たぶらかし
本人も忘れがちだが、千尋は『書生』だった。
長二郎ほど勉強(と生活)に精を出しているとは言えないものの、柾樹ほど放棄もしていない。こう見えて下宿している古道具屋から学校には通っていた。
「世を一段高いところより眺めんというお志でしょう」
「ご立派なご子息で、お店も安泰ですな」
隣近所では足りず、得意先にまでこんな世辞を言われて愛想笑いを引き攣らせている両親のためにも、『卒業しなければいけないなぁ』という認識はあった。
だが卒業へ順調に辿り着けそうかと自らに問えば、応と答える自信はまるでない。先般の進級試験は、くぐり抜けた。でも次もうまくいくか、甚だ不安な成績だった。
「勉強しろ、勉強!」
中学の頃は長二郎によく叱られたし、今も叱られる。やっていると言い返しても
「君の勉強では、ものの数に入らん」
と無慈悲に切り捨てられた。通常ここまで高々と言われたら激高し、抜き差しならない喧嘩になる。それが当今の書生というものである。でも千尋はぼんやり「そうかぁ」と流して、終わってしまうのだった。
こういう調子なので、ますます周囲に心配されてしまうのだろう。
恵まれた育ちのためか、千尋は基本的に素直で受け身でぼーっとしており、どこまでものほほんと生きている。都市的な洗練も、然程ありがたがらない。他人の揚げ足をとって楽しむ趣味もない。前時代の大店には時折こういう若旦那もいたようだが、それにしても常に熱烈で深刻で、勇み足気味な今時の男子とは、かけ離れた生き様ではある。
それでも古道具屋の下宿暮らしが薬になったか。留守居頭は休暇中の現在も、学業から離れないよう心掛けている。誰に言われずとも書物を読み、調べものをしたりしている。自発的に動くのが苦手な千尋にしては、亀の歩みであろうと変化だった。
そういう千尋が神保町で古本屋をのぞき、これといった収穫のないまま両国方面へ向かっていたときである。八月の蒸し暑い空気の中、のろのろ進んでいた下駄の足を止める者がいた。
「千尋、さん」
振り向くと、陽炎の揺らめく細い坂道に誰かが立っていた。反射する日差しが眩しくて、よく見えない。手を庇にして確かめ、驚いた。
「桜?」
幼馴染の娘が、湧いてきたようにそこにいた。
しなやかな身を包む白い麻地の着物には、裾にかけて淡い桃色の槿の花がほろほろ咲き零れている。桜は大きな目でにっこと微笑んだ。駒下駄を鳴らして千尋の二、三歩手前に来て止まると、丁寧にお辞儀する。
「ご無沙汰をしておりました」
真昼の往来で、幼馴染たちは向かい合って挨拶した。桜は風呂敷包みの一つも持っていない。
「うん、少し久しぶりだ。こんなところで珍しいな。一人か?」
「一人よ」
「そ、そうか」
家族か誰かと、この近辺へ用事でもあったのだろうかと思ったが違うようである。暑いのと通行人の邪魔になるので路肩へ寄り、建物のつくる日陰へ入り込んで辺りを見やるも、やはり桜は一人のようだった。
「千尋さんは?」
薄茶色の髪の娘が、小首を傾げて尋ねてくる。図体の大きな青年は、つい笑ってしまった。
「何だ改まって? 今日はまた随分と行儀がいいんだなぁ。オレはちょうど帰るところだよ」
「古道具屋さんに?」
千尋の答えを聞き、桜は大きな目を瞬かせる。そして
「良かった、私も古道具屋さんへ行きたかったの。ご一緒しましょう」
笑顔が嬉しそうに輝いた。しかしそれとは反対に
――――困ったぞ。
千尋の表情は、夕立前の空より早い速度で曇り始める。
「どうしたの? 私も古道具屋さんへ行って良いでしょう?」
一歩近付いた桜は、大柄な幼馴染を覗き込むように見上げてきた。
「う、うーん……」
