火垂る
占拠している離れの四畳半で、柾樹は耳を欹てていた。時計を見ると夜の十二時前。暑いので、古道具屋は襖も障子も開け放っていた。それでも蚊帳の内は風通しが悪い。
――――泥棒か?
外で、草を踏む音が微かに聞こえる。
起き上がった琥珀色の寝癖頭は眼鏡をかけ蚊帳を潜ると、離れの縁側から庭を窺った。夜闇と草が屏風のように隠してしまっているが、何か庭の畑辺りで動いている。柾樹は一旦枕元へ戻り、ピストルを携帯して渡り廊下へ出た。
古道具屋は闇の底で寝静まっていた。
夜更かしの多い長二郎も、文机に姿がない。最近領地になった表玄関近くの、もう一つの四畳半が気に入ったらしいのでそこで休んでいるのだろうと思った。千尋は台所横にある十二畳にいるとわかっているが、最初から使う算段に入れていない。
渡り廊下を過ぎ、庭へ面した大座敷へ向かう。柱の影に潜み泉水の庭を覘いた。紺青に染まる庭で、星屑のような蛍の光が波打っている。その庭の中ほどに見えた白い人影。
「……おゆり?」
目を凝らしていた柾樹は拳銃を懐へ仕舞い縁側へ出た。軒の下へ現れた青年を見た女は、花火の晩に弥助のもとを去って行ったおゆりだった。おゆりがいなくなって三日経過している。蝋燭問屋の後家が、その後どうなったかは柾樹たちの知るところではなかった。
「何しに来た?」
庭下駄を引っ掛け、柾樹は尋ねた。
下宿仲間の誰かが、訪ねてきたこの女を招き入れたのかとも思った。思ったけれど、縁側の前にある小さな畑を過ぎたところで、柾樹の足は自然と止まる。
上空には天の川が白い靄となって横切っていた。時刻は深夜。星明りと蛍火に浮かび上がるおゆりは、髪を丸髷に結っていて、地味な木綿を着、優しい柳眉や小さな口も変わりない。けれど何か異常な無言を伴い、池の畔、蛍達が放つ光の中に立っていた。柾樹の直感が、これ以上近付くなと告げていた。
「『腐った女』ですって」
やおら、おゆりの唇が開いて囁く。
「『あんたみたいな腐った女は陣馬さんに近付かないでおくれ』って、お内儀さんが言う……お養父っつぁん達も、『役立たず』って言う」
女の目は虚空を見つめて微笑んでいた。
「家に戻ったのか? 家に戻って、咎められたのか?」
気でも触れたかと疑いつつ、柾樹が今一度問いかける。おゆりは肩を落とし、とぼとぼ語り始めた。
「どうして? あたしとジンちゃん……幼馴染よ? 生まれ故郷が一緒。兄さんみたいなもの。ちっちゃな頃から知っていて、何でも話せた。困ったときには励まし合ってきた……」
頼りない声でおゆりは呟き続けている。
「長松さんが死んだと聞いて、ジンちゃんは様子を見に来てくれていただけ……会ったのなんて十年ぶりよ。それなのに、なぜおかしな風に勘ぐるの? ジンちゃん、今じゃ帝都の巡査よ? 親も自慢の立派な息子よ?」
真っ暗な池の水面へ視線を移す女の髷は少し崩れ、細い後れ毛がやつれた白い首を伝っていた。
「『あんたがくよくよしているせいで、陣馬さんが巡行線取違いの罰を受けたらどうしてくれる』なんて……そんなつまらないことする人じゃないと、わかっているでしょうに……。何もやましいことなんか無いわ。陣馬さんには、店の片付けを任せられる先はどこぞにいないかと、そういう相談をしていただけ。あたしの役目は親に孝行すること。そんなの言われなくてもわかってる」
おゆりは疲れているようだった。
柾樹は少し離れた位置で女の独り言を聞き、弥助が舟で語った『巡査』の話を思い出して見当がついた。おゆりが巡査に色目を使った、との一件。
――――女房の悋気か。
『陣馬』という巡査の妻が、夫に近付く女憎しで噛み付いたのだ。芸者上りの女から聞いたおゆりの評判も考え合わせると、巡査の妻は近所の女達の仕切り役と思われる。しかし十年ぶりに会った、それも後家となったばかりの幼馴染にまできつく釘を刺すとは、柾樹には感覚として理解しがたい。
「あちらは米問屋のお嬢さん。そのお嬢さんが惚れて惚れて、惚れ抜いた果てに夫婦になったのが陣馬さん……十年連れ添って、小学生を頭に子供が五人。鴛鴦夫婦と有名で。もう充分じゃないの」
微妙に困ったように笑み、おゆりは言う。だが陣馬の妻にとって状況は充分などではなく、直ちに叩き潰さなければならない由々しき事態だったようである。
