Chocolate
「芝公園に、鬼が出たそうですよ」
数鹿流堂の縁側で仰向けになった千尋が、夕紫に染まる天井を眺めて呟いた。
夏も盛りを過ぎている。軒の向こうの紫紺の空には、緋色の入道雲が浮かんでいた。微風は穏やかで、爽やかな夕刻の空気が満ちている。心持ち、この座敷一帯だけ涼しい。
草と土と、蚊燻しの煙の匂いが漂う中、千尋は貸本を片手に半分うたた寝していた。そこから何の脈絡も無く始まったのは、鬼の話。
「芝公園も広いが……どこに出たんだ? 誰に聞いた?」
右手に鉛筆、左手に団扇を握り文机へ向かっていた長二郎が、首だけ振り向き尋ねた。
「袋田さんのところの、お滝さんに聞いたんだ」
「へ、あやしいもんだね。色んな意味で」
情報源を知り、長二郎は再び机上へ目を戻す。
「鬼は、どのような?」
畳廊下で洗濯物を畳んでいた雪輪が問う。千尋は身体を起こし、眠そうな目で語り始めた。
「紅葉館に出たんです。黄昏時、人の何倍もある、大きな影が屋根の上にいるのを見たと、客が騒いだ。その場に居た女中も見たと話しているそうです」
「ますますあやしいや」
手を止めることなく貧書生が話しを止めた。
「お滝さんの口が、まず信憑性に欠けるよ。それに、紅葉館だろう? 文士気取りの金持ちが、酒を飲み過ぎていたんじゃないのか」
長二郎は机と向き合ったままである。嫌悪と猜疑が、言葉の隙間から立ち上っていた。
紅葉館は会員制の宴会用、豪華料理屋である。鹿鳴館が消えた後は、海外の要人を招く接待の場にもなっていた。政治家や軍人、文学者の会合などでも用いられている。庶民には縁の遠い場所だった。存在自体を堕落の象徴と軽侮する者もいた。尚、遥か後年この建物の跡地には、紅白の尖った鉄塔が建設される。
他愛ない鬼談義が交わされていたそこへ、土間の方角より下駄の音が聞こえてきた。やがて「ただいま」の一言も無く現れたのは、この二、三日というもの出かけたきり帰ってこなかった金茶頭。
「おお、柾樹か」
柾樹は普段通りの仏頂面だったが
「お帰りなさいまし」
「うん」
震え続ける女中が指をついて頭を下げると、頷いた。返事をしただけ、機嫌が良いようである。青年は縁側の近くに胡坐をかくと、持っていた信玄袋の紐を解いて言った。
「お前ら、土産があるぞ」
「土産?」
土産の言葉に条件反射し、長二郎が団扇をバタバタ扇いで寄ってくる。
「珈琲挽茶入りの角砂糖だったら僕はいらないぞ?」
「違う。あれは俺だって嫌いだ」
衆目が集まるのを待って、柾樹が出してみせたのは
「チョコレートだ」
円筒形をしたブリキの缶だった。
濃い黄色の肌に、きっぱりした赤い色で外国の社名が印刷されている。装飾は少なく、モダンで洒落た缶だった。
「チョコレート?」
長二郎は早速缶を手に取り、抱えるようにして観察し始める。
「これは見たことないなぁ。舶来品か?」
千尋も楽しそうに、黄色いブリキの缶を眺めている。雪輪は三人から離れた場所で、いるのかいないのかわからないほど大人しく控えていた。
「やすのがどっかで貰ったんだとよ。食ってみようぜ」
柾樹が言い終わるのを待たず、長二郎がどこからともなく缶切りを取り出し缶を開け始めた。
銀縁眼鏡は駿河台の実家へ帰っていたのだ。資金調達で久しぶりに帰って来た弟に、甘やかしがちな姉のやすのが、手土産としてチョコレートを持たせたということであった。
「……美味いのか?」
自分で開けたくせに、缶を手にした長二郎が柾樹と千尋を見て確認する。チョコレートは株式取引所が開業したのと同じ頃より、国内でも販売されていた。
「食べて確かめてみたらどうだ」
千尋が微笑んで促す。
缶から出てきたチョコレートは、大人の指くらい大きさ。棒状で、五つ連なった形をしていた。そこへ雪輪が箸と懐紙と、小皿と黒文字を盆に載せて持ってきた。小皿の上へ取り出された菓子を見て、長二郎の表情が険しくなる。
「チョコレートというのは、こんな真っ黒だったか?」
「そうだよ」
色を見ただけで引き気味の友人に、柾樹が答えてやっていた。
「羊羹みたいな色だよなぁ」
千尋も、のったり感想を述べる。
「雪輪さん、西洋の菓子ですよ」
背後に控える雪輪へ向け、精悍な顔を無防備に崩して千尋が声を掛けた。
「チョコレートを見るのは初めてですか?」
