花火
兎角、『触らぬ神に祟りなし』という。
関わりさえしなければ、害を受けることもない。そういう先人の教えである。しかしカミの中には、頼んでないのに自ら寄ってきたりするものもいる。
ジジイとババアの惨劇の目撃者となった柾樹たちは、出来るだけ速やかに両国広小路を去ろうとした。役に立たない思い出を、どうやって処分しようかと、そちらへ意識を向けていた。そこに
「おう、お前らこんな所で何してやがる!?」
あろうことか、陽気な声が背後から襲い掛かってきたのである。振り向く前に、弥助本体が千尋の背中を突き飛ばし、長二郎が青褪めて「ひい」と叫んだ。追いついてきた鳥打帽は長二郎の肩をばしばし叩く。
「付き合え、ちょうど良い!」
「良くねぇ」
「そう言うなよ!」
柾樹の返事と都合は却下され、中年男は「こっちだ、こっち!」と書生達をどこかへ導いていく。何故そんなに元気なのか。
「さっき、袖にされたんじゃなかったのか……?」
ひそひそ尋ねる長二郎に、柾樹もわけがわからないので首を傾げた。仲間達の後をよろめきついてくる千尋を含め、アレはみんな勘違いだったのかな?と思った。
だがこれが、勘違いでも何でもなかったりする。
近くの船宿では、屋根船が支度されていた。万事片付いて幕となったら、弥助は女を伴い乗って出るつもりだったのだ。それと悟り、生きた心地もしない書生三人は、美しい女の代わりに舟へ乗り込んだ。日も暮れて涼しくなったはずなのに、人の多さと弥助の存在感で息苦しさは増したようだった。
そのうち舟は夜へ漕ぎ出す。
手酌で注いだ酒をあおって、弥助が先の事情を語りだした。
「トンだ目にあったんだ」
弥助は弟分達が、最初から最後まで見守っていたと知らない。おゆりを連れ出し、両国橋に来るまでを、詳細に説明してくれた。
――――……どういう心理なのだろう?
――――全くわからん。
――――葬式で張り切ってるようなもんじゃねぇのか?
目線と首の振り方で書生三人はやり取りし、たぶん今の弥助はそういう状態なのだろうと解釈した。弥助は、誰かにコトと次第を話さずにいられないのだ。前々から、何か“事件”が起こると喋り倒しに来る傾向があった男である。
「『そろそろ隠し事は無しだ』と、俺は言ったのさ」
何日もかけて支度を整えた弥助は、長屋からおゆりを伴って両国橋まで来たのだと語った。
出掛ける建前は大川の花火。両国橋まで来て、おゆりも繁華の賑やかさの中で楽しそうにしていて、ここまでは計画通りだったのである。
今しかないと、弥助は初対面の折おゆりが言ってきた『女房にして下さい』の頼みを引き受ける気があると告げた。
――――あの頼み、聞いてやってもいい。
しかし、その前に。
「『ここで全部話してくれ』と、こう言ったのさ。夫婦になろうってんだ。隠し事なんて、水くせぇ。取っ払って当たり前だろ?」
「……うん」
「……はい」
「……僕らのような若輩者には見当も付きませんが、まず何を聞き出そうとしたかお聞かせ願えますか」
コハダやアジの並ぶ桶を箸で突く書生たちの返答は、歯切れが悪い。ここまで来てしまった以上、聞かないという選択肢を選べないのが、また辛い。
「だからよ……おゆりの事情を、洗いざらいだよ」
「と、言いますと?」
どんな時も食べ物があれば食べる長二郎が、雀焼を頬張って問い返す。
弥助は蝋燭屋の後家であることを始め、おゆりの身辺情報は既に把握していた。それでも、おゆり自身の口から身の上を打ち明けさせたかった。そこでおゆりの『隠し事』について尋ねたのだ。けれど女は川面と指先を見比べ、告白してくる気配もない。
