詮議
柾樹が井戸の滑車を回す手を止めた。
「どうした、火事か?」
古道具屋の裏戸から飛び込んできた千尋の、只ならぬ形相に尋ねる。もう夕顔が咲き始める時刻だが、空はまだ明るかった。
ここまで走って帰ってきた千尋は息を弾ませ、友人へ近付く。そしておもむろに手を伸ばし、柾樹の左頬をむにっと引っ張った。一瞬で、盛大に足払いされ地面に転がる。
「何しゃあがる」
「ほ、ほんものの柾樹だ……」
地面に倒れた千尋が、絶え絶えの息の隙間でうわ言を漏らした。
物凄い嫌悪感を発して見下されているとはいえ、この程度の反撃で許されたのは、相手が千尋だったからである。他の者なら息の根が止まっていたかもしれない。でもその辺りを有り難がっている心の余裕はなく
「ゆ、雪輪さんは?」
「台所だろ」
柾樹の答えで、がばっと起き上がった千尋はもつれる足で台所へ向かった。
「雪輪さん!」
開け放たれた勝手口の戸にしがみつき、叫ぶ。
「はい」
冷水のような声が返ってきた。
目が慣れてくるのに比例して、室内の暗闇から女中の灰色の姿が浮き上がってくる。雪輪は板敷に、庭で採れた茄子やさやいんげんを並べていた。青白い肌と、長い漆黒の髪。異様につり上がった切れ長の黒い目で千尋を見た雪輪は、小刻みに震えている。
「あ……良かった、居た」
娘を見て呟いた青年は、よろめきながら土間へ下駄の足を踏み入れた。胸を撫で下ろしたが、着物の背中までぐっしょり汗で濡れている。
「何があったんだ?」
柾樹が土間へ入り込んで声をかけた。雪輪も千尋の様子がおかしいと気付き、湯飲みに白湯を入れ持ってくる。それを受け取り一息に飲み干すも、まだ返答が出てこない千尋は、代わりに袂から手拭を出して力任せに顔を拭き、ようよう人心地がつく。
大柄な書生は、琥珀色の髪をした銀縁眼鏡の青年と、隣に佇む顔色の悪い女中を見て、一度ごくりと喉を鳴らした。
「さっき、狸に化かされそうになった」
「たぬき」
千尋の言葉を、柾樹が繰り返した。
「道端で、桜の姿で化けて出た。この古道具屋に入れろと……嘘じゃない! 本当だ!」
語る側としては、ここはもうちょっと驚くとか、笑うとかしてほしかった。
「……それで?」
話者の懸命さには応えず、柾樹が先を促した。雪輪は湯飲み茶碗を手に、書生たちの傍らでぴたりと静まり返っている。高ぶった気持ちが、どうも聞き手達へ伝わっていないと感じて千尋は焦れた。
「顔かたちも、声も桜にそっくりだが、何かおかしい。それで『アンタは桜じゃないだろう?』と言ったら、正体を現した」
首へ手拭を引っ掛けた千尋は、熱心に話しを続ける。
「尻尾でも出したか?」
「いいや、いつだかの威勢のいい子供が……水色の羽織を着た……ツネキヨだったか? が、飛び出してきてな」
「ツネキヨ……まだこの辺ウロついてるのか。何してやがるんだアイツ?」
聞いた柾樹が首を捻る。
「何のことかわからんが、『霧降を探している』と話していたぞ。それと、天ぷらを食っていた」
「てんぷら」
千尋がまだ汗の吹き出る額や首回りを拭いつつ告げた言葉を、再び柾樹が繰り返した。
「その辺りで狸も観念したのか、姿は桜のままだったが、声が急に皺枯れた爺さんのようになった。おまけに薬売りの土々呂が出てきたんだ。やあ、驚いたなぁ……」
千尋はそこまで語り、台所の天井を見上げて一息吐く。頬が赤い青年は、サーカスでも見物してきたみたいな表情をしていた。
「狸は『小鬼が、定まり事を掻き回す』と言ったんだ。それから、『あの食べ物もやがて効かなくなる。湾凪姫に伝えよ』と……大よそ、こんなことを。そこで『湾凪姫』というのは雪輪さんのことではないかと、大急ぎで戻ってきたんだ」
