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合縁奇縁

 間もなく夜がやってくる。

 滑らかな川面はとろとろと揺れ、風は殆ど流れていない。両国橋の東も西も、人で溢れていた。人々は花火を待っている。中々天候に恵まれず、延期に延期を重ねていた大川の花火だった。夜空の彩りを待つ川の両岸は、ごった返している。


「ああ!? おゆりを口説く!? 弥助が!?」

 暮れゆく晩夏の賑わいを、柾樹の声が蹴破った。


「くっだらねえええ! 何で俺がそんなもん見物しなけりゃならねぇんだ! いやだぞ俺は帰る!」

 友人二人に向け、長身の金茶頭が怒鳴っている。銀縁眼鏡の奥で眦がつり上がり、結構本気で怒っている顔だった。でも今日は長二郎に加えて、千尋も怯まない。


「弥助さんが決心の臍を固めたんだぞ!」

「見ろ! あの足元のおぼつかない様を! 口説く前に息の根止まりそうだろ!?」

「止まっちまえ瓢助め!」

「僕らだって生き地獄を味わったんだ!」

「そうだ! 柾樹も同じ目に遭え!」

「何だってそうなるんだよ!?」

 書生達の不毛な怒鳴り合いを避けて、花火に浮足立つ人々が行き過ぎていった。


 三十分ほど前。

 しばらく外出続きだった柾樹が、野良犬が戻って来るみたいに数鹿流堂へ戻ってきた。すると準備を万端整えていた長二郎と千尋に、「両国の広小路へ行くから顔を貸せ」と詰め寄られたのである。今宵は花火。断る理由も見当たらない柾樹は、ここまで付き合った。てっきり花火見物だと思っていた。


 しかし内容を改めてみれば、ヘソで茶も沸かせない見世物が始まるという。

 騙まし討ちされた気分で、柾樹は大立腹しているのだった。人口密度の高い場所で、立ち去ろうとする者と、それを通せんぼしようとする者。傍若無人に若造三人がごじゃごじゃ引っ張り合いをしていると、千尋の手が背後を通り過ぎた女に軽く当たった。


「っと、失礼!」

「オヤ、ごめんなさいよ」

 急ぎ詫びた書生に、潰し島田のその女は軽く応じる。

 僅かな隙に、肝心の『見世物』両人の姿が人波へ消えた。


「あ、見失ったか?」

「いいや、あそこにいるぞ。欄干の所だ。ほら、おゆりさんが!」

 コレ幸いと喜んだ柾樹を、長二郎が否定する。再び人波の向こうに、おゆりのうなじが現れた。

 そこへ


「モシ……おゆりを、知っておいでで?」

「はい?」

 書生達に、思わぬ声がかけられた。雑踏を背に、先程の潰し島田が立ち止まり、三人を見ていた。


 女は黒い絽の長羽織に、吾妻下駄。書生達の母親と、大よそ同年代に見えた。痩せていて色黒の肌に尖った顎をし、唇にはしっかり紅を塗っていた。いやにバッチリと目が大きい。


