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押しかけ女房

「あたしを、貴方様の女房にしてください!」


 女はそう叫び、畳に擦りつけるようにして頭を下げたという。


 今日の夜明け頃だった。

 仕事を終えた弥助が、二本の大きな船入堀に近いT町の自宅へ戻るとその女は、無断で家へ入り込んでいた。近所の者達も眠りこけている時間で、長屋の誰も闖入者に気付いていない。


 弥助は驚いた。普通に驚いた。

 一人暮らしの宅へ帰ったら人がいて、それが家族でも友人でもない見知らぬ他人だった。あまつさえ

「お帰りなさいまし」

と、笑顔に添えて言ってくる。見れば二人分の飯まで用意されていた。怖い。


 でも世の中には予想を超える人材がたくさんいることを、探偵稼業の弥助はよくよく知っていた。ここは下手に騒いではいけないと見極め

「おう、帰ったぜ」

などと答え、慌てず騒がず家に入る。

 

 何食わぬ顔をして、まずは女と差し向かいで一緒に飯を食べた。それから雑談をいくつか交わした後、女が淹れたお茶を飲み

「……で? あんた、何の用でここへ来たんだい?」

と、穏便に相手の話しを聞いてやろうとした。


 たちまち顔を強張らせた女は座り直して名を名乗り、上がり込んだ無法を詫びた。

 そうして上記の通り、女房にしてくれと叫んだのである。弥助はお茶を吹き、女はずぶ濡れになった。大騒ぎのすったもんだをしていた最中、弥助が月兎の櫛を懐へ忍ばせた仔細は本筋と関係ないので省略する。


