通りすがりと西洋かぶれ
弥助の幽霊騒動が一段落した後。外出して用事をすませた柾樹が、古道具屋へ戻る道中のことである。
神田川沿いの道で、柾樹と同年代と見られる書生たちが騒いでいるのに出くわした。書生もピンキリで、国家の未来を担う素養と自覚と才能にあふれた若者から、柾樹のように素行の悪い者まで含まれる。目の前にいるのはどうやら後者だった。
うずくまる人間を取り囲み、「猿真似」、「西洋かぶれ」と罵声を浴びせ、蹴飛ばしている。笑い声に混じって、怒鳴るような憂世節が聞こえた。少し前までこの手の歌といえば自由民権一色だったが、この頃は色合いが変わって来ている。
――――西洋人とて同じ人、舶来品とて同じ品、西洋人とて恐るるな、舶来品とて尊ぶな、たとひ付合ひするとても、互角にするならよいけれど、むこうが上に出る時は、いっそ交際せぬがよい……――――
道端の騒ぎに、行き交う人々は迷惑そうな顔をしながらも、見て見ぬふりをしてそそくさと去っていった。川沿いの埃っぽい道で、柾樹だけが胴乱を片手にぶら下げ、騒ぎを眺めている。素行の悪さはお互いさまなので同類意識の一つも芽生えるかというと、そうでもない。柾樹はこういう連中が嫌いだった。
二、三年前、こういう騒々しい集団が、刃物を手に駿河台の屋敷へ押し入ってきた事がある。彼らは『悪逆無道の新政府から自由と権利を勝ち取るため、軍用金が必要である』と、ねじ込んできた。だが実は同じ手段であちこちから飲食遊興費を掻き集めている、つまらないゴロツキだった。ゴロツキはすぐさま捕縛され、屋敷の誰一人怪我をすることも無かったので、実害は無かった。とはいえ押し掛けられた家の者が良い印象を持つはずもない。今も見た目が似ている連中を見かけただけで、柾樹は不機嫌になっていた。
すると、騒いでいた書生の一人が柾樹の存在に気付き、「何じゃお前は」とか何とか言って詰め寄ってくる。真昼間にもかかわらず真っ赤な顔をして、体中が酒臭い。呂律も回っていない。柾樹は相手を見下ろし、まだ無反応で突っ立っている。柾樹が無反応なのを見て酔っ払いは薄笑いすると、酒臭い息を顔に吐きかけた。吐きかけるやいなや、ゴッ! という鈍い音が辺りに響く。
「キャア!」
甲高く叫んだ酔っ払いは地面に転がり、頭突きを食らった額を押さえてのた打ち回る。仲間の書生たちが驚いて飛び退いた。
「邪魔だ、どけ」
琥珀髪の銀縁眼鏡は、不機嫌丸出しの声で言う。ただでさえ悪い目つきが、もっと凶悪になっていた。しかし、“どけ”と言われた側は、ここで道を開けることを『意気地のない事だ』と判断したようである。柾樹をぐるりと取り囲むや
「この野郎!」
怒声と共に殴り掛かってきた。彼らにしてみれば敵は一人で、特別筋肉質でもない。ひょろりとした長身痩躯に眼鏡という柾樹の外見は、ともすれば貧弱な印象すら与えた。十分に勝てると踏んだのだろう。
……が、あいにく柾樹は、趣味が『喧嘩』と『あやとり』という変人だった。
飛びかかってきた数名の間をすり抜けると、一人の足に足を引っかけ、転んだ勢いで団子になった人々の背を蹴りつけた。元より足元の危うかった酔っ払い達は簡単に転がり、地面に積み重なる。そして柾樹は転がった若者達の顎を蹴り上げ腹を踏みつけ、順番に潰していった。全員動けなくするまで、ものの十秒もかからない。
やがて柾樹に手加減や遠慮する気配が無いことを察知すると、酒臭い一団は逃げて行った。追い払った方は息も乱れていない。道の真ん中で、いつも通りの不機嫌な顔をぶら下げていた。酔っ払いたちが戻って来ないのを確認し、勢いで脱げた下駄を履き直す。そこで、へたり込んでいる若者にようやく気が付いた。
白絣にシャツを着込み、土埃にまみれた袴。丁寧に分けてあったとみられる黒髪もぐちゃぐちゃ。汚らしくはないが凹凸の少ない平たい顔をしていて、いわゆる『御平の長芋』というやつだった。先の連中にやられたのだろう。口角に血が滲んでいる。誤魔化せない感じに柾樹と目が合った青年は、びくりと肩を震わせた。
「あ、あいつらに、酒を飲もうと言われたんです……ぼ、僕は飲めないと断ったんだ。そうしたら、『情けない奴だ、これだから駄目なんだ、性根を叩き直してやる』と言い出して……」
長芋は泡を吹くように事情を話しはじめる。
――――何だこいつ……?