「そちらも……おゆりさんの、知り合いですか?」

 千尋が質問を返すと、女は大きな目を細めた。

「知り合いってほどじゃありません。直に話しをしたのは一度だけで」

「はあ」

 若者達の鈍さに、小柄な女はちょっと苛立った様子で赤い唇の右角を強く結ぶ。


「面倒だね。要はうちに忍び込んだ男の女房が身投げと聞いて、ちょいと調べて、それで知っているだけですよ」

 一息に言った。


「では、長松が忍び込んだ……?」

「オヤ、ご存知。どういう筋の書生さん?」

 終いが消えた千尋の言に、人受け元締めの妾女が尋ねる。


「僕らは今おゆりさんの横にいる、紳士と知り合いなんです」

「アラ、あの旦那の」

 長二郎の言葉で、小柄な女は背伸びして弥助を見た。両国橋の橋の袂では、小太り男とほっそりした女が、寄り添うように並んでいる。女の口元が、微かに笑った。


「まるで夫婦のようだこと」

「ええ、それはもう。ご両人は一つ屋根の下で暮らしているんです」

 千尋が告げたそれを聞くなり「ええ?」と女は見返って

「オホホホホ! そういうこと!」

今度は右の袖で口を覆い、芯から楽しそうに声を上げて笑う。笑う見当がつかない書生たちは目配せし合い、代表で柾樹が尋ねた。


「おゆりを調べたってのは……どういう了見で?」

「オホホ、そんなの暇つぶし」

 ぺろりと舌でも出しそうな女を見て、銀縁眼鏡は顔をしかめる。

「今も暇つぶしでこちらへ?」

 長二郎がにこにこ続けると、潰し島田はすぐさま真剣な表情をつくった。


「いえね、人力車くるまで通りかかりに、見えたんですよ。いつぞやの身投げ女が男連れ。面白いねぇ。景気付けに、厄病神に憑りつかれたみたいなあの女のツラを、もう一度近くで拝んでやろうって寸法ですよ」

「糞ババア……」

 呟いた柾樹を千尋が「コラ」と叱る。冷やかしに来た神経の太い女は、横目で若者達に微笑した。


「ここでお会いしたのも何かの縁。少しばかり、教えて差し上げましょうか? おゆりのことをさ」

 影の差した笑みで囁く。そして書生三人が、否とも応とも言う前に


「おゆりはね、長松が盗みに入った翌日、ウチへ詫びに来たんですよ。ぶるぶる震えながら、一人でね」

 三ヶ月前の出来事を物語り始めた。唇に浮かんでいた微笑は、どこかへ引っ込んでいる。


「一人で? ……大した度胸だ」

「妻女の鑑だな」

「鑑ねぇ……」

 千尋と長二郎の想像を、妾女の白けた呟きが止めた。


「マァ、世間はそう見たようでございますね。でもあたしは違うと思いますよ。あの女は、そんなに出来た女じゃアない。周りが『やって欲しそうなこと』を嗅ぎ付けて、先回りしているだけのこと。何も考えてなんかいやしません。自分がやりたいか、やりたくないかも二の次。そういう女はいるんでございますよ」


 芸妓上がりと思われる女は、一度しか話したことの無いおゆりについて、自らの見解を披露する。聞かされても書生三人の内、二人は無反応。長二郎のみが、「そういうこともありますか」と相槌を打った。


「それで詫びに来たおゆりさんを、どうしたんです?」

 確かめた長二郎へ

「どうもしやしません」

バチバチと音のしそうな瞬きをする潰し島田は、堂々としていた。


「うちの若い衆が血気に逸って、長松を半殺しにしちまったでしょう。あれじゃもう、どっちに道理があるかわかりゃしない。うちの旦那もきつく叱りつけて。おゆりには亭主の養生にお使いなさいなと、見舞いの一封渡して帰したんですけど、養生する前に死んじまいましたねェ」

 放言した。馬鹿にしているとはいわずとも、簡単に死んだ長松に呆れている風にも響いた。


「あの時、おゆりに『アンタも人に言いたいことがあるなら、チャンと言った方がいいよ』ってな話しはしたんです。それが一月もしたら、大川へ身投げときたもんだ」

 手を振って話す女は、おゆりの身投げまで手軽に始末する。


「おゆりはどんな女なんだ? アンタ知ってるんだろう?」

 腕を組んだ柾樹の質問に、「ええ」と細い肩をすくめると

「近所じゃ嫌われていますよ。『男好き』だの『悪婦』だのと言ってね。あの辺りの女房どもは、口もきかないそうで」

年長の女の言い様は、なだらかだった。


「『よその旦那に色目を使い、果ては亭主の留守中に相手を家へ連れ込んだ』と、悶着したこともあるくらいです」

 妾女の情報で、聞き役三人は「おお」と声を上げる。驚いている書生達に、潰し島田はどこか婀娜っぽく苦笑した。


「でもね、おゆりが男を引き込んだって話しは半分ウソ。アタシの知ってる限りじゃ、おゆりは何もしちゃいません。ただあの女は、女の付き合いに入れてもらえなかった。そのせいで何をしても、何を言っても、噂の種にされて、しゃぶられているんでございますよ」


