かなめ
黄昏にはまだ早い。
風に乗り、子供らの唄が流れてくる。
――――子をとろ子とろ どの子がめづき あァとの子がめづき さァ取ってみやれ……。
唄から逃げるように、両国橋西詰めH町の細い路地より少女が一人飛んで出た。赤いリボンを頭にのせている。その女の子を、同じく路地から出た坊主頭が捕まえた。ピンクのひらひらした帯を引っ掴み、軽々と抱え上げる。幼い「きゃあー」の悲鳴に、道行く多くの目が二人を見たが
「放せー! 与八郎!」
手足を振り回す少女と、彼女に殴られても蹴られても憮然とした表情で耐えている青年の様に『害は無い』と見て、それぞれ雑踏へ戻っていく。
「どうして紅葉がここにいるってわかった?!」
紅葉の怒りの尋問にも、若い門番は何を答えるでもなかった。ただ
『……わかりたくて、わかったのではない』
と、日焼けした四角い横顔には書いてあった。
今日は大川の花火がある。
紅葉は母親のよしのや伯母のやすのや、友達その他と花火見物へ繰り出すことになっていた。それが、出掛ける直前に脱走したのである。捕まえてくる役目は普通にというか、与八郎へ回ってきた。職務に忠実な与八郎は、普段の行動パターンと状況から考えてここだろうと見当をつけ、見当が当ったからこそ紅葉は捕縛されている。
紅葉は屋敷を抜け出すことこそ、それなりに上手い。しかし隠れるのも逃げ回るのも下手だった。逃げ足も平均より遅い。何も無いところで転んだりする。威勢が良くて大人しくしていられないという点はお転婆だが、運動神経はイマイチなのだ。
少女を肩に担ぎ、与八郎は板塀に沿って歩き始めた。
「花火が始まっちまいますよ、お嬢様。指折り数えて楽しみにしてらっしゃったんでござんしょう。舟で皆様お待ちです」
自分より十一年下のお嬢様へ語りかける門番は、相撲取りにも負けないほど筋骨逞しく紺の半被と白股引姿。
「だめー! 柾樹兄さまも連れてくるんだっ!」
紅葉はまだ脱走の目的達成を諦めていなかった。慕っている叔父を連れてこようとしたのだ。
納涼船に同乗して花火見物なぞ、紅葉の母親であるよしのが許すはずもない。あの二人が顔を合わせたら、また大喧嘩になるのは火を見るより明らかだった。そう直接指摘するのは憚られたので
「いらっしゃらないものを、どうやって」
婉曲に言ったものの
「イヤだー! あきらめないぞー! 柾樹兄さまと一緒に花火が観たいいー!」
紅葉の我侭は収まらなかった。
「きっとご友人達と一足先に、花火見物に出掛けなすったんですよ」
古道具屋の裏口の戸は閉まっていたし、応答が無かったのは与八郎も確認している。
「紅葉も一緒に行きたかったッ!」
宥める門番へ、少女の願望がぶちまけられた。
「柾樹兄さまが悪いんだ! せっかくこの前帰ってきたのに、やすのおばさまとは会ってお話ししたのに、紅葉に会わないでまた出かけちゃうんだもんー!」
紅葉はびーびー喚いている。
「会食がお気に召さなかったんでござんしょう」
与八郎は適当な口調で、適当に答えた。
二週間より前にもなろうか。
柾樹が駿河台の屋敷へ戻ってきた。そこで御曹司は、家令の大山と姉のやすのに見つかった。姉だけなら見逃してくれたかもしれない。しかし口喧しい三太夫はそうはいかない。当主の重郎が居たのもあって、折悪しく予定の組まれていた紳士淑女の会食へ連れて行かれたのだった。日付が変わる頃、馬車で戻ってきた。姉がお菓子やら何やら使ってご機嫌を取っていたそうだけれど、坊ちゃんは翌朝には消えていたというから、すぐ逃げたのだろう。
たぶん、それらの事でやすのが口を滑らせた。柾樹が帰って来ていたと知らなかった紅葉はヤキモチを焼き、屋敷を飛び出したのだ。
紅葉は柾樹に懐いている。屋敷で変な陰名をされていようと、琥珀色の髪をした若い叔父を自慢にしていた。こんな姪っ子だけは、柾樹も自分の身辺にじゃれつくことを許している。しかしこうして押しかけられても、世話が焼けるわけで。
――――いちいち子供の相手なんぞ、していたくないだろうよ……。
寡黙な門番は心の内で呟く。それから、今もって『小鬼』と呼ばれる新興子爵家の跡取り息子に、少しの同情を寄せた。家柄も身分もかけ離れた与八郎でも、あの坊ちゃんが家出したくなるのは然もありなんと思う部分がある。
爺や同然だった源右衛門が去って以降、屋敷で柾樹と会話をする相手は、長姉のやすのと紅葉くらいだった。与八郎の知る限り、柾樹は屋敷内で一人でいる。人は大勢居るけれど柾樹は無視しているし、人々も近付かない。それは肝心の坊ちゃんが乱暴で気紛れで、我侭で人嫌いなのが大きい。だが理由は他にも思いつく。
「柾樹坊ちゃんは、大旦那様にそっくり」
恐ろしくてお顔を拝めないと、下男も女中も囁いた。特に目の鋭さが、一代で財を成した柾樹の祖父、幸兵衛と映したように似ているらしい。幸兵衛の息子で柾樹の父である重郎より、よほど似ているという。使用人で一番年の若い与八郎は、相内家の絶対権力者だった『大旦那様』と面識がない。それでも柾樹が時折覗かせる凶暴さなどで、幸兵衛の人物像は予想がついた。
