨な他人行儀を、初めのうち弥助は苦々しく思っていた。


 だがそのとき、奥より隠居と思われる声がかかって、女が一度退席した。

 そして何やら老いた男性の叱りつける声が聞こえ、再び出てきたおゆりが何事も無かった風に微笑んでいるのを見て気が付いた。

 それはたしかにおゆりでありつつ、全く別の女だったと弥助は言った。


 そこにいたのはよく躾けられた出来の良い主婦だった。当たり前とされる辛抱も出来ないような子供染みた女はいなかった。浅はかな畜生女は、弥助の前から文字通り消えてしまったのだ。そしてきっと、二度と現れることはない。


 外で鳴く最後の蜩の声を聞きながら、それとわかって弥助は寒気がするほど怖くなり、無性に寂しくもなった。おゆりをこの世から消してしまった。何もしてやれなかった己の無力さに居た堪れなくなり、そそくさと蝋燭屋を後にした。

 でも、これで良いのだとも思った。


――――だから俺は、あいつは鶴だったと思うことにしたんだ。


 弥助は微かに苦笑していた。

 長屋へ押しかけてきて、弥助と一緒に無邪気に笑ったり驚いたりしていた『おゆり』は、人ならざる何者かだったと思うことで片を付けた。ただし、もう当分の間は独り身で良いと。


 そんなことと知らないお滝の、小さな目が丸くなる。


「おやおや、骨身に染みて懲りたんですかね? 仕方がないでしょうかねぇ。ちょうどいい心当たりがあったのに」

 飯を茶碗へよそう手を止めずに言った。


「その女の人は、お滝さんの親戚か何かかい?」

 茶碗を受け取り、長二郎が尋ねる。

「イエイエ、ご贔屓にしていただいている方のツテなんです。偉い大学の先生なのに、うちの人と話が合うらしいんですよ。この前『紅葉館』で鬼が出たとお話ししたでしょう? あの話しをしてくだすった先生なんです」

 お滝は皺の中に目を埋め、自慢げに笑った。


「お嬢さんがいるんですよ。お嬢さんて歳でもないでしょうね。英吉利に留学していたっていう才女で、何から何まで西洋風にしなけりゃ気がすまない上に、今じゃ女学校で教師をしていて目も当てられないとか」

「たぶんお互い手に負えないと思いますから、今の話しは聞かなかったことにしておきますね」

 お滝の話しを笑顔でかわし、長二郎が弥助の見合い話を打ち切った。そして


「ところでお滝さん……紅葉館の鬼というのは、その御仁が見たんですか?」

 自分の箱膳を運びがてら、長二郎は別の問いを向ける。


「ええ、そうですよ。偉い先生が仰るんだから本当でしょう」

 肩書きというものへ信用を置くことに一片の迷いも感じさせない早さで、お滝も膳を運びながら返す。


「ふーん……根も葉もない与太話だと思っていた。違うのか」

「何だ、紅葉館の鬼って?」

 長二郎の小さな声を聞き取り、横へ座った柾樹が尋ねた。以前この座敷で交わされた、紅葉館に現れた鬼の話しを柾樹は知らない。しかし事情を聞くと、銀縁眼鏡は箸を手にとり言った。


「ああ、その話しか。本当だぞ。あの時、俺も紅葉館に居たからな」

「ええ?」

 説明した千尋と長二郎の方が驚いて顔を上げた。柾樹が噂の現場に居合わせたという点と、この金茶頭が紅葉館へ行く系統の人材であったという点と。


「柾樹もいたのか?」

「見たか、鬼は? 相当大きかったそうだが」

「見てねぇよ。それにそんなもん、どうせ何かの細工だろ。まぁ『声』だけなら聞いた」

 味噌汁を一口飲んで答えた柾樹に、他二名の「声?」という声が重なる。


 それは柾樹がチョコレートを土産に数鹿流堂へ戻ってくる、前の日だった。


「客や女中が騒いでいたから、俺も外に出てみたんだよ。そうしたら上の方から『おーい、おーい』と声がした。酔狂が屋根に上って騒いでいるのかと思っていたんだが、『鬼』の仕業ってことになっているのか?」


 話してから、柾樹は芋を口へ放り込む。長二郎が茶碗と箸を持ったまま考え込んだ。


「君の他に……その声を聞いた人は?」

「うん……? いや、誰もそんな話しはしてなかったな」

「へえ……柾樹だけ聞こえたってことか」

 鰯の頭に齧り付いている柾樹の返事を聞き、千尋が目を瞬かせた。


「ささ、どうぞ」

 お滝がお茶を運んでくる。


「急で悪かったね、お滝さん」

「なんの、お声をかけていただけば、いつでもお手伝いに上がりますよ」

 突然の飯炊き依頼も気前よく引き受けてくれたお滝へ、微笑んだ千尋に元気な答えが返ってきた。


「それはそうと、こちらへ上がっていたお女中は、暇払いになったんですか?」

 座敷の隅に座る女が書生三人を見回す。

 刹那、座におかしな静けさが広がった。


「そうだよな。やっぱり女中はいたよな」

 宙を睨んで柾樹が独り言みたいに言う。要領を得ない返答に、お滝はぽかんとしていた。


「ハア……女中を置いてるってお話しじゃございませんでした? あたしの勘違いですかね?」

「はは、こっちの話だよ。何でもないんだ」

 手を振って、長二郎が話題を掻き消す。


 古道具屋にいた『女中』は、二日前に消えていた。

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