「近所のお仲間連れてきて、寄ってたかって言う。『うちの人のお人好しにつけ込もうったって、そうはいかない』、『これじゃ旦那も店も潰れて当たり前』、『だから他に相談の出来る友達もいないんだ』、『だらしない女』……」
おゆりの表情も声の高低も、一定で起伏が無かった。徒党を組んで詰め掛けた女達は、一人迎えたおゆりを口々に責め立てたらしい。
「『幼友達でも何でも、あたしの亭主なんだから、陣馬さんには金輪際関わらないでおくれ』って……」
そう高らかに告げた巡査の妻は、相手を叩きのめして愉快だったか。はたまた、ここまで言うつもりはなかったのだと気まずそうにしていたか。何れにせよ、話すおゆりの首は俯き過ぎて、このままだと人形頭のようにすぽんと取れて池に落ちてしまいそうだった。
「……あたしはどうして、こんなに人の縁に見捨てられているんだろう? 廻り合せさえ良ければ、あたしだって行きたいところで、なりたいように、良くも悪くもなれた」
消えそうな声で紡がれる悲嘆と乖離して、女の顔に浮かぶ微笑に変化は見られない。
「ねぇ……あたしが悪いの? 本当に腐っているのは、あたしなの?」
顔を上げたおゆりが、薄い笑みをたたえて尋ねる。庭は増えてゆく黄緑色の蛍の火と、暗い静寂に囲まれていた。黙然と立っている銀縁眼鏡の横を、小さな光が一つふうっと掠めたとき。
「そうして世を儚み、百本杭へ身を投げたのでございますか」
冷やかな声が、ぼやけた闇を貫いた。
柾樹が右後ろを見ると、襷掛け姿の灰色の女中が大きな笊を手に立っている。
「雪輪……?」
驚く青年の横を素通りし、女中は畑の傍らへ笊を置いた。雪輪の身体は平常通り、万遍なく小刻みに震えている。チョコレートの効き目は切れているようだった。白い肌は夜で青く染まり、漂う気配も重く冷え冷えとしている。
「お前……いつからいた?」
「庭におりましたのは、一時間ほど前から」
「何で」
「草むしりを」
「草……」
「裏戸の方へ、草を片付けてきたのですが……」
闇色の庭先で、非日常的な佇まいの娘と柾樹の、生活感溢れる会話が始まる。畑の横には取り除かれた残りの草が、小山となっていた。数鹿流堂のささやかな菜園が維持されていた裏には、雪輪の密かな手入れがあったようである。それは良いが、雪輪におゆりとのやり取りを見られていたと思うと柾樹は妙に決まりが悪かった。
「居たなら、とっとと出てこいよ」
普段の流れで言い、直後に「あ?」と気付いた。
雪輪が自ら、古道具屋の下宿人達以外の人前に現れている。
「おゆりさん」
女中が襷を外して話し始めた。
「何故貴女は、『腐っているのは私なのか』と問うのでしょう? 『やましい事は何もない』……それが真であるならば誰に問う事もございますまい。見ず知らずのような他人に潔白の認めを乞うて何になりましょう」
娘に尋ねられた庭先の訪問者は、ゆるんだ丸髷の下で尚も柔らかく微笑んでいる。
「一つ、お尋ね致します」
語り出した雪輪は背筋を伸ばし、異様につり上がった黒い瞳でおゆりを見据えていた。
「人伝に聞いた話ではございますが……長松さんは、幼い貴女に可愛い櫛を贈られる、優しい一面もお持ちのお方だったそうでございますね。お心が細やかだったのでしょう。そういう長松さんが、成長するにつれて荒んでゆく一方でありました。最期の頃は、まるで自暴自棄といったご様子。理由は様々考えられましょう。お身体の加減や、お店のご事情など。けれどそういった理由の一つに、妻の心に居るのが己ではなく、陣馬さんなのではないかという疑念があったのではあるまいかと、わたくしはお見受け致しましたが如何でございます?」
青白い女中の尋問に、水の畔で突っ立った丸髷の女は反応しない。
柾樹はそれらを見る傍で、別のことを考えていた。庭に湧いているはずの“蚊”がいない。柾樹の頭の半分はおゆりの事情より、雪輪が蚊に刺されていない様子で、こいつはどうやって蚊を追い払ったのだろうと、どうでも良いことで占められていた。
「おゆりさん。貴女は神経質な夫君がねじけてゆく理由も、ご承知であったのでは?」
雪輪が確かめると、おゆりの頭がふらふら揺れ始める。
「ちがう、ちがう、そんなの……」
女は頭を振り、僅かに身を捩らせた。
