観工場
主に『煉瓦』と呼ばれている。
煉瓦造りの建物ならば、すでに浅草の仲見世も煉瓦造りになっているこの頃だけれど、『煉瓦』と言えば銀座の界隈。
銀座の煉瓦街は、自然発生した街ではない。
元より人はいて町はあった。そこが火災で焼失した後、新政府により倫敦府を範として計画的に整備された。だが街の形成当初に立派だったのは表構えだけで、真新しい街並みの足元では、道具売りが前時代と同じ作法で菰を敷き、商いをしていた。生粋の商売人には、金がかかりすぎると敬遠された。やがて安く払い下げられるようになって、ようやく格好がつきはじめたのである。
それも随分変わった。鉄道馬車が走り、人力車が並び、帝都中から人が訪れる。芸妓を呼べる料理屋や支那料理を出す店、西洋の酒を並べる本格的な酒場も出来た。風紀の面で怪しい店も少なくないが、怪しさも含んでいなければ人など集まらない。
中でも親しまれている場所のひとつが、『勧工場』だった。小店舗が多数入り、商品はどれも掛値なしの売値を明示して定価販売されている。店舗は小間取りで、文房具、薬品、家具、履物など日用品が一通り揃っていた。
「何買ったんだ、田上?」
蒸し暑く薄暗い勧工場の二階で、追いついてきた長二郎へ柾樹が尋ねた。書生二人の脇を、手を繋いだ母子連れが身体を横向きにして通り抜けていく。勧工場は通路も狭く、人が止まると流れがすぐに滞った。
「インクだよ」
長二郎は購入品を取り出してみせた。騒音に満ちた建物内では、声も自然と大きくなる。足元が板敷きで、下駄や履物の音がやかましく響く。でもこんな音までもが、地面以外を履物で踏んで歩くことが殆ど無かった人々には新鮮で、新しい時代の中に居る気分になれるのだった。
「あいつ、あれ持って帰るのか……?」
大きな壷を抱え、そっくり返って歩く男性を見つけて銀縁眼鏡が言った。
「勧工場だからなぁ。品物なんか、届けてくれないさ」
柾樹が尋ねる声にも、長二郎は何を当然といった顔をしている。
勧工場でサービスの手厚さや品質の高さを期待してはいけない。何もかもが安く簡便に、手軽であることが真骨頂だった。そして実際、そこが喜ばれて今の繁盛に繋がっている。
「ここはこういう場所なんだ。柾樹は勧工場へ来たことがなかったのか?」
発言が勧工場初心者の友人に、長二郎は信じ難いといった目を向けていた。
柾樹は狭かったり所帯じみている場所を好む。喧騒と手垢の染み付いた所を選んで、ほっつき歩く傾向がある。勧工場は、常連であってもおかしくないくらいに長二郎は思っていた。しかし違ったようである。
「無いわけじゃねぇ。神田に東明館が出来たとき、一度覗いた。でも人が多過ぎて酷い目にあって腹立ったから、何も見ないで帰った」
「だからここはこういう場所なんだっ! てばっ!」
下駄で床をガンガン踏みつけ、長二郎が怒鳴った。相内家の総領息子は、ごった返す人ごみに腹を立てて帰った経験があるという。一体何をしに行ったんだと、長二郎でなくとも言ってやりたくなる。
「ここよりもっと混んでたんだぞ? 見る気も失せる」
「あーあ、イヤダイヤダ……」
「何が嫌なんだよ?」
柾樹は心外そうに言い返した。
柾樹は、『店側が屋敷へ品を運び込み、購入側も値段を気にせず買うのが普通』という人種である。長二郎は、そうではない人である。価値観が違いすぎた。わかり合えない二人の応酬に
「な、なぁ、もういいんじゃないか? 帰ろう、趣味が悪いぞ?」
人混みの隙間から出てきた千尋が提言する。凛々しい眉は下がり気味で、悪事に加担しているみたいな、怯えた表情だった。小柄な長二郎が、自分よりずっと背の高い千尋を見下した目で見て口を開く。
「ここまで来ておいて今更善人面とは、君こそ趣味が良いな」
「じゃあテメェだけ帰れ」
柾樹にまで言われ、さすがに千尋も少しムキになって言い返した。
「お……オレはお前達が、弥助やおゆりさんに悪さをしでかすんじゃないかと、そこが心配でついてきただけでだな!」
「失敬だな、僕らは温かい心と二つの眼で、ご両人を見守っているだけじゃないか」
長二郎から出てきた返答に真心は篭っていなかったが、目は輝いている。
「うう……何で余計なこと言ったんだろうなぁ、オレも……」
「ホントにな。白岡が『弥助とおゆりが銀座の方へ出掛ける』と言うから、愛宕塔にでも行くのかと思えば、行き先が勧工場の荒物屋でがっかりだ」
「いや待て、箒と茶碗を買って終わりだなんて、そんなわけないだろ?」
