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月兎の櫛

 一度は震えの止まった雪輪だったが、翌日には元通りになってしまった。身体は万遍なく小刻みに震え、常に纏っていた異様な気配も復活した。女中が常態に戻り、書生たちは安心したような落胆したような、どっちつかずの気分になった。


 それにつけても、突然雪輪の震えが止まったり、再発したりした仕組みは判明していない。しかし切欠がチョコレートにあるらしいという点は、確実さが増した。雪輪にもう一度チョコレートを食べさせたら、やはり震えが止まったのだ。一口食べると数秒で震えが止まり、またあの『憑き物』が落ちた風の状態になる。劇的に過ぎる効果の現れ方だった。効きすぎて、非現実的である。だが


「治まるなら、それで良し」

というまことにざっくりした納得で、チョコレートと雪輪の変化の因果関係及び仔細については、放置されている。追及するほど探求心を持っていたり、生真面目な性質の人間が、この古道具屋にはいなかった。


 そして中心たる雪輪は、喜ぶでも悲しむでもなく通常の女中業務をこなしている。それでも譲られたチョコレートの残りを使い、食べ方などを試している。

「興味はあるようだぞ」

と、書生三人は囁き合っていた。


 現時点での結論として、雪輪が食べて効果の現れるチョコレートの分量は、大人の小指の先ほど。第一関節程度の大きさと判明した。それ以上少ないと、効き目がない。多く食べても、効果の続く時間は変わらない。チョコレートで震えが止まっているのは、大よそ十二時間。つまりずっと震えを止めていたければ、定期的にチョコレートを食べなければならないようだった。


 このように雪輪とチョコレートの影響その他が大体わかってきた、ある日。


「柾樹さま、困ります……!」

 古道具屋の井戸端で、雪輪が懸命に訴えていた。蜩の声と昼の太陽が降り注ぐ裏庭で、娘の華奢な白い手首を掴んだ柾樹が振り返る。


「良いだろ、少し出るだけなら」

 銀縁眼鏡は仏頂面でそう言って、娘を伴い裏戸の方へ進んでいた。


 白く霞む青空の縁には、大きな雲の峰が幾つも聳えている。

 柾樹は蔵の二階からここまで、殆ど抱えるようにして雪輪を引きずってきたのだった。今も柾樹の手は、娘の手首を掴んで離さない。柾樹に特別強く握っている自覚はなかった。けれど非力な雪輪が振り解いて逃げられる握力ではない。


「表通りまで行って、帰ってくるだけだぞ?」

 別に怪しい場所へ連れ込もうという事ではない。裏庭に踏み止まっている娘の抵抗ぶりに、琥珀色の前髪の下で柾樹は言った。眼前の雪輪は日頃のすまし顔が影をひそめ、本気で焦っている。それがまた珍しくて、ますます青年は引き返せなくなっていた。


「困るのです」

「何が困るんだよ?」

 手を離させようとしている娘のもう一方の手を、柾樹の手が更に上から握り返して動きを封じる。雪輪の真っ黒な目を覗き込むと、朝方に食べさせたチョコレートの効果か。雪輪の周囲の空気が、どこか『緩い』。黒い瞳の奥に小さな動揺を見つけた柾樹は、うっすら感動していた。この感動は、河原で変わった色の小石でも見つけた時の気分に似ている。


「お前、いつまでもここで隠れ暮らすつもりか? そんなこと出来るはずねぇだろうが!」

 頭一つ分くらい低い位置に向けて、柾樹はちょっと叱った。“ちょっと”のつもりなのだが、どうも全体が必要以上に攻撃的になる。気の弱い子供ならこれだけで泣くだろう。雪輪は薄い唇を僅かに引き結んでいた。