 弥助とおゆりを遠く橋の袂に眺める女は、極めて卑俗な話しをしている。にもかかわらず、それと感じさせない。全体がお座敷芸のようだった。


「近所の女房方が、仲が良過ぎるのかな?」

 首を傾げる千尋を前にしては

「ハテネェ? そうなのかもしれませんね。自分がしゃぶられないように、必死で四六時中付き合い続けるのが、仲が良いっていうならねェ」

目尻の皺を幾本か増やし、女はにこりと笑いかける。


「男どもも悪いんですよ? おゆりの器量を、後先考えもしないで褒めそやすから。『うちのカカアに会う前に、おゆりさんに会ってりゃなあ』なんて言ってごらんなさいましな。カカアもオカンムリになるってもんですよ。酒のせいだなんて、言い訳通じるもんか。馬鹿は本当にタチが悪いですよ。おかげで女はどんどんおゆりから離れていく」


 行きずりの気軽さが、多弁にさせているようだった。色黒の尖った顎が、もう一度弥助達のいる橋の方を向く。


「お若い書生さん方には、とてもお分かりにならないでしょうけれどね。ああいう連中は、仕切り役の女に気に入られなければ、それひとつでダメなんです。そうは言っても、おゆりも頭が悪いよ。仕切り女の旦那と、懇意にしていたっていうんです。睨まれるだけですむはずがない」


 蝋燭問屋の後家の背中を見、潰し島田は息を吐いた。しかし長松のくだりのときと同じく、言葉に同情の気色はない。近付き過ぎずジトジトしない辺りは、帝都で生きてきた女という感じがした。けれどそれは瑞々しい心の豊かさを基底とする、気風の良さとは異なものだったろう。でも柾樹たちには無用の事柄であるため、彼らも何を思うでもない。


「オヤマァ、すっかり話し込んでしまいました。行かなくっちゃ。久しぶりにここまで出たのに、これ以上待たせたら旦那がヘソ曲げて、舟遊びがおじゃみになっちまう」

 本来の用事を思い出したお妾は、笑顔と挨拶を残して人の波間へのまれていった。黒い長羽織が視界から消えるまで、書生三人はその場で雁首並べていた。


「……どうも俺が思っていたのと違うな?」

「僕もだ。おゆりさんは良人を亡くした傷心で、世を儚んだと思っていたが……」

「女はこわいな」

 それぞれ呻く。ここへ到着したとき橙一色で染め上げられていた空には、紫の幕が下りてきていた。


「そうだ、弥助とおゆりさんは……?」

 千尋が言い、他の二人も両国橋へ焦点を合わせる。

 巨大な木の橋の袂に、両人は居た。書生達が女と立ち話しをしている間、あちらも話し込んでいたようである。


 と、おゆりが動いた。

 弥助に深く一礼し、踵を返して駆け出した。


「あれ?」

「うん?」

「ええ?」

 急だった。

 見物人達が目を疑っているうちに一切振り返らず、一目散といった勢いで女は両国橋を走り去った。


 弥助を見れば、動かない。おゆりを追いかけると思いきや、追いかけない。『畜生!』の罵声もない。石像みたいに微動だにしない。背脂の厚くなってきた後姿が見えるのみで、中年男の表情は伺い知れなかった。


「……逃げたか?」

「……逃げたな」

「実に華麗な逃げっぷりだったじゃないか」


 この三人には、これが捻り出せる言葉の限界だった。誰も弥助の大成功など見たくなかった。でもこんな景色も見たくなかった。


 夜を待つ広小路は、ますます賑やかになり人数は増えていく。はしゃいだ唄や笑い声を乗せ川面を流れる舟も、川の両岸も、大小数多の燈灯で彩られていた。

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