見つめられた千尋は厳つい顔を横へ逸らし、口を噤んで困ってしまった。困っていた理由は、若い娘のおねだりにどう対処すれば男らしいと言えるであろうかとか、そういった類ではない。彼の起居する古道具屋に、他人、それも女との接触を拒む『女中』がいるためである。
――――それに、柾樹がなぁ……。
少し前の話になるが、数鹿流堂へ入りたがっていた子供がいた。たしか『ツネキヨ』といった。その子が古道具屋の中を見たいと言うので、敷地内へ立ち入るのを、千尋はうっかり許してしまったのだ。そのとき、関所を通したと知った柾樹の反応が、一種過敏だった。
『ここに入れたのかッ!?』
詰め寄ってきた柾樹の勢いには、千尋もちょっと驚いた。無鉄砲でふてぶてしい友人の、あんな表情はこれまで見たことが無い。元来が怒りっぽく気分屋な柾樹だけれど、あれは日頃の怒りや不機嫌とも、異なっているように見えた。うろたえていた、というのが近いだろうか。
今まで柾樹に、雪輪の『身元引受人』という自覚がある風はあまり伺えなかった。でも意識が変わってきたならば、千尋としてもそれを出来るだけ応援し、尊重してやりたい。頭の中で算盤をはじくように考えている書生へ、桜が再び問いかけてきた。
「どうして? いけない?」
「い、いや……そういうわけでは」
返事に迷う。適当な言い訳をつくって断ってしまえば良い。だが千尋はこちら方面で頭を働かせるのが特に不得手だった。茶飲み話をして帰るくらいなら……と、考えかけたのだが
「古道具屋さんに何かあるの?」
「無い無い!」
桜の質問を受け、大急ぎの大声で否定した。大声過ぎて怪しかったかな、と我ながら反省するくらいだった。それにしても
――――何だろうな?
さっきから、桜とのやり取りに違和感があった。
桜は放っておいても話題を次々見つけてきて、喋り続ける。一人で三人前くらい賑やかなのだ。そんな幼馴染のお喋りを、千尋がうんうんと聞いてやるのが習慣だった。ほとんど聞き流していることも多い。でも桜は気にしなかった。このやり方が互いに当たり前で、また千尋も嫌っていない。なので今日に限って、短文を繋ぎ合わせたみたいな会話が不自然に思えた。
幼友達の娘の身に、また何か事件が降りかかっているのではと心配になる。考え事するフリをして、さりげなく注意を娘へ向けた。
薄茶色のふんわり波打つ髪。編み込まれた髪に飾られた細いピンクのリボン。整った横顔と、大きな目。肌はなめらかな乳白色で、右の首筋の辺りにほくろが……。
「あれ?」
無い。あると思っていたものが、無い。
「無かったっけ?」
「ハイ?」
さりげなくしている余裕は消え、凝視してくる千尋に桜の方がキョト、としている。ほくろの位置は、右ではなかった。左であった。千尋は自分の記憶力をあまり信用していない。諦めて、話題の方向だけでも逸らそうと作戦を変更した。
「なぁ……桜? なにか、甘いもの、買ってやろうか?」
「まぁ、よろしくて?」
青年が慣れない提案をすると、桜は両手を打ち合わせ、ぴょんと飛び跳ねる。
「それなら私、アイスクリームが食べたいわ!」
「え?」
娘の明るいお願いに、提案をした書生の方が驚いた。牛乳と卵と砂糖をふんだんに使用した冷たい菓子は、開国後にその存在を知られるや、たちまち人々を魅了し国内で製造もされている。しかし
「お前、家族みんなで西洋料理の店へ行ったときも、アイスクリームなんて殆ど食べなかったじゃないか。牛乳臭くて嫌とか言って……」
「あら、そうでしたかしら?」
桜は再び首を傾げた。でも気分を害している様子はなかった。それどころかとても機嫌が良いようで、にこにこ笑い、千尋の腕にくるりと自分の腕をからませてきた。
「良いわ、やっぱり古道具屋さんへ行きましょう」
そう言って微笑みかけてくる桜に千尋の方が仰天する思いだった。