「それで弥助は、鶴を助けていたのか?」


 日盛りの道で、千尋が友人達の背後からコソコソ尋ねる。明るい雑踏を、艾売りや水売りの声が飛び交っていた。


「一応なぁ。冬の話だそうだから、だいぶん前になる」

「仕事で八王子の辺りへ行ったとき、足に釣り糸が絡まって動けなくなっていた鶴を助けたそうだ」

「頭を齧られながらな」

 長二郎と柾樹は地面を蹴る下駄音と同様、だらけた口調で返事してやっていた。


「鶴も必死だよな……助けてもらえるのか、正月の膳に乗ることになるのか、区別なんてつかないもの」

 弥助と野鳥の激闘を思い描くだけで、長二郎は笑ってしまっている。けれど千尋は空気を察していない。


「その恩を返すために、鶴が女に化けてきたということか」

 弥助の語った逸話を丸ごと信じ込み、深刻な面持ちで固く腕を組んでいた。半歩後ろをついてくる友人の声を拾い、長二郎が口を開く。


「どうせどこかのノンキ者が仕立てた茶番だろう」

「全くな。空き巣女が、家主が帰ってこないと踏んでくつろいでいたのを見つかって、嘘をついたとか、そんなこったろ」

 柾樹も適当感溢れる声で続く。友人達の素っ気無い態度に、千尋が嘆いた。


「二人とも、弥助はあんなに困っているじゃないか。もう少し親身に……!」

「困っているだって? 冗談じゃないや!」

 能天気野郎が台詞を全部述べ終わる前に、長二郎が堪らず叫ぶ。


「弥助さん、浮かれているよな?」

「『目利き』の建前で、俺たちの所へ言い触らしに来る程度には浮かれてるな」

 柾樹と長二郎は話し合っている。普段何かとぶつかることの多い二人だが、今日は波長が合っていた。


「そ、そうなのか……?」

 周回遅れで現状に追いついた千尋の目に、鈍い衝撃が浮かんでいる。


「見ればわかるだろう? 言い訳にしても下手というか浅はかというか、めちゃくちゃというか」

「見え透いてるよな。年下の俺たちなら、安心して自慢できると踏んだんだろ」

 言うだけ馬鹿馬鹿しいといった表情で、貧書生と金茶頭は吐き捨てる。


「え……? じゃあオレが雪輪さんに櫛を見せに行ったのは……?」

「意味は無かっただろうが、良いんじゃないのか」

 千尋の問いに、しれっと長二郎が切り返した。


「そういや雪輪は、コイツについて何か言ってたか?」

 柾樹が懐から櫛を取り出して、ちらつかせて尋ねると

「『子供が使うような、可愛らしい櫛でございますね』と言っていた」

「左様でございますか。重ね重ねに無意味だなぁ」

「……」

 長二郎の駄目押しで、目利きのフリをした昼行灯は返す言葉もない。尚、舞い上がっている中年男は、書生三人の十歩前を肩で風切り歩いていた。


「おうガキども! 何をこそこそやってんだ!」

 振り向き、鼻息荒く怒鳴る。丸顔が、汗と脂で照り輝いていた。


「赤ん坊じゃあるめぇ。はぐれても探さねぇぞ? 俺の家へ連れてけって騒いだのは、テメェらだろうが!」

「はあ……」

「申し訳ございませーん」

 千尋と長二郎の声を聞き届け、弥助はふんと鼻を鳴らして再び歩き始めた。一同は弥助の住む、T町の長屋へ向かっている。


「それで……どんな女なんだ?」

 気を取り直した千尋が癖毛頭と銀縁眼鏡へ質問すると、懐手の柾樹が足を止めずに答えた。


「名前は、『ゆり』というそうだ」

「僕らもそれ以上は知らない。そこでこれから、見物に行こうという算段なんじゃないか」

 横の痩せた猫背も、楽しそうにくすくす笑って揺れていた。


 こんな会話をしながら四人が辿り着いたT町一帯は、昔からの町人町だった。表通りには古い大店も軒を並べている。弥助の住む長屋の近所を流れる川には、高砂橋という橋が架かっていた。


 四人は傾く日を反射する黒い木戸を潜り、どぶ板を踏んでいく。帝都の中年探偵の住居は一番奥で、すぐ前が井戸だった。やや緊張した面持ちの弥助が、割長屋の薄い引き戸をガタガタ音を立てて開ける。部屋の中は薄暗く、目が慣れるまで若干の時間を要した。


 今朝、弥助が見たものは茶番か狂言か、他の何かだったのではないか。

 誰もが多かれ少なかれ考えていた。でも、そうではなかった。


 天窓から差し込む僅かな光が頼りの室内に、ほっそりした女がいる。卵型の顔が振り向き、薄い湯気の向こうで「あ」と笑った。


「お帰りなさいまし、弥助さん」

 きれいな女は控えめに、弾んだ声でそう言った。


「うわ、本当にいた……ッ!」

「見えねぇぞ、どけ」

「いたたたた! イタイイタイイタイ!」

 千尋を踏み台に、柾樹と長二郎が室内を覗き込む。小声で言い合い、押し合いへし合いしていた。うるさい若造三人を、小太り男が背中で堰き止めている。


「あ、ああ……まだいたのかい」

 弥助が喉から絞り出した言葉は、自宅へ辿りつくまでの間、彼の心で渦巻き積み重なっていた、本音やら建前やら期待やら不安やらが入り混じった結果に他ならなかった。


「え?」

「いや、何でもねぇよ……うん。何でもねぇんだ」

 小首を傾げる女に、弥助は顔の前で手を振る。そわついている男へ

「お戻りになる時分じゃないかと思って、お夕飯の支度を始めていたところだったんです」

 女は竃の加減を見つつ告げた。白い喉を、玉のような汗が伝っている。


 夕飯の支度は、ある程度済んでいた。小さくて狭い裏長屋の台所や竃は、決して使い勝手の良いものではない。元より弥助は飯を作る気が無いため、道具もひどい。その中で何とかしたようである。


「あのう、そちらは……?」

 さっきから室内を覗き込んでいる書生姿の三人を気にして、不安げに女が尋ねた。

「ああ、俺の弟分みたいなもんさ。たまに面倒を見てやってる連中だ」

「そうでしたの」

 紹介を聞き、女はしとやかに頭を下げた。


「お初にお目にかかります。ゆりと申します」

「あ……はい」

「こ、こんにちは」

 声をかけられたのを切欠に土間へと入り込んだ三人は、ゆりを眺めて沈黙する。


――――大した美人じゃないか。


 押しかけ女房など碌なものではなかろうと、高をくくっていたのが裏切られた。


 佇まいはたおやかで、目鼻立ちもすっきりしている。束髪に結った柔らかそうな焦げ茶色の髪と、柳眉の下にある黒目がちの瞳が微笑んでいた。帝都のどこにこんなのが隠れていたのかと、年若い書生たちすら思う。質素な濃紺縞の単衣で、簪一つ着けていなかった。あえて目立たないようにしている風だが、美しいものは美しい。