「大体な、変に隠れるから怪しまれるんだよ! 堂々としてりゃいいじゃねぇか。今は震えも止まってるだろ。たまには外に出ねぇと、歩き方忘れちまうぞ!」

 柾樹は常々思っていたことをぶつけた。そうして外界へ続く戸の方へ、再度娘を引っ張っていこうとする。


「いえ、でも……!」

 雪輪はまだ抵抗していた。すると手を引く強い力が急に途切れ

「何だ、俺と歩くのがそんなに嫌か」

いきなり拗ねはじめた。

 むすっとしている柾樹と、見上げる雪輪の目が合う。静寂の波紋が広がった後

「そ、そのようなことでは……」

言い淀み、雪輪は微かにかぶりを振る。それを見下ろし、夏の光で照らされる娘の肌のあまりの白さに、柾樹は少々目が眩む思いがした。


「困るのです。お願いでございます、今はお許しください」

 俯いた雪輪は、小さな声で希う。困っているようだった。でもそんな『お願い』をされたら、柾樹としてはもっと譲れなくなる。地黒の顔に、底意地の悪い笑顔を浮かべた。


「ダメ」

 断言するなり、娘の二の腕を掴んで裏路地へ続く木の扉の方へ引きずっていく。もう聞く耳は持たないといった風だった。

「柾樹さま!」と雪輪が微かに叫んだ、そこへ


「何してるんだ?」

 外側から戸が開いた。鳶色の癖毛頭が、裏庭へと入ってくる。風呂敷包みを抱えた長二郎だった。友人の登場に、柾樹は一瞬気を取られる。


「あ!」

 隙を逃さず、雪輪がするりと抜けだした。

 長い黒髪を靡かせた娘は後も見ないで、蔵の方へと一目散に逃げていく。迎えの挨拶もしなかった辺りで、雪輪が相当慌てているのだろうことは、状況の見えない長二郎にもわかった。


「コラ! 雪輪!」

 バタンという音と共に扉の閉められた黒漆喰の蔵へ向け、柾樹が怒鳴る。応答はない。真昼の裏庭で、柾樹の態度と、逃げる雪輪と。それらを眺めて後ろ手に木の戸を閉め、長二郎が言った。


「相内君、弱い者苛めは感心しないな」

「苛めてねぇよ」

 長二郎の苦言へ、柾樹は不満げに言い返す。逃げ出すほど嫌がられていたわけだけれど、何故か柾樹の方が不機嫌そうにしていた。


「あいつに外に出ろって言ってただけだ」

 実力行使をしていた点は言及しない。

「余計なことを……」

 蔵を睨んでいる銀縁眼鏡の言葉に、長二郎が肩を窄めた。


「今更どうでもいいことじゃないか。そっとしておいてやりたまえ。訳有りなんだ。下手な無理強いをして、彼女が蔵で天岩戸になってみろ。誰が飯を炊くんだ?」


 雪輪が出てこなくなった場合における長二郎の心配は、そこだった。


 ついでに言えば、柾樹が雪輪に時々ちょっかい出しているのを、長二郎は知っている。きっと柾樹に害意はない。蝶や蟷螂をいじるように、あの女中娘の髪を引っ張ったり、小突いてみたりしているのだ。それに対し、雪輪は殆ど無反応だった。そして雪輪にちょっかいを出した後、必ずと言っていいほど柾樹は古道具に躓いて転んだり、室内の建具が頭の上に落ちてきたりと痛い目に遭っている。これを長二郎は内心『天罰』と呼んでいた。そこは一先ず棚上げするとして


「……一度、試してみようかと思ったんだよ」

柾樹が独り言を言った。小柄な書生は横を見る。

「? 何を?」

「あいつが『外』に出たら、どうなるか」

 腕を組んで蔵を見上げ、柾樹が答えた。


 小柄な貧書生は、おや、と思う。銀縁眼鏡の奥の眼差しが、普段と違う。喧嘩をしている時の眼光に近い。余程怒らせない限り、柾樹は自分より力の弱い者に対してこういう眼は向けない。


「どうなるって……? 溶けて消えるはずもあるまい」

 俄かに驚き、尋ねた長二郎へ

「わかってるよ、んなこたぁ」

言い返して井戸に向かった柾樹は、水をくみ上げ眼鏡を袂へ入れると顔を洗い始める。


――――何なんだ?


 雪輪の変化に感化され、柾樹まで調子が狂ってしまっているのかと長二郎は考える。

 そんな困惑だらけの裏庭へ、再び別の誰かの草履の足音が近づいてきて


「おう、邪魔するぜ!」

 威勢の良い声を乗せて戸が開き、鳥打帽を被った中年男が入って来た。

「あれ、弥助さん? お久しぶりです」

 現れた手足の短い小太り男に、振り返った長二郎はにこりと挨拶する。


 特段の用事が無くても、弥助は時々古道具屋へ顔を出すことがあった。だがここしばらくは忙しかったのか、顔を見ていなかった。弥助は日の出ている時間帯しか、数鹿流堂に来ない。彼は以前ここで顔色の悪い女の『幽霊』に遭遇し、引っくり返っている。そのためか黄昏時以降は、近付きたがらないのだ。