「言い難いか、そうだよな……と思ったんだよ。でもこれじゃ『夫婦』としておかしいだろ? だからここは男として、俺が代わって洗いざらい話してやることにしたんだよ」
「ええ~ッ!?」
長二郎が叫んだが、弥助は叫ばれる理由に心当たりがないという顔をしていた。過去も未来も全て共有、一蓮托生が夫婦の道という、弥助なりの真面目な理屈からの言動なのだから仕方ない。
『なぁ……おゆり? お前さん、子供の時分に因幡屋の養女になったんだろう? そうして年頃になった頃、家の一人息子との縁談が出た。今まで兄だった長松だ。要は長松の二親が、親心から病弱な息子を不憫に思い、嫁にする心積もりで、お前さんを仕立てておいたんだな。そうだろう?』
海の匂いが混じる川の風と、往来のざわめきに包まれて弥助は言った。
おゆりは一度、こっくり頷いた。
『“女房は台所からもらえ”と言うからな。だが夫婦になって何年経とうと、長松の悪い性分は治らなかった。子供も授からねぇ。老いて弱ったら倅夫婦に養ってもらい楽隠居と思っていた二親は、機嫌が悪い。近所に嫁の有ること無いこと吹聴する。巡査に色目を使ったなんて噂もあったなぁ?』
話しを進める弥助は、おゆりの顔色に注意を払っていた。おゆりが泣き出したりすれば、即座に止めようとは思っていた。しかし女の顔は赤くもならず青くもならない。これなら無事と弥助は安心し確信していた。
『果てに、頼りの長松は事件で死別れだ。おゆりも身投げの一つや二つ、したくもなったろう。だがそれもこれも、おゆり一人のせいじゃねぇと思うぜ? 運が無かったんだ。こればっかりは恨んだって始まらねぇ。前世の因業と思って、始末しちまいな。どうしようもないときってのは、あるもんだ。一々気にしていたら、浮世じゃ半日も生きちゃいけねぇよ』
世渡りを説く小太り男の横で、女は極僅かに頷いていた。
『過ぎた事は仕方がねぇや。肝心なのはここからだ!』
辛い話を長時間していられない弥助は、大きく声を張った。
『おゆり。まずは因幡屋へ戻れ!』
笑顔に添えて出された提案で、おゆりが「え?」と斜め下の男の顔を見た。
『一昨日になるな。因幡屋の隠居夫婦が、届けてきたぜ』
驚きで見開かれた女の双眸を見返し、弥助は伝えた。伝える中年男の胸もまた痛かった。
これまで因幡屋の老主人は、おゆりの家出を周囲に隠していたという。
――――おゆりは親戚の家へ行っている。
そう話していた。だが日が経つにつれて隠しきれなくなり、身近な人々の勧めもあって、先日警察へ『恥ずかしながら』と届け出たのだった。
『お前さんのことは報せておいたぜ。またどこかで身投げしているんじゃねぇかと、気を揉んでいたからな。ああ、俺のところに居るってのは伝えてねぇよ? だが今も心配しているだろう。“親を思う心に勝る親心”と言うからな。育ての親も同じことさ。親の恩は海より深い』
欄干に凭れ、弥助はとくとくと説いた。
『老い先短い年寄りだ。一粒種の倅を亡くし、育てた娘までいなくなって、心細いだろうよ。おゆりだって、恩義のある家を捨てて後は知らぬ存ぜぬなんざ、本心は望んじゃいねぇだろう? 戻ってもしばらくは気まずい時もあるかもしれねぇな。しかしここが踏ん張り所だ。みんな我慢や辛抱を重ねているんだ。なに、心配するこたあねぇ。俺がたまに様子を見に行ってやるからよ』
激励して、弥助は相手の反応を待った。
――――どうだ?