「なるほど、これじゃすぐ追い出すのは勿体無ぇな」

「そんな事したら一年くらい後悔するぞ」

「うん、これは仕方ない」

「だからひそひそ話し合うなそこぉ!」

 小声で話し合っている三人組に、弥助が顔を真っ赤にしてがなりたてる。おゆりは口に手を当て、困ったように俯いた。


「どうしましょう。お若い方がこんな大勢いらっしゃるなら、もっと支度しておけば良かった。すみません、気が利きませんで……まずはこちらを召し上がって下さい。すぐに御酒を……」

 白瓜と鰯の膾を出したおゆりは、酒器を探し始める。慌てる女を、もっと慌てている弥助が飛びつくようにして止めた。実際に飛びつきはしなかったが。


「ややや! そんなこたぁ良いんだ、おめぇさんが心配することじゃねぇ。こいつらには水でも飲ませときゃ十分だ。というか、アンタがここで俺の飯の支度をしてくれていること自体が、何かおかしいようなそうでもねぇような気がするんだがごにゃ」


 まだ酒の一滴も飲んでいないのに、口も怪しくなってきていた。こういうときは岡目八目で、第三者の方が気楽だった。


「アンタ、歳は?」

 観賞していた柾樹が尋ねる。銀縁眼鏡越しに、藪睨みに近い眼差しで睨みつけた。おゆりは細い肩を縮ませる。

「は……二十はたちと九つです」

 か細い声で答える。俯き伸びた首筋に、夏の宵闇の如き色香が漂っていた。


「俺の姉貴どもより上か」

「年増か……年増もいいなぁ」

 現実を呟いている柾樹の斜め後ろで、長二郎が方向性の違う感想を呟いている。


「あの……それでおゆりさんは、どういった事情でここへいらしたのですか? 今朝、突然居たと聞いたんですが」

 穏やかな口調で、千尋が極めて率直な質問を向けた。一番状況の飲み込みが遅かった割に、こんなところだけ直球だった。書生の直球な問いかけに、年上の女は柔らかく微笑む。


「あたし……弥助さんに命を救って頂いたんです。弥助さんは、覚えていらっしゃらないかもしれませんけれど」

 おゆりは竈の前に戻ってまだ火の上にあった鍋を降ろし、手際よく始末をして言った。


「じゃあ、やっぱり……鶴ですか?」

「鶴?」

 千尋の質問に、不思議そうな表情で振り返った二重の瞼が瞬きする。鶴が恩返しに来たと思ったのだと青年が話すと、女はくすっと吹き出した。持っていた手拭いで口元を隠し、潜めた声で笑う。


「いいえ、鶴じゃありません。一月ほど前、川に落ちたあたしを、弥助さんが救ってくださったんです」

 白い頬に朱が上っていた。聞いた弥助が手を打つ。


「あ……アンタあの時の?! あの人か!」

 唾を飛ばして叫んだ。いわゆる頭の天辺から声を出すとは、きっとこういう時のための声である。


「何だ、知ってるのかよ?」

 人間はこんな声が出るものなのかとの感慨と共に、柾樹が呆れた眼差しを弥助へ向けた。

「どうして今まで気が付かなかったんです? こんなご婦人なら、わかりそうなもんでしょ?」

 同じく呆れ顔の長二郎も続く。指摘を受けた弥助は室内の暑さと高揚で、微妙に息切れしていた。


「んなこと言ってもよ……溺れかけた人間なんてのはな、形相変わっちまうんだよ。それにあんときゃ、髪はへちゃくちゃ、身体中に塵だの水草だの絡まって、まさかこんな……」


 最後が濁ったわけだが、要するに塵と水草の下にいるのが美女だったとは、想像もしていなかったのだろう。当時は助ける側も命がけで、品定めしている余裕が無かったとはいえ、探偵にしては目が節穴だったと言われても仕方ない。