与八郎自身は柾樹を小鬼と呼ばないし、思っていない。そんな趣味は好むところではなかった。柾樹が笑うとどういう顔になるのかも知っている。けれど、それは坊ちゃんの爺やだった源右衛門や、姪の紅葉と近い距離にいるからであって、会話をした事は殆どなかった。だから個人としては、『たまに一人であやとりをしている変な坊ちゃん』との認識しかない。柾樹と何年も交遊関係を維持していられる、友人の長二郎や千尋が変わっているのだ。
与八郎は足を止め黒塀を見上げる。『坊ちゃんの下宿先にも、女中がいるそうだ』との話しを、父の次郎がどこかで拾ってきた。次郎も源右衛門と門番仲間で親しかったため、柾樹から『人間として認められている方』であり、倅と年の近い坊ちゃんを意外と心配している。
古道具屋の女中は、扱い辛いと評判の御曹司を相手にどんな顔して奉公をしているのかなと思った。きっと美人だろう、とも思っていた。
上の空になっていた青年の肩で、少女が声を上げる。
「あ……! 与八郎、アレ!」
何か見つけて背後を指差す紅葉の声に、振り仰いだ。
与八郎が見たのは、古道具屋の裏戸に近い黒塀を上って出てきた小さな影。もし今ここでぼんやり考え事をしていなかったら、とうに立ち去って見逃していた。
無意識で紅葉をおろし駆け出す。塀の上にいた人物も与八郎を見とめ、地面へ飛び降り狭い路地を反対側へ走り出す。背格好で「子供か」と判断した。
「ど、泥棒! どろぼー! 与八郎、捕まえろ!」
紅葉も大声で叫んで追ってくる。言われる前からそのつもりでいた門番は、容易く追いつき小さな侵入者を捕らえ、地面に転がしねじ伏せた。
「痛ってぇ……!」
組み伏せられた『泥棒』が、干乾びた声を絞り出す。
「わー! すごいすごい、与八郎! 大手柄だ!」
大喜びの紅葉が手を叩いた。与八郎は褒められても手を緩めず、表情も変えない。相手から逃げる意思が消えたのを見届けた後に腕を引き、座らせた。
古道具屋から忍び出てきたのは子供だった。
猫のような目に、色黒の肌。痩せた手足が、桔梗色の地を麻の葉模様で埋めた木綿の着物から伸びていた。柿色の兵児帯を締めていて、おそらくは十二、三歳。ぱさぱさの黒髪は好き放題に伸びており、頭の天辺で無理やりくくってある。
「どこのガキだ?」
片膝をつき、厳しさと冷静をもって尋ねる与八郎の大きな背中に紅葉がへばりついていた。
「俺たちはこの店の人と知り合いだ。今なら盗んだものをお返しして、穏便に取り計らっていただけるよう、話してやるぞ」
無骨な心配りにも子供は返事をせず、膝や掌についた砂を払っている。そのうち
「おいら何も盗んじゃいねぇよ。ほら」
やや出っ歯の口で、偉そうに言った。懐から出てきたのは草履。袂をばたばた叩き、引っくり返し、空っぽであることを主張する。最初から手には何も持っていなかった。
「そんなら何してた? 盗みの下見か」
与八郎は質問を変える。まだ盗賊として新米なのかと疑うが、それもおかしいと密かに否定した。先程とっ捕まえたときの感触として、賊の下っ端にしても動きが鈍過ぎる。髪はみっともない状態とはいえ、着ているものも悪くない。子供は首を横に振った。
「違うよ」
「じゃあどうして入り込んだ?」
いかにも強そうな青年に問い詰められ、唇を尖らせていた子供はしばらくして小さな声で答えた。
「『子授け観音様』の、面ァ拝みに来た」
猫みたいな目が黒塀を見る。態度と声音に子供らしからぬ、達観したような平静さがあった。
「道具屋さんの中に、観音様もあるの?」
逞しい門番の背で縮こまっていた紅葉がコソリと問いかける。
両国のガラクタ屋敷と言われる古道具屋。捨てられた観音像が持ち込まれている事も考えられるが、帝都で『観音様』といえば、まずは浅草の観音様。何より『子授け観音』との呼び名に、与八郎は首を傾げたくなった。
「お前の年で、そんな観音像に用があるのか?」
妙齢の女なら、まだわかる。しかしほんの子供ではないか……と考えた青年は目の前にいる子供を改めて、『こいつは娘なのか?』と別の問題にぶつかる。与八郎も自覚は薄いが、紅葉みたいな可愛い少女を見慣れてしまっているため、こっちの子供は見かけといい態度といい、性別さえわからなくなった。
「何だっていいだろ」
子供はぷんと言い捨てる。
そして飛び上がり、隙間を抜け表通りへ風の如く飛び出した。与八郎も手を伸ばしたが、背中の紅葉が妨害となり捕まえ損ねた。追いかけるも、子供は既に捕獲範囲を逃れている。逃げ行く小さな影へ、紅葉が全身使って怒鳴った。
「待てい、其の方! 名を名乗れい!」
どうしてそんな言い回しになるのだという与八郎の思いは捨て置かれ。
路傍で一瞬振り向いた子供は
「……かなめ」
答えて小枝のような細い身を返し、黄昏の降りてきた道を消えていった。
再び遠くから幼い声たちの唄が聞こえてくる。
――――子をとろ子とろ どの子を取ォろ。
――――ちいちゃ取ってみィさいな 子をとろ子とろ……。
古道具屋の屋根の上で、赤毛の猫が一部始終を見つめていた。