「何も無かったのでしょう。陣馬さんと十年会っていなかったという、それも事実と致しましょう。ただ貴女は陣馬さんとの思い出や、共に帝都の空の下にいてくれることを、心の支えとしておられました。それだけと申せば、それだけでしょう。でも貴女以外の人々は、それだけ、と悠長に構えてはおられませんでした。特に夫の長松さんは、妻の心に染み付いた陣馬さんの影が気になって仕方がなかったのでは? 気付いてしまった時期は、存じ上げませんけれど。純白の絹布に一点、紅い染みを見つけてしまえば、もはや見逃せなくなってしまうように」
雪輪は無感情に続ける。すると
「あたしは! やましいことなんか何も無いッ!!」
火を吹くような激しさで、おゆりが高く叫んだ。
「さんざ苦労した! 叩かれてもいびられても辛抱した! 長松さんのお世話して! お義父っつぁんの言う事何でも従って! おっ義母さんの分身になって! それなのに、長松さんも、お内儀さんも、みんな勝手にあやしむ! 疑ってかかる! 汚らわしいなんて言い触らす! どうしてッ!!」
しかしおゆりの青褪めた顔と激情の向けられた先は、雪輪でも柾樹でもなく夜の黒い水面だった。叫ぶ声は肉を持たず虚しく、何の熱も力もなかった。
「可憐な貞淑でございましたね。それでも貴女が健気に振る舞うほど、長松さんの目には『欺かれている』と映ったのではございませんか。また、長松さんはそういうご自身をも情けなく思われていたのでは? 悩み患うほどに長松さんの精神は、痩せ枯れてゆきました。おゆりさんは傍らでそれを見ていらっしゃいました」
青白い女中は先を続け、おゆりは再び沈黙に埋もれてしまった。柾樹は嫌になってきて目を逸らす。
「それゆえ長松さんが亡くなられた後、陣馬さんのお内儀の痛罵を切欠として、貴女は己を消し去ろうとまでなさったのでは? わずらわしい何もかもを捨ててしまおうと……。そして大川へ身投げを試みました」
雪輪の語りに、おゆりから否定は無かった。柾樹の注意が人間の方へ戻る。
「じゃあ何で、弥助のところへ転がり込んだんだ? やっぱり捨て身のヤケクソで……?」
「たしか小林さまに、『運命』と仰っていたそうですね?」
柾樹に尋ねられた雪輪は小首を傾げ、丸髷へ問いを向けた。おゆりは水平に視線を動かし、やがて唇の端が微妙に上がる。
「誰もあたしを助けちゃくれない。自分で自分も救えない……そう思っていた目先へ、飛び込んできたんだもの」
欄干の下に履物を並べ、手足を縛ったおゆりが両国橋から身を投じた時だった。
駄目だやめろと、騒がしい男の声が聞こえたのは覚えている。直後に大川の水面へ叩きつけられた衝撃と、水音も聞こえた。痛かったが意識は遠のくだけで、消えてはくれなかった。期待していたより身体も沈まなかった。そして流される前に襟首を掴まれ、川面へ引き上げられた。周辺の舟が寄ってきて助け上げられ、船頭達が「身投げだ」と騒ぐ只中で
『無事か? 息はあるな? 怪我はねぇか?』
ずぶ濡れの小太り男が、切れる息を何度も飲み込み、声をかけてきた。男は水を吐き出して咽るおゆりの手首と足首の紐を解こうとしたが、指がうまく動かないようで、中々紐は解けなかった。
『よく辛抱したな。死にたくなるワケがあるんだろう。そんな日もあらぁな。でも運が悪かったと思って、今夜死ぬのはやめてくんな!』
頭に枯葉や塵を貼り付け、中年男は笑っていた。『あたしのことなんて何も知らないじゃないの』という文句も失せるほど、男の笑顔は明るかった。舟の灯りを頼りに、ぐずぐずに解けた髪と水草の下から見上げておゆりは思った。
――――きっと、この人だ。
「目が開いたように思えた……考えが引っくり返った。今まであたしの周りにあった『運命』こそが、みんな間違いで」
語るおゆりの微笑みは、小さな切欠で泣き顔へ変わりそうだった。
「身の危険も顧みず飛び込んで下さった小林さまこそが赤縄繋足の……『あるべき正しい運命』のお方ではあるまいかと?」
雪輪の言葉に、虚ろな女の目はまた池の水面へ滑ってゆく。
「でも違った……弥助さんは帰れって言った。助けてくだすったのも、あたしだったからじゃない。顔も覚えていなかった。身投げを見かけたから助けただけ。鶴でも誰でも助けてくれる、いい人だから」
くす、と笑った時のおゆりの顔だけは、いつか狭い長屋の台所で見せた微笑と同じだった。
柾樹は目を擦る。おゆりの姿が少しずつ斜めになっていくのだ。暗いのと近眼で、ぼけているのかと怪しむ間も、おゆりの姿は失敗した写真みたいに斜めに歪んでいく。