「あのとき、これは運命だと思ったんです。初めてお会いしたときに」

 僅かに踏み出し、おゆりが告白する。

「………」

 凸凹書生三人が揃って弥助を見ると、男は目玉をひん剥き、腹を壊した狸みたいな顔でぷるぷる震えていた。


「あたしをこちらに置いては頂けませんか?」

 おゆりの顔が、緊張ゆえか一層赤く上気している。潤んだ瞳に見つめられた弥助は、ごくりと一度喉をならしてから口を開いた。


「な、なぁ……おい、その、そいつは今朝あんたが言っていた、『女房にしてくれ』っていう」

「はい」

 強く頷いた女の答えで、「えええ~っ?!」とのけぞる弥助は立派な大根役者だった。そこには誰も何も突っ込んでいないのだけれど


「ま、ままま、待った待った! 落ち着けよ、そんなむやみに話しを進めちゃあいけねぇよ!」

 中年男は難しい顔をして捲くし立てる。


「ご迷惑ですか……」

「そ、そうじゃねぇさ、今すぐ出て行けと言ってるんじゃねぇ。こんな汚ねぇ長屋でも、居たけりゃ何人居てくれたって構わねぇんだ。犬でも猫でも、矢でも鉄砲でも持ってこいってんだ。ただな? 嫁だ何だとなりゃ話しは別だ。お互い心も知らず、こんな無性に決めるのはためにならねぇ。じっくり考えた方が……」


 辛うじて冷静を装いつつも、弥助の話しは終着点を避けて踊っている。短い腕を絡ませた自らの身体を、もじりもじりとよじらせていた。書生三人はだんだん気持ち悪くなってきて、外界の空気を吸いに出る。


「弥助さんて、色恋だのと、そういう話しは……」

 両手を腰に当てて深呼吸をした後、長屋内部の様子を片耳で伺い長二郎が囁いた。

「無さ過ぎてどうしたものかと、よくおのぶが言っていたが」

 弥助の一家と付き合いの古い千尋が答える。


「帝都の探偵なら金には苦労してねぇよな……世話する奴がいなかったのか?」

「いや、たしか見合いも何度かしていた」

「いっそ女嫌いか」

「いいや? 十二階の百美人なんか、もうやめろと周りに言われても通っていたぞ」

 次なる柾樹の問いにも、千尋は首を横に振っている。長二郎が苦笑いを浮かべた。


「ま、美人に目がないのはわかったが……弥助さん、好みが凝り過ぎているとか、特別こじれているのかな?」

「こじれている?」

「たとえば……そうだな。『類稀なる美貌を持ち卑しからぬ血筋で、人格高潔にして剣を取れば天下無双の女傑だが、弥助さんの前では世話焼きでそそっかしくて気が弱くなる十五歳でなければならぬ』とか」

「そんな事はない」

「そういや弥助の奴、俺たちくらいの歳の頃には唄や三味線の稽古もしていただの、前に偉そうに言ってやがったな」


 弥助の『好み』は特殊条件を必要とするわけではなく、さほど変則的でもないらしい。


「ともかくこの辺りを弥助に尋ねてはいけないと、お父っつぁんやおっ母さんや、皆に言われて、俺は育った」

「そうか」

「色んな生き様があるんだな」


 土埃が漂う長屋の前で薄暗く語らい、青年達はここまでの成り行きに思いをはせた。


 かような具合に仕上がってきていた弥助の人生。その生活圏内に突然、金を払ったわけでもないのに女が。きれいな女が押し込んできて、女房にしてくれと頼んできたのだ。魂消てしまった弥助は自宅を飛び出し、両国橋の西詰め近くまで逃げてきたのである。仕事のことなど、忘却の彼方だろう。今の弥助にとって、そんなものは果てしなく優先順位が低い。


 一方、板葺きのオンボロ屋根の下では、押しかけ女房を二三日ここで預かるという結論に辿り着いていた。


「帰るか」

「そうだな」

「思ったよりつまらなかったな」


 面白くもない光景を目の当たりにした面々は、早々に現場を離れる事にした。

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