咄嗟に周囲を見回し、誰ぞに見られはしないかと焦る。幸い周辺に人の通りはなかった。若い男女二人きりが真昼の往来で腕を組んで歩くなど、思い切りが良過ぎる。『ハレンチ』、『ふしだら』、『けしからん』と、後ろ指を差されかねない。最悪、後ろから刺されかねない。
「さ、桜……? す、数鹿流堂は、やめないか? どうしたって埃っぽいし、黴臭いじゃないか」
ぴったり桜に寄り添われ、千尋は動転してしまう。娘の方は平然としていた。
「そんなことないわ。それに柾樹さんや長二郎さんにも、久しぶりに会いたいもの」
「『柾樹さん』?」
その途端、燻っていた違和感がぱちんと爆ぜた。
日向へ出て、引っ張るように道を進もうとする桜の腕を振り払う。毛虫でも払うような勢いだった。
「……誰だ?」
二、三歩後ずさり、千尋は凛々しい眉を寄せて尋ねた。
桜は千尋の友人達を、あんな風に呼ばない。『マサさん』、『チョーさん』と親しくあだ名で呼んでいる。それにこの娘はさっきから、自分を『千尋さん』と呼んでくるではないか。発言や振る舞いもおかしい。
「アンタ、桜じゃないな?」
冷静どころではない。陽炎が揺れる暑さの中、千尋の首筋を寒気が這い上がってきた。
晩夏の光がきらめく路傍で『桜』は、答えなかった。仮面のような笑顔で、黙って千尋を見つめている。その頭上を影が一つ飛び越えて
「キエエェーイッ!」
「わあ!」
甲高い声がし、青年のすぐ横を水色の物体が掠めた。しゃん、と鳴った鈴の音。水色の派手な羽織に、金襴の袴。金属質の高い声が叫んだ。
「大事なむぃか?!」
「むしろアンタに蹴殺されるかと」
目の前に飛んで出てきた、艶やかな赤茶色の髪を靡かせる子供に、引き気味な声で苦情を言う。空から降ってきたのは、例の『ツネキヨ』だった。何故この子がここにいるのか考える前に
「湾凪姫の郎党は、いずれ劣らぬ役立たずじゃも!」
注連縄に似たねじれた長い杖を構え、鼻っ柱の強そうな、それでいて綺麗な顔が見返る。今日も頭が高い。語尾がもぎゅもぎゅしていると思ったら、何か食っていた。口の端から飛び出ているのは、衣のついた海老の尻尾だった。立ち食い。外見がきれいな分、大変に行儀の悪さが際立った。
「狸如きに誑かされるとは情けむぁい!」
「タヌ……?」
キッと正面を睨んだツネキヨは千尋の呟きを聞かず、杖の先についた枇杷のような鈴をしゃんと鳴らし、羽織に雲紋と『空』の字を翻して叫んだ。
「この者を誑かして何とする『横見』! 老いぼれ狸の陪臣め!」
脳天に響く声で喚き散らされ、佇んでいた娘がのらりと上半身だけ動かす。
「ハァ……木乃伊の相手までせねばならぬとは」
開いた花弁のような唇より出てきた声は、桜とは似ても似つかない。千尋の知らない老人の声だった。
「奥女中は大人しゅう、『霧降』だけ探しておれば良かろうぞい」
『横見』と呼ばれた桜のニセモノは、難儀そうに語る。
皺枯れた男の声。それでも姿と顔は若い娘のままに、微笑んでいた。逃げ水が地面を這う道端で、蜃気楼より危うげな景色だった。千尋は呆けたみたいに全体を傍観している。根が生えたかと思うほど、足は動かなくなっていた。代わりにツネキヨがじたばた暴れる。
「ううう、うるしゃい! ただでさえ赤目御前の結界で、鼻がほとんど利かぬのじゃ! 恐らくは、『霧降』によほど重い封印もかけられておる! 術が使えれば、かような労苦をせずとも!」
美しい赤茶色の髪をした子供は、書生にとっては意味不明なことをキンキン声で怒鳴っている。
「もはや化けるだけで大仕事か。これよりは、ますます鼻も耳もきかなくなろうぞい。まこと映し世は変わりやすい……言霊は熱を失い、あちらとこちらの繋がりも消えゆくばかり……」