「まこと残念でございました。当今は自由でございますとか、権利でありますとか、大いなる愛というものもあると耳にいたします。次はそちら様へ、お救いを乞うてみては?」
雪輪の声は研いだ刃に似て、澄んだ声は鼻持ちならない御託を並べ始める。
その言葉が並びつつあるうちに、歪んでいたおゆりの姿は夜に溶けて見えなくなってしまった。
「消えた……?」
蛍が漂う池の畔に、丸髷の女は見つけられない。秋の気配が忍び込む庭で風は流れず、無数の蛍と、無音の天の川が流れているだけだった。
「何なんだあれは?」
柾樹はだんだん腹が立ってくる。
「嫁いびりだの女の喧嘩だの、どこにでもあるだろ? くだらねぇ事情で、弥助を巻き込みやがって!」
言いながら柾樹が振り向くと、灰色の女中娘が青白い面を上げた。
「……わたくしは、ご同情申し上げますよ」
ぽつりと呟き、長い睫毛に縁取られた黒い瞳が伏せられる。同情などという湿った単語を出され、柾樹は急に喉が詰まる。
「おゆりさんは、望まれた姿でいなければならなかったのでしょう。支えであった陣馬さんも、救いとはならなかった様子。外より潰され、内より押され、息も出来ぬ日々であったかと。しかしながら……」
言うなり、雪輪はつかつかと歩み寄った。白い手を伸ばし、柾樹の左手をとる。そしてひたすら驚愕している青年の背後を、つり上がった漆黒の目が見つめた。
「離してくださいな」
冷えきった静かさで呼びかける。
後ろに誰か居る。雪輪の視線を追って左後ろへ首を回した柾樹は、「う゛」と呻いた。影に似た手だけが見えた。細く青黒い手が、柾樹の寝巻きの袂をぎゅうと固く握り締めている。
「この人も違うでしょう? 帰りなさい」
闇の中から伸びた影なる手に、雪輪が強く命じた。影の手はゆっくり袖を離し、透けて消える。同時に、雪輪の手のひんやりした感触も離れた。寝巻きの袂を何度も払っている柾樹の隣で、雪輪が地面に落ちた櫛を拾い上げて言う。
「あれが、『生霊』というものでございましょうか」
泉水の畔に落ちていたのは、兎の蒔絵が施された子供用の半月型の櫛だった。花火の晩、千尋が舟で弥助から預かった品。古道具屋の道具の山に置かれていた櫛が、どうして庭へ転げ出たのか柾樹が考えているうちに
「これ以上、迷わなければ良いのですけれど」
手の中の櫛へ向け、雪輪が小さな声で言った。そして立ち上がると、切れ長の目が柾樹を見る。
「容易く袖を引かせるなど、柾樹さまらしゅうございません」
「ああ?」
娘の憎まれ口で、銀縁眼鏡の方も声が戻った。
「そんなこたぁどうでもいいんだよ。聞きてぇことは山ほどあるが……」
一歩近付き、問い質そうとした柾樹の鼻先へ、雪輪が月兎の櫛をつき付ける。何の真似かと、櫛を持つ手の主を睨んだ。
「これは、ご恩返しでございます」
「恩返し?」
恩返しどころか、果たし状でもつき付けられた気分の青年へ娘は言った。
「先達て、白岡さまの詮議の折、話を逸らして庇ってくださいました。そのご恩返しにございます」
雪輪のそれを聞いた柾樹は、ムッとした気分が鼻の皺に出る。
突きつけられた櫛を、右手の甲で追い払った。
わかっている。千尋が『狸に化かされて』雪輪に詰問したとき、柾樹は千尋の話しを逸らして撹乱した。自分で承知している。でもこの自覚を、自覚したくない状態で今まで過ごしてきた。なのに娘の方から『庇った』と言語化され、ムッとしたのだ。恥をかかされた気がした。
「でも、これよりは。何卒、何もお尋ねになりませんように」
雪輪は青白い顔で、決まったように言ってくる。
「知らぬ方が良いこともございます」
語る娘の指が細かく震え、半月型の櫛を撫でているのを、眼鏡越しに見ているしかなかった。
『どこまでも腹の立つ女だな』と、はらわたは煮えくり返っている。しかし「別に庇ったわけじゃねえ」「図に乗るな」と、言い返したいことが一気に百ほど出てきて渦巻いているうちに、発言の機会は流れてしまった。
「お前なんか大っ嫌いだッ」
柾樹は一歩近付き、娘の顔を覗き込んで言った。だがこれだけでは、自分が折れたみたいで面白くない。
「聞きたくなったら聞くからな。覚えとけ」
鼻先で言ってやると、雪輪が僅かに息をのんだのがわかった。それを見てまず溜飲を下げ、機嫌を持ち直した柾樹は、今夜だけ見逃してやる事にした。