「どうだかな」
「あああああああー……」
頭を抱えている千尋の横で、柾樹と長二郎は、にべも無い。弥助の情報を漏らしてしまった自分の不注意に、千尋は現在多大なる自責の念を覚えていた。
道楽書生三人は、弥助とおゆりを尾行している。そして尾行されている二人は出口近くの店で、台所用品を見ていた。買うものが決まり、弥助が金を払っている。
すると後ろに控えて待つおゆりへ、向かいの小間物屋の手代が声をかけた。
「そちらのご新造さま、如何でございます? この紅なぞ、さぞお似合いになりますよ」
店の品を一つ手に取り、近付いて愛想よく差し出してみせる。振り向いたおゆりは吃驚した顔になり、首を振った。
「いえ、そんな明るい色は、私には……」
「何をおっしゃいます。紅は色味の華やかなくらいが、肌の白さを際立たせるのでございますよ。こんな美人がお使いにならないなんて、勿体無い。ご亭主も、どうぞ勧めて差し上げてください」
断る女にも、手代は慣れた様子で怯まない。傍らで突っ立っている『ご亭主』に、揉み手で言った。弥助の肩がビクッと飛び上がったのが、距離のある柾樹たちにも見て取れた。
「お、おお……。ほ、欲しけりゃ、か、買ってやろうか?」
弥助の上擦った声が進言する。
「え……宜しいのですか?」
「なに、ついでだよ」
嬉しそうな笑みを浮かべるおゆりと、それを見ることも出来ずよそ見している弥助。
「微笑ましいな」
「だらしがねぇな」
「退屈な話しってのは度が過ぎると、欠伸も出なくなるんだなぁ」
見守る書生三人銘々、手前勝手なことを言っていた。
「あいつら、暮らし始めて何日だ?」
何気なく、柾樹が横の友人たちへ尋ねる。おゆりが弥助の長屋へ押しかけて
「一週間になるか?」
またしても何も考えずに千尋が答えた。店の前を塞がれ、ゼンマイ仕掛けのおもちゃが並ぶ玩具屋の小僧が、迷惑そうな顔をしているのも無視して、書生たちは語らっている。
「あの家じゃ、茶碗や箸も足りないだろう? だからこの辺りで、道具も揃えようという段取りになったんだ」
「段取りもくそもあるか」
千尋の心尽くしは柾樹に粉砕された。
「要は、弥助がおゆりに情が移ったと」
日用品まで揃え始めている小林夫妻(仮)。目つきの悪い銀縁眼鏡の声には、小馬鹿にした響きが宿っていた。
「『縁があった』と、それでいいじゃないか」
睦まじく品定めしている二人を眺め、千尋は頷いている。
「しかしあの女、未だに詳しい素性も言わねぇんだろ?」
柾樹の言葉に
「うん……『どうかお尋ねにならないでください』と頭を下げられて、弥助は無理強いも出来ず」
「そこは無理強いしろよ」
「仕方ないだろう? 『ワケアリなのは目に見えているし、放り出せない』と言っていたぞ」
千尋が弥助を弁護をした。聞くなり、他二名が黙りこむ。
「? どうした二人とも?」
態度が急変した友人達を、ノンキな弁護人は交互に見比べた。
「別に。何でもねぇよ」
「似た話を僕はどこかで聞いた気がするが、あえて思い出さないでいるだけだ」
柾樹も長二郎も仏頂面で答えた。
「? 何のことだ? 柾樹、何か思うことでもあるのか?」
「だから何でもねぇよ」
千尋の問いかけに、柾樹は目を逸らしてしまう。その彼らの背後より
「そういうことだったか……」
「だわおおおお?!」
ドスの利いた低い声で、のうっと出てきた大きな人影。禿げた頭と鋭い目つきをした大男が、太い腕を組んで立っていた。
「……ええと?」
「……誰だっけ?」
柾樹と千尋が考えているうちに
「あ……! 池内さん?! あの、随分前に、幽霊の掛け軸の偽物を掴まされていた?!」
一足早く思い出した長二郎が、大声で叫ぶ。聞いた禿頭が青褪めた。
「人聞きの悪い事言うんじゃねぇ! あれは偽物じゃねぇ! 本物だ! 本物なんだからな!」
禿頭が怒鳴りつける。だいぶ前、床屋の主人との幽霊掛け軸勝負で悶着したのを蒸し返され、歯軋りしていた。
「はいはい、わかりました。あ、そういえばその節は僕も大変にお世話になりました」
周囲の迷惑顧みない大男を宥める長二郎の横で
「なんだ、あの池内さんか。こんな所でどうしたんです? 探偵ですか?」
全部聞こえてないみたいに、千尋が朗らかに問いかけた。重大な仕事で来ていたら、応と答えるはずもない。でも千尋は千尋なので、そこまで頭が回らない。実際、池内氏が勧工場へ足を運んだ理由は仕事ではなかった。
「署長直々の人選で、小林の鑑定だ」
