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恋は麻疹

 恐怖は前触れもなくやって来る。

 その恐怖は喚き散らしながら路地を駆け抜け、裏戸をぶち破って現れた。


「俺は決めたぞ! おゆりを女房にする!」


 弥助が古道具屋の台所へ飛び込んできてそう宣言したのは、勧工場巡りを探偵した日より、一週間後の事だった。


「お前等そこに座れ! いいから座れ!」

 中年男はどしどし屋内へ上がり込み、書生達に命じた。出掛けようとしていた長二郎も、蔵を出たばかりの千尋も弥助の攻撃を避けきれず、気がついたら畳で座らされていた。


 残暑の庭に面した座敷はじっとり蒸しており、干乾びた夏草の匂いがたち込めている。若人二人の目の前で、弥助は胡坐をかいた。中年探偵の顔は真っ赤になり、鼻の頭は汗と脂で照り輝いている。


「こういうのはな、思い切りが大事だ。俺もようやく身を固める覚悟が決まったぜ!」

 固まったのか溶けているのか知らないが、覚悟を語る小太り中年男は鼻息が荒い。


「おゆりを女房にする!」

 もう一回叫んだ。

 弥助は自らを背水の陣に追い込もうと、一大決心を叫びに来たのだった。今の弥助の頭には、決心を叫ばれる側がどんな思いをしているかについて考える隙間など無い。千尋がそろおっと首を前に突き出して尋ねた。


「弥助……本気か?」

「おうよ何だ俺の決心に文句付けようってのか生意気言いやがるイイ度胸だがなそう簡単に褌と決心が緩むようじゃ帝都の男じゃねぇんだいバカヤロウが!」

 何故か殺気立っている弥助に

「そ、そうですか」

「御武運を祈念いたしております」

きちんと正座した書生たちは、順番に頭を下げる。


 二人とも震え上がっていた。『こんにゃくの木登り』などとシャレるゆとりも無い。どうして自分達がこんな目に合っているのか、理由を見つけられずにいた。昨日出掛けたっきり、戻ってこない柾樹の幸運を恨んでいた。そして彼らの胸には、不吉な予感が縦横無尽に吹き荒れている。


「そこでだ」と探偵は切り出した。


「おゆりにキッパリ言おうと思うんだが、上手い文句が浮かばねぇ。お前らだったらどうする? こういうときゃ、何て言う?」

 鼻の穴を広げて、中年男が尋ねた。

 やっぱり。という諦めと


――――そんなこと相談するのか……?!


 驚愕で二人は凍りつく。

 難題を提供されたものである。でも出題者は興奮気味の顔つきで返事を待っていた。千尋は碁石でも飲まされているみたいな顔で、畳の縁を凝視し黙っている。


「……『嫁に来てくれ』で、良いんじゃないですか?」

 長二郎が首が折れるかというほど下を向き、絞り出した。笑いと悪寒の相乗効果で、細い肩がぶるぶる振動している。聞いた瞬間、弥助の両目に失望が浮かんだ。


「御一新の今の世で、そんなのは遅れてら。何かもっとあるだろう? お前ら学校で何を勉強してんだ?!」

 期待外れという風に怒鳴った。どこの学校だろうと、女の口説き文句など教わらない。


「あんまり仰々しいのも、どうかと……」

 やっと千尋が意見した。


 銀座のような大掛かりな新しさを孕む帝都でも、人々の体内には前時代の感覚がまだ濃厚にある。美しいと感じる、定義がある。それも好まれるのはさりげなくて、しつこくなくて、流れるような軽やかさだった。


 当然『野暮』は馬鹿にされる。しかし余程本気の西洋かぶれでもない限り、恋の駆け引きで下手を打てば、これも『気障』と敬遠される。『新しい』ことを言ったとしても、何を言わんとしているのか理解さえしてもらえないかもしれない。文明が開化した一時期は“猿まね”も流行ったものの、昨今は国内においても猿まねへの反発と、反動の方が大きい。だというのに


「それじゃ駄目なんだよ!」

 弥助は『新しい』文句にこだわっていた。軽やかに女を口説ける通人や粋人には遠いという、自覚はあるのだろう。


「何かあったかなぁ……?」

 長二郎が積み上げられていた洋書の山へ、もったり手を伸ばす。焦げ茶色の分厚い表紙で覆われた本の頁を捲っていた手が止まった。


「弥助さん、ウィリアム・シェイクスピアはご存知ですか?」

「何だそいつは」

「昔、英吉利にいた作家です。その言葉がここに引用されているんですが……こうあります」

 ざっと説明して、痩せた書生は視線を探偵へ送った後

「Love's like the measles …… all the worse when it comes late in life」

一行を指でなぞり、読み上げた。


「何と書いてあるんだ?」

 千尋が身体を斜めにして、横から本を覗き込む。


「恋は麻疹はしかのようなもの、年を取ってから罹ると余計に始末が悪い」

「長二郎……何でそんな絶望的なの出してきた」

 長二郎へ問い返した千尋は、笑いもしない。弥助に至っては動くことすらせず、畳で丸くなっている。


「この台詞を、うまいこと料理して使えば良いんじゃないか?」

 にやけ顔で、長二郎は知った風なことを述べた。遊んでいる。けれど回転が遅すぎない程度に遅い、なまくら頭が

「た、例えば?」

真面目に聞き返すから話がこんがらがってきた。聞き返された長二郎も癖毛の頭を抱え始める。


『この病を治せるのは貴女の愛だけなのです!』くらい言えれば及第点だろう。が、ここにいる誰もそんな身の毛のよだつような台詞は望んでおらず、思い浮かびもしない。


「あーうー……思い当たらないな。弥助さんが言うとなると余計に」

「馬鹿にしてんのかチクショウめ!」

 弥助が遅ればせながら声を取り戻した。


「わかりました僕も言いすぎました、この通りです」

 怒鳴られた長二郎は折り目正しくお辞儀する。形式的には正しい謝罪だった。だがその舌の根も乾かぬ内に

「他にこんなのもありますよ? 『The course of true love never did run smooth』。『真の恋の道は、茨の道を行くが如き』」