上擦り気味の声で、千尋は事ここへ至るまでの事情を述べる。
「なぁ、狸が言っていた『食べ物』というのは、チョコレートのことじゃないだろうか?」
千尋が雪輪の方を向いた。柾樹も無言で、隣の女中娘を横目で見下ろす。書生達の視線を受けても雪輪は湯飲み茶碗を握り、言葉は発さない。すると、のぼせた赤ら顔の千尋が大きな両手を伸ばし、雪輪の震える肩をがしっと掴んだ。
「雪輪さん、あの者たちは何ですか? 知り合いですか? あなたは何故、身体が震えているんですか? 何故、外に出たがらないんです? 何故、人と関わりたくないのですか? 何故、天涯孤独なんです? 何故、ご自分の事を何も話さないのですか? 何故、突然故郷の家屋敷を失い、帝都へ出てきたんです?」
人が変わったように千尋が喋り始めた。
そして震える身体の芯を強張らせている娘の瞳を、顔を近づけ覗き込もうとするや
「おい」
二度までも柾樹に足払いされ、千尋の大きな身体が土間で豪快に転がる。千尋の手より解放された雪輪が、金茶色の髪の青年を見上げた。背の高い銀縁眼鏡の横顔は不機嫌そうに、足元の友人の方を向いていた。
「い、痛たた……! そう何度も人を足蹴にするなよ! 足癖の悪い奴だな!」
固い土間で転がされ、千尋は涙まじりの声で怒る。
「白岡」
己の腕や腰を擦り土間で胡坐をかいている友人の前に、柾樹がしゃがんだ。
「桜のニセモノは、土々呂と一緒に現れたんだな?」
「あ、ああ……」
「お前、一杯食わされたんじゃねぇのか?」
金茶頭は目を瞬く千尋を眺め、意地悪く微かに笑っていた。
「『土々呂』だろ? ほんとに薬を売っているのかもわからねぇ薬売りと、その一味だぞ? 相手するだけ馬鹿馬鹿しい。お前もよくぞあんな野郎どもの話し、まともに聞いてやったもんだな?」
柾樹はすらすら語っている。
「どこぞの囃子物か何かに巻き込まれたんだろ」
「囃子物なんて無かったぞ?」
「ツネキヨみてぇな身形のガキがいれば、それだけでツリが来るだろ」
「そ、それは……そうかも、しれんが」
土間に座り込んだ千尋は、声が小さくなっていく。腕や体の痛みは消えるも、汗だくの青年は別の理由で口元をゆがめていた。
「白岡お前、まずどうして相手が狸とわかった?」
「ツネキヨが、狸、狸と……」
「ホラな? 顔がタヌキに変わったわけじゃなし」
「だが、桜にソックリだったんだ」
「桜によく似た女なら、前にもいたじゃねぇか」
「……」
柾樹に言われ、弁が立つ方ではない千尋は言葉が続かなくなった。桜が影武者にされたあの時とは違う、と思っているのにうまく返せない。それどころか
「茶番に、乗せられたのかなぁ……?」
最終的には相手の調子に乗ってしまう。沈黙を守っていた雪輪が静かに土間へ膝をつき、口を開いた。
「わたくし、狸に知己はおりません。しかしながら、何ぞご厄介をおかけしたご様子……申し訳ございません」
震える白い指先で、千尋の着物の袂や袴の埃を落としてやりながら言う。
「い、いや、違うんだ! そういうつもりじゃなかったんです!」
俯いた無口な娘を見て、急に心苦しく申し訳なくなってきた千尋は慌てて手を振る。
「化かされたと言やぁ、化かされたんだろうがな。化かされるのは、弥助一人でたくさんなんだよ」
「弥助を引き合いに出されたら、オレの立つ瀬が……」
横の柾樹にまたからかわれ、化かされた若者は情けない顔になる。千尋は自覚していないが、さっきまでの酔った如き、或いはまじないにでもかかったみたいな感覚は、揮発したように抜けてしまっていた。