そこで女は唇だけ、震えるように微妙に動かした。けれど音にはなっていなかった。中年男は自分の視線より多少上に位置する女の後れ毛が、首筋で風にゆれるのを眺めていた。両人の間に空白が過ぎていき、それに先に耐え切れなくなったのは弥助だった。
『おゆりも、もう若くねぇだろう? 年増で、未亡人で、手を取ってくれる子も無い。からかってるわけじゃねぇ、俺だって同じさ。お互い心細い独り身だ。だからまずは孝行の筋を通して……』
『弥助さん』
再び話しが止まらなくなりそうだった男の口を、おゆりの声が止めた。
『弥助さんは大した探偵さんね。あたしのこと、何もかもご存知でしたのね』
そう言って、おゆりは笑顔を開いた。これまで見せたことのない明るさの笑みだった。
『仰るとおりです。あたしは七つの頃、因幡屋へ貰われました。長松さんの妻になるためです。始めから決まっていたんです。でも、あたしは申し訳ないことに、そのつとめを果たせませんでした。おしまいには勝手の極みで川へ身を投げ、お陰さまで命を救っていただいた後もお家を省みず、他所様に入り込み女房の真似事なんぞしておりました』
おゆりは晴々とした顔で言う。瞳は暮れゆく対岸と橋を行き交う人々を映していた。その微笑とセリフが、支度していた筋書きとズレてきて、弥助は戸惑った。
『お、おゆり? 俺は……』
『弥助さんの仰る事は、みんな道理がとおっております』
おゆりはしっかり頷いた。その手は橋の欄干を固く握り締めていた。
『因幡屋へ戻ります。そしてこれからは心を入れ替え、夫の菩提を弔い、二親に生涯尽くしてまいります』
きっぱり明言し、女は弥助へ礼を述べて一礼する。
そうして、その場から走り去ったのだった。
「……それで、おゆりさんはいなくなってしまったんですか?」
「そうなんだよ」
千尋が確認し、弥助は頷いてまた酒を口へと運んでいる。
やはりおゆりは去ったのだ。
柾樹は箸を放り出して無言だった。根が繊細な長二郎などは、冷や汗を流して倒れそうになっている。それを目の当たりにしてまだ、弥助は平素と変わらない速度で酒を注いでいた。
「この前オレ達の聞いた『試し』は、無駄になったのかぁ……」
一時おいて千尋から出てきた発想の音痴具合に、柾樹と長二郎だけは救われた気がした。
「そうですよ、弥助さん」
「あん?」
「どうして早く口説かなかったんです? 余計なことばかり言って」
長二郎が問いただすと、ここで中年男は、やっとそれなりの反応を示した。
「えーいッ! 小僧が偉そうなこと抜かすんじゃねぇ! まずはあっちの親に、嫁にくれと申し出られるようにならなけりゃ、ただの卑怯者じゃねぇか! それにおゆりと話すにしても、順序ってもんがあるだろう?! 順繰りに話しを重ねていって、正に言おうとした矢先に!」
「そうですけど! ここまで来たらそんなのどうだって良いんじゃないですか!?」
互いに声が大きくなった。だが弥助は鼻先を右手でこする。
「へん、何さいいってことよ。女なんざこんなもんなんだ。仕様がねぇ」
軽く言葉を投げ、杯の酒を一気にあおると懐からホイと転がしたのは、月に兎の小さな櫛。出掛けるとき、長屋の中に落ちていたのを拾ったが、おゆりに渡しそびれたという。丸顔が、やがて少々苦い笑みを浮かべた。
「ま……これで俺も痞えがおりたよ。ワケアリ女を叩き出すのも忍びねぇと、いっそ女房にしてやる心積もりだったが、これならこれで良いってことよ。それにどうも気が休まらなかったんだ。まるで他人の家みてぇでな。女房ってのはさぞかし満足なもんだろうと思い込んでいたが、落ち着かねぇや」
弥助の声にも仕草にも、沽券を気にしたり傷付いている様がなかった。おゆりが押しかけてきた当初あれほど動揺し混乱し、口説くの口説かないので大騒ぎしていた弥助なのに。
「どうしてあんなに端然としていられるんだろう……?」
苦しみの解消しない長二郎が、隣で冷奴を崩している柾樹にこそりと尋ねる。
「ああ言う以外、ねぇだろうが」
豆腐に集中している顔の柾樹は、死んだ魚のような目で解説した。「すみませんでした」と長二郎も大人しく引っ込み、終わりゆく夏がゆらゆら過ぎていく。
そのとき、ヒョウー……と笛に似た甲高い音がして、とろける夜空と黒い川面に三色の花火が咲き開く。空気がずしんと振動し、人々の歓声と「万歳!」の声が波間に拡がった。
「そうか……秘密を知られてしまうと、不思議はいなくなってしまうんだな」
舟の簾越しに花火を見上げた千尋が言って、コハダを口へ放り込んだ。