愚痴めいた言葉を漏らして、池内入道は自らの禿頭を撫でている。
「池内さんが?」
「チェッ、俺もよくぞこんなときに非番になっていたもんだぜ」
長二郎の驚きに、禿頭の探偵が疲れた顔で答えた。上司に選ばれ、たまの休みを潰してここまで来たのだという。柾樹が「うん?」と考える顔になった。
「署長直々……ということは」
「ああ、署じゃ小林の『秘密』なんぞ、スッカリ知れ渡っている。あの野郎も、あれで隠せているつもりなんだから、知らぬが仏というか」
禿男は口の端で笑ったが、笑うしかないといった顔だった。
「では池内さんは、あの女人の正体もご存知なんですか」
質問する痩せ書生を、池内が見下ろす。湿度の高さでむせ返りそうな観工場の中、首にかけていた手拭で汗を拭いた後、探偵を探偵している男は言った。
「『杉沢ゆり』。年は二十九。通町にある、『因幡屋』ってぇ蝋燭問屋の後家だ」
「後家?!」
書生三人の声が重なる。
「元の亭主が長松といってな。ガキの頃から身体は弱い、肝っ玉も小せぇ男だった。神経症気味で、周りの連中は長松相手となると、腫れ物に触るようだったってな。しかしまぁ、嫁をもらって年もとれば、ちったぁ落ち着いてくるかと思われたが、奴は逆さまに荒れていく一方。金遣いが荒くなり、店も親も女房に任せきりで、のむ、打つ、買うの三拍子だ。親も一人息子に手を焼いていた。女房のおゆりは亭主の世話に振り回され、長松が外で何かしでかすたびに頭を下げて回っていたそうだ」
仕事と関係ないからだろう。池内氏はおゆりとその元夫に関することを容易く語った。
「その長松が、おおよそ三月前になるか。本所の屋敷へ盗みに入ってな。後で知れたことだが、あっちこっちで同じように働いてやがった。惨めなこった。親の代から続く、一端の店の主がよ。だが、蝋燭屋だ。繁盛も今は昔で、近頃じゃ暮らしも苦しくなってきていたようだ」
便利で性能も高いランプなど新照明に押され、蝋燭は需要が落ちている。昔は生活必需品として絶対的な位置を確保していた蝋燭や行灯は、旧時代の産物となりつつあった。『洋燈は明る過ぎて野暮』と嫌がる者もいるし、昔ながらの蝋燭もまだ消費と需要がある。とは言え、日常生活の中から照明としての蝋燭の居場所が消えていくのは、時間の問題だった。
「しかしこの時、長松の入り込んだ先が悪かった。人受けの、親分株の妾宅だった。人に見つかり騒がれて、子分どもに半殺しにされ一週間苦しんだ果てに、おっ死んじまった。ザマをみたもんだ。それでおゆりは後家になってな」
池内氏は他人事の顔で語る。介抱の甲斐なく蝋燭屋の主人は世を去り、残された妻は後家となった。
「そして夫の四十九日の後、おゆりは大川へ身投げしたんだ」
「身投げ?!」
池内探偵の言葉に、また書生三人が声をほぼ揃えて叫んだが、声は室内の雑音で掻き消される。
「それじゃ、溺れかけていたおゆりさんを、弥助さんが助けたというのは……」
「ああ、身投げしたところを、通りかかったあの野郎が助けたんだよ」
長二郎のひらめきに、禿頭は頷いた。
隅田川は身投げが多い。警察も重点的に巡回をするなど、対応をしていた。弥助も駆り出されていたのである。それこれが切欠で小林弥助氏はおゆりという女の命の恩人となり、押しかけ女房という逸話を作る羽目になり、観工場で笊や茶碗や箸を買い揃える現実と相成っているのだった。
「弥助は知っているんですか? おゆりさんが後家だとか、その辺の事情は」
「無論」
千尋の問いかけに池内入道が頷いた。
「全部知らねぇ面して、あの女に付き合ってるのかよ」
思っていたより芝居上手だった中年男へ向けた柾樹の感想に
「危なっかしくて、見ていられなかったんじゃないのか?」
気遣うように千尋が答え、他面々も一旦黙る。
「そして、弥助さんが押しかけ女房を持て余しているのではないかと心配した署長さんが、偵察してこいと?」
聞き込みを再会した長二郎へ、もう一度手拭いで首回りの汗を拭う池内探偵はすぐ返事しなかった。やがて「まあな」と気だるく返し
「だが、思ったより悪い女じゃなさそうだ。それにどうせ、こんなママゴトいつまでも続くもんじゃねぇ」
「どういうことです?」
言い回しの中の微妙な含みを嗅ぎ付け、小柄な貧書生が尋ねる。それをちらっと見て、眉を器用に片方上げた池内は短く黙った後
「世の中、そういう風に出来てるってことさ」
小太り男とほっそりした女が、並んで観工場を出て行く姿を見つめて言った。