「そのイリアムセーナントカって野郎は、生きてる最中に何があったんだ?」

「僕に四の五の言わないでください」

こういった手合いで解決策を見出せる人材がいないため、古道具屋の座敷は混迷を深めていく。空の真ん中へ昇りつつある太陽の光で、庭の木々の葉が白く輝いていた。


「どの道、そんな大先生の説法は使えねぇよ!」

 愛用の鳥打帽で自らを扇ぎ、手拭で汗を拭いて弥助が文句を言う。恋を患う中年男の話しを聞いていた千尋が、軽く膝を打った。


「そうだ……昔、おのぶに聞いた話しがある」

 思わぬ言葉に、弥助の背の筋も伸びる。


「うちの大姉御が?」

 千尋は、うんと頷き視線をやや上へ向け、数鹿流堂の主の女房について話し始めた。


「何故尋ねたのかは覚えていませんが……おのぶはどういう成り行きで、善五郎と所帯を持つことになったのかと、尋ねたことがあるんです」

 図体の大柄な書生は膝を崩し、考え考え喋り始める。


「若旦那が訊いたのかい? そんなこと気にする甲斐性あったのかよ。それで?」

 弥助は膝を前へ突き出し、興味深げに尋ねた。

 弥助は十人兄弟の末っ子で、四男坊である。おのぶは一番上の長姉であるため、弥助にとってはおしめを替えてもらい、飯を食わせてもらい、時には尻も叩かれたりした相手だった。


「善五郎に、『俺がジジイになるまで、傍にいてくれ』と言われたそうです」

 話す千尋は、ひやかすでも照れるでもない。


「うっひゃあ! あの善さんが?!」

「そんな鳥肌の立つようなことを?!」

 二人が叫んだ。古道具屋の主人を身近で知っている分、衝撃は大きかった。


 今更になるが、中野善五郎は古道具屋『数鹿流堂』の店主であり、おのぶはその女房である。

 夫婦二人とも、昔は白岡家で奉公していた。特に善五郎はどうしてか千尋の父に心酔しており、「暮白屋に足を向けては寝られない」が口癖となっている。おのぶと古道具屋を開いたのが自慢だった。これは主におのぶの苦労の産物と皆知っている。善五郎一人が自分の実力と信じて疑っていない。


 そして中野の夫婦は今、どこぞの仏蘭西人の尻馬に乗り、揃って海外へ渡航していた。たまに送ってくる手紙を読む限り、既に仏蘭西へ辿りついて楽しい日々を謳歌している様子。


 こんな面白人生を繰り広げている善五郎とおのぶの結婚の契機を聞き、長二郎も弥助も苦しんでいるのだった。でも暮白屋の一人息子は、何の屈託もなく事情を話し続ける。


「その頃、おのぶは毛の先ほどもそんな気無かったらしいんです。それが、暇さえあればふざけている善五郎に、『一緒にジジイとババアにならねぇかい?』と言われたら、何だかそういうことになってしまったと」

 語る青年の、夫婦への眼差しは優しかった。


「ハア~! そんな事で、あのジジイとババアがくっつくとはなぁ!」

「誰しも生まれたときからジジイやババアだったわけでは」

「弥助さんの姉さんじゃないですか……」

 書生達はおのぶ夫婦に援護を入れるも、聞こえていない顔で中年男は感嘆の声を上げていた。


「弥助さん、善さんのコレは使えそうじゃありませんか?」

 長二郎が勧める。勧められた小太り探偵も「おう」と頷き、両の掌で自分の膝を強く叩いた。


「そうだな、一つこいつを使わせてもらうか! 試してみよう! 聞いてくれ!」

 試す意味はどこに。


「ぐええええー……?!」

「聞きたくないいぃ……!」

 焚きつけたことを後悔している長二郎と、貰い事故な千尋は畳で倒れこんだ。弥助は足をぴっちり揃えて座り直す。暑苦しい顔をまた真っ赤にし、一つ深呼吸して叫んだ。

 

「おゆり! 俺とジジイになってくれ!」

「いや、無理言うな」

「俺のジジイと一緒になってくれ!」

「ジジイから離れましょう弥助さん!」

 『ジジイ』に取り憑かれてしまった弥助へ、千尋と長二郎が交互に訂正を入れる。


「俺がジジイになったら一緒にババアの傍にいてくれ!」

「弥助さん落ち着け!」

「話しが変わってきてるぞ!」

 もう弥助自身、何を言っているのかわからなくなっていた。慣れないことはするものではない。


 ジジイの想いはババアへ届くのか。答えは見つかりそうにない。

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