 もう少し弥助の来るのが早くて、この探偵と雪輪が再会していたら今回はどうなっていただろう? と笑顔の裏で、長二郎は愉快に想像を巡らせていた。


「白岡なら、いねぇぞ?」

 袖で顔や首を拭っていた柾樹が、弥助に言った。

「ああ、そうかい」

 脱いだ鳥打帽で自分を煽ぎ、弥助は答える。そして「毎日暑いよなぁ」などと言い、視線をうろうろ動かしたり、指先で頬を掻いてみたりしていた。元々こせこせした男だが、普段に増して落ち着きがない。


「……何か用があったんじゃないんですか?」

 尋ねた長二郎へ

「あぁ……大したことじゃねぇんだ」

答える言葉まで、何か勿体ぶっている。あやしい……という視線を向けられた弥助は


「ええ、いや、その……そうだ。若旦那に目利きを頼もうと思ってな」

 口走り、懐を探り始めた。

「目利き?」

「おう、コレだ」

 小太り男が取り出して見せたのは、半月型の小振りな櫛。


 漆は一部剥げており、歯も一本欠けている。蒔絵の可愛らしい兎が、背後の月を気にするように振り返りながらとび跳ねていた。


「何だコレ? 貰いもんか? 拾いもんか?」

 櫛を見て、柾樹が質問する。兎の櫛が、中年探偵の趣味や所持品ではないのはわかっていた。弥助は脂ぎった丸顔に苦い表情を浮かべて黙り込んでいる。

 やがて手招きして青年二人を周囲に集めると、声を潜め


「実はな……今……俺の家に……知らねぇ女がいるんだよ」

 怪談みたいに語りだす。聞き役たちは返事に窮した。


「それは、泥棒っていう……」

 言いかけた長二郎を遮り、中年男は鼻の前で手を振る。

「いや、そうじゃねぇ。飯作って、俺の帰りを待ってるんだよ」

「知らねぇ女が?」

 柾樹が顔をしかめた。弥助は「おう」と短い首で何度も細かく頷く。表情は曇ったままだった。


「『お帰りなさい』なんて言ってよ。三つ指ついて出迎えてくれてだな」

「何だそりゃ??」

 女の口調を再現する弥助の言に、青年達は間抜けな声を発した。


「それが、知らない人なんですか?」

「そうなんだよ」

「若干、怖いですね」

 弥助に降りかかっている事象へ長二郎は現実的な感想を述べるも、口元は少し笑ってしまっていた。弥助の表情が切実すぎるのもいけなかった。葬式など笑ってはならない時ほど笑いたくなったりするのと同じで、柾樹も薄笑いを交えて言う。


「夢でもみてたんじゃねぇのか?」

「夢じゃねぇ! 夢じゃあねぇんだ! その証拠がこいつなんだよ!」

「櫛か」

 弥助が掌の上でぺしぺし叩いている櫛が実物として存在しているのは、疑う余地が無い。


「よくある話じゃないですか。辻で出会った芸者の正体が、古い杓子だったとかいう」

「何でどいつもこいつもアタマっから疑ってかかるんだよ! 夢じゃねぇって言ってンだろ!!」

 長二郎がまた混ぜっ返すから、中年男は声が大きくなる。


「……で、美人なのか?」

 尋ねた柾樹の口ぶりには、微かにからかう音色が漂っていた。しかし弥助の表情筋は崩れない。


「そうだな……ま、割と出来の良い方じゃねぇかとは思うな」

「ふーん、ますます意味がわからん」

「世の中には様々なことがあるものなんだなぁ」


 相談者に合わせて真面目な気配を装い、書生達は言い合った。


「いやあ、参ったぜ。こんな厄介が転がり込んでくるなんざなぁ……俺は何か罰の当るようなことしちまったのか? もうすぐ死ぬのか?」

「落ち着け、混乱し過ぎだ」

 ここへ来て動揺を隠しきれなくなってきた弥助に、縋りつかれた柾樹は迷惑顔になる。長二郎も、少し改まって口を開いた。


「うーん……独り身の男の家へ、頼んでもいないのに美女がやってきて、甲斐甲斐しく世話をしてくれるとはねぇ……?」

 考えた末、風呂敷包みを抱える腕を変え、癖毛頭は意見する。


「弥助さん。どこかで鶴でも助けたんじゃないですか?」

 喉の奥で笑いを押し殺して言った。


 人ならざる何者かを助けた男のもとに、後日『それ』が美しい女性となって訪ねてくる物語。細部の違いはあれど、各地各所で語られる昔話の一形態だった。もっとも長二郎としては、弥助を落ち着かせるための冗談だったのである。それが


「あ……助けたな」

「助けたのか?!」

 掌で額を打った弥助に、書生たちの方が驚いた。

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