柾樹は胸の内で呟いた。どこがどうと言われるとわからないけれど、何となく挙動がおかしい。そんな青年の足元を見ると、本が落ちていた。『Die Leiden des jungen Werther』とある。『若きウェルテルの悩み』と読める。コイツが絡まれていた理由はこれか? と、柾樹なりに考えた。
今に始まった話ではないが、海外の文物への反発は、近頃より顕著になっている。政府の欧化主義一辺倒と、西洋風の贅沢暮らしをしている高級官吏達への批判も加わり、自国の文化に特殊性と普遍性を見出そうとする動きは、一層活発になっていた。特に年若く感性が敏感で、力の有り余っている若者たちは、自然と反応も過激になりがちである。そういう世の中で、賢しらに見識を見せびらかす振る舞いをすれば、面倒が自ら寄ってくる。長芋顔の青年は、柾樹の視線の先にある本に気づき、慌てた様子で書物を拾い上げた。
「ああ、良かった。どこも汚れてない……」
表紙を優しく撫でて埃を払い、胸に抱きしめる。それから大事に大事に、懐へ仕舞いこんだ。自分は怪我までしているというのに、そんな事は気にもならないようだった。一般的に書物は安い買物ではない。舶来の原書となれば、輪を掛けてそうである。しかしそういう事情を鑑みても、相当大事そうにしていた。本を抱えた白絣は柾樹にぎこちなくお辞儀をし、昼下がりの雑踏へ消えて行く。
「何だあいつ?」
柾樹は遠のく猫背を眺めつつ、今度はハッキリ呟いた。呟いてから、頭の隅でぼんやり考える。
――――俺には、あんな風に抱えるモノが無いな。
考えながら、手に下げた革の胴乱を、ぽんと肩へ引っかけた。
昔から柾樹は何かに対して、我を忘れて夢中になったことが無い。何かを欲しがることはあっても、「これでなければ駄目だ」というようなものに巡り合った記憶も無い。最初は少し熱中してもすぐに飽きる。飽きたり気に入らなくなれば、簡単に放り出してしまう。それはそれで身軽で結構だが、たまに我ながらこんな自分に虚しさのようなものを覚えたりもした。普段は忘れているそんな考えが浮かんできて、またちょっと不愉快になる。考え事を振り払うように踵を返し、風が強くなってきた道を歩き出そうとした。
だが、いくらも進まないうちに、再び柾樹の足が止まる。風で揺れる柳の下に、これまたおかしな男が一人座り込んでいた。
一見すると、薬売りである。大きな柳行李を背に、笠を深くかぶっていた。顔は陰になってよく見えない。体格はずんぐりむっくりしていた。そして全身、着物も伽半も巡礼者みたいに白尽くめである。相内家では祖父の命令により、置き薬を扱うような所謂『売薬さん』の出入りを禁じていたため、行商や薬売りに詳しくない柾樹ではあるけれど、それにしてもこんな薬売りは見たことが無い。眼前で立ち止まった柾樹に、薬売りは笠の下から並びの悪い歯を垣間見せて笑った。
「何か御用で?」
声は低くて聞き取りにくく、ガビガビに掠れている。若くはない男の声ということしかわからなかった。白い袖からのぞく真っ黒に日焼けした手は毛むくじゃらで、その先の爪は真っ黒だった。
「薬売りか?」
柾樹もしゃがみこみ、尋ねるついでに相手の顔を覗いてみた。でも男の顔の上半分は、笠に隠れてどうしても見えない。
「ひひひ、ご覧の通りの薬売りでございます」
「珍しいナリじゃねぇか。薬売りがこんなところでどうした。一休みか」
「うっひゃっひゃっひゃ、まぁそんなところでござんしょうかねぇ」
みょうちきりんな口調と笑い方をする男に、柾樹は何か正体不明の嫌悪感のようなものを覚えた。あれだけ薄気味悪い雪輪相手のときですら、感じたことのない感触である。元々好き嫌いの激しい性格にしても、気味が悪く感じた。無性に居心地が悪くなる。
「稼いでいるか?」
「へへぇ」
適当なことを言うと、薬売りも適当な返事をしてきた。柾樹は持っていた小銭を放り、変な薬売りを残してその場を離れる。ろくでもない道草をしたと思った。しかし幾許か進んだところで、あることを思い出す。
雪輪を連れて源右衛門の家を出たあの晩。道端で見かけた、白い影のようなもの。見間違いかと思っていたけれど、あれを見たのは、たしかこの辺りではなかっただろうか?
見返ると、白尽くめの薬売りは少し離れた場所で、近所の女房達に囲まれて立ち話をしていた。彼らは顔馴染みのようで
「そろそろ来る頃じゃないかと思ってたんだよ」
「いやはや申し訳ございません、ちょいと遅くなりまして……」
などという親しげな会話が、埃っぽい風にまぎれて聞こえてくる。子供たちまで寄ってきて、人々はわいわいと賑やかに家屋の影へ消えていった。
別にどうということもない。周囲の風が少しゆるやかになる中、考えすぎかと思い直して柾樹は川沿いの道を再び東へ進んだ。