桜のニセモノは同じ表情、同じ姿勢で、ただ老人の声が侘しげに語り続けていた。と、槿の花が咲き零れる白い着物の後ろより、ひょっこり湧いて出てきたものがいる。
「さてさて、威勢が良いのは結構なことでござんすが……奥女中殿。天ぷらを片付けてからお話し召された方が、宜しいんじゃあございませんか?」
「土々呂?!」
声を取り戻した千尋が、その名を呼ばわった。
桜そっくりな横見の、細い背後に隠れていたとも思えないが。巨大な柳行李と、深く被った笠。手甲も脚絆も白尽くめの薬売りが、歯並びの悪い口へニタニタと笑みを浮かべて現れた。前回、長二郎の長屋の前で見かけた時より、土々呂は縮んでいる。がびがびの声も前と同じようでいて、何だか違って聞こえた。
「霧降が見つからない腹いせに、天ぷらの寄り道なんざぁ……布引姫様に叱られるくらいではすまないのでは?」
薬売りはツネキヨへ、親切そうに忠告している。しかし
「腹いせではない! 天ぷらがうまいのじゃ!」
力強く答えたツネキヨは、飛び出していた海老の尻尾をわしゃわしゃ口の中へ押し込んでいた。反省の色はない。すると今度は横見が尋ねた。
「常清殿、わかっておいでか?」
「天ぷらか?」
「違うぞい、霧降じゃぞい。迂闊に近付けば、あれは何彼構わず食い散らかすぞい」
「言われずともわかっておるわ! どこかで人間の手を借りるほかあるまい!」
「そう容易く事が運ぶとは思えんぞい……」
水色羽織の派手な子供と、桜のニセモノは、自分たちの都合のみで立ち話を続けている。
「お……おい。どちらさんなんだ? 桜の格好で? オレに何か用か?」
気を持ち直した千尋が、両者へ割って入った。
「だからこやつは狸じゃと言うておろうが!」
「へえ? た……タヌキ?」
ツネキヨに怒られても全然飲み込めずにいる青年の疑問へ、横見が答えた。
「『定まり事』を、どうにも小鬼が掻き回す。映し世にはそういう輩の現れることも、無いではないが……恙なく輿入れを行うためじゃぞい。かくなる上は、姫へ直談判をするが上策と」
告げる口調は退屈そうだった。老いた男の声で、のらくら喋る桜が違和感満載で気持ち悪い。まともに説明する気がないなら、せめて声か姿か、どちらかで良いから変えてくれと願っている書生の前で
「『輿入れ』など、よくも抜け抜けと! 狸の口車に乗る我らと侮るか!」
ねじれた杖で地を打ち、ツネキヨが甲高く吠えた。
「常世に飽いた狐の姫の気紛れに、乗る我らでもないのじゃぞい」
物臭そうに返した横見の目が一瞬、黄緑色に妖しく光る。その黄緑色の目と、千尋の目が合った。
「湾凪姫に伝えよ。時は満ちつつありまするゆえ、あの食物も間もなく効かなくなりましょう、とな」
桜の顔で笑みを浮かべ、『狸』は言う。そうして動かなくなっている書生から、視線を空へと移した。雲ひとつ無い青空を、ぎゃあぎゃあ啼く幾筋もの黒い線が切っている。
「鴉が集まってきよったぞい……雲竜だけは、相も変わらず何を考えておるやら、おらぬやら」
ぼやいた横見は続いて、背後へ控える白尽くめを見下ろした。
「退くぞい、土々呂」
「ははっ」
言い合うと、桜のニセモノは薬売りを伴い、すぐ横の薄暗い小路へ吸い込まれるように消えてしまう。
「待てい、横見!」
叫んだツネキヨも陽炎を蹴り、狭い小路へ飛び込んでいった。千尋一人が、神保町の街角に残される。
「……ば……化かされたのか……?」
ようやく、それだけ呟けた。
『それで結局、一連のこれは何の騒ぎだったのだ……?』
次の行動に移れないまま立っていた千尋の耳に人々の雑踏や、つくつくぼうしの鳴声が戻ってくる。しばらくの間、失神でもしていたような。世間と切り離されていたみたいな心細さで周囲を見回した。
「『湾凪姫』……雪輪さんか!」
思いつく。強い陽光に晒され続け、頭はすっかりのぼせていた。