「弥助で思い出したが……あいつら、あれからどうなった?」
上がり框に腰掛け、板敷きに並んだ野菜をいじりながら柾樹が尋ねる。
「さ、さあ? オレも知らん。まだ祝言やらの話しは聞いていないよ」
もたもた立ち上がり、袴の埃を払って千尋は答えた。柾樹の横へ座った青年へ、雪輪がもう一杯白湯を運んできて手渡した。
「……あのお二人は、真に夫婦となるのでございますか?」
白湯を口へ運んでいる書生へ、女中娘が珍しく質問してくる。青年達は顔を見合わせた。
「おゆりにとっちゃ、弥助は命の恩人だ。助けて惚れ込まれたのが、運の尽きだったんだろ」
下駄を足で放り、柾樹が先に返事をする。白湯を流し込んで、千尋も頷く。
「弥助もあれで、悪い気はしていないようですから。このまま一緒になるんじゃないかな?」
書生二人は、漠然と思っていたままを述べた。
「何だ? 女の目で見ると違うか?」
黙り込んだ雪輪を見て、柾樹が尋ねる。この娘の無言に色々な意味が含まれているという、その辺りを理解し始めている青年に促され、雪輪は一時置いてから言った。
「少々、早くに過ぎませんか?」
「何がだよ?」
「おゆりさんが、小林さまをお慕い申すようになるとしても、早過ぎるのではございませんか?」
会話というより、質問の投げ合いみたいなやり取りが始まる。
「そういう奴も居るんじゃねぇのか。まず『女房にしてくれ』と、おゆりがテメェで押しかけてきたたんだぞ?」
胡坐をかいた柾樹が述べると、雪輪は「そうやもしれませんが」と一先ずそれを受け取るも
「おゆりさんは、大川へ身を投げております。一度は死んだお人でございます」
愛嬌の無さたっぷりで、更に続けた。
「だったら何だ?」
「小林さまの長屋へ押しかけたのも、もはや我が身など、捨てたも同じお気持ちであったのでは?」
ひどいことを言う。銀縁眼鏡と、その横のトウヘンボクは声も失った。
「……そりゃ、いくら何でも弥助が気の毒過ぎねぇか?」
根本的に応援する気の薄かった柾樹も、ここは弥助に味方した。
「破れかぶれで、どうでもいい男のところへ転がり込んだって? ……有りそうだな」
でも状況の全体図を考えるほど否定出来なくなり、腕を組んで唸る。
「お店も、あまりうまくいっていないと、お聞きいたしました」
「それは……そう、らしい……ですが」
千尋も返答らしきものを苦しく捻り出した。二人とも娘の読みに、そこまで言うかという思いで黙る。これまでもいくつかの事件などで、雪輪の見立ては当たった。それにしても、この度のコレは手厳しい。
「要するに、亭主がくたばって、傾きかけた蝋燭問屋にも見切りをつけた女が、弥助を見つけて鞍替えしたと、そういうことかよ」
「そこまで申してはおりません」
「同じだ、馬鹿」
冷たく佇み震える灰色の娘へ、金茶髪の青年が暴言で返した。しかしすぐに、膝で頬杖ついて考え込む。
「そういや、勧工場に行ったとき、池内入道がおゆりのことを『思ったより悪い女じゃない』と、回りくどい言い方してやがったな……何か引っかかるとは思ったんだ」
あの日の事を思い返し、眼鏡の奥の鋭い眼が土間を睨んでいた。
「こ、これは……弥助に伝えた方がいいんだろうか?」
青い顔で千尋が尋ねる。声に力がない。相談された柾樹は、ぷいと顔を逸らした。
「伝えてやれよ。お前が」
「オレが?! そ、それは、言いにくいだろ?!」
揉め始めた二人をよそに。
残酷な疑惑を提起した当の女中は素知らぬ顔で、土間で転がる堂島下駄を並べなおしていた。