「はい」
千尋に問われると、青白い顔色の娘は微かに頷く。
「げ、溶けてやがる」
手にくっ付いたチョコレートを睨み、柾樹が憎々しげに唸った。
「味に変わりはないだろう?」
菓子を手に取る長二郎は、食べることで頭がいっぱいの顔だった。
「それじゃ早速」
言うなり、書生三人は揃ってチョコレートを口へ放り込む。誰も懐紙を使わない。
しばらく味わった後
「ほお、美味いじゃないか」
「そうかぁ? 俺はどうもこの味は好かねぇな……白岡は?」
「うむ、悪くない。ただ、ざらざらして後味が良くないなぁ」
へばりつくチョコレートに苦労しつつ、各人が各人なりの感想を述べた。指についたチョコレートを行儀悪く舐めていた柾樹が、銀縁眼鏡を後ろへ向ける。
「雪輪、食ってみろ」
女中へ命じた。柾樹はたまにこういった気まぐれをする。以前も雪輪の髪に飾る赤い端切れを、どこからか調達してきた。しかしランプに火を入れていた雪輪は、人々へ近付かない。
「早く来い」
再び呼ばれ、やっと女中は橙色の光が漏れるランプを傍らへ置き、柾樹の斜め後ろへ座った。
「頂戴いたします」
長二郎が差し出したチョコレートの乗る小皿を、震える華奢な両手で慎重に受け取った。暑さで柔らかくなっている物体を、黒文字でゆっくりと小さく切り、更にゆっくりした動作で一欠け口へ運ぶ。
「美味いか」
不味いとは言わせない気配で問う柾樹に
「はい」
雪輪はとても美味しそうには見えない口ぶりで返す。二人の会話はこのように、洒落も情緒もないのが常だった。でも千尋と長二郎も、既に馴染んでいて気にしない。
「味はともかく、溶けやすいのはどうにかならないのか?」
「元は飲み物だったというから、仕方がないんだろう」
チョコレートへの感想や注文を言い合っている。
その途中で、長二郎がとある異変に気付いた。
「あ、あれ……?」
癖毛の書生は、隣の白い娘を見つめている。
「どうした?」
長二郎の変化に、柾樹と千尋も身構えた。
「雪輪ちゃん……止まってないか?」
長次郎が、ややうろたえた声で指摘する。雪輪は相変わらず、無表情に座っていた。
「ほら、手が震えてない」
長二郎は確かめるみたいに言う。
「あ……」
そこで娘は己が右手を見て、小さく声を漏らした。黒曜石と同じ色の瞳が、僅かに見開かれている。日頃表情が少ない雪輪にしては、まぁまぁな驚きの表れだった。
「うわ、本当だ! 震えてない!」
「どうした急に?! 具合でも悪いのか?!」
千尋と柾樹も、飛び退る勢いで叫んだ。
「ま……まさか、コレか?」
長二郎が指さしたのは、人の輪の中心に居座る黄色い缶だった。
「ちょ、チョコレートが? そんな、薬じゃあるまいし……どうして治るんだ? それにもしそうだとしても、こんなテキメンに効くか?」
割と冷静に千尋が反論する。
「それは僕もそう思うが」
言っている長二郎も、当惑が眉間の辺りに表れ出ていた。混乱気味な友人達へ、マイペースな柾樹が口を挟む。
「何だっていいじゃねぇか。おい雪輪、もっと食ってみろ。目つきも治るかもしれんぞ」
「柾樹、黙ろうか」
「ま、まだチョコレートが原因と決まったわけじゃないだろ!」
チョコレートの載った小皿を、殆ど突きつけるようにして雪輪の鼻先へ差し出す柾樹を、他二人が止めた。当の雪輪は菓子を見つめて、黙している。間断なく続いていた身体の震えは、全く止まっていた。
「雪輪さん、どこかこう……痛いだとか痒いだとか、身体におかしなところはありますか?」
千尋が尋ねると、雪輪は青白い首を僅かに傾げる仕草をした。
「いいえ……ただ……」
呟きながら、胡粉みたいに真っ白な両手を目の前にかざす。
「これまでずっと震えておりましたので……それが無いのは、奇妙と申しますか……不思議な心持が致します」
途切れがちに語っていた。それが、そのうち
「お茶をお持ち致します」
己の役割を思い出して、急ぎ立ち上がろうとする。それが均衡を崩し、ふらりと転びかけた。
「わ!」
「だ、大丈夫か?!」
両隣の柾樹と長二郎が、膝をついた娘の腕や肩を咄嗟に支えた。雪輪が同居人達にこんな『隙』を見せたのは、初めてだった。震えが止まった現象以上に、彼らはこちらの方にもっと驚愕した。
「も……申し訳ございません」
詫びて、女中は台所へ引っ込んでいく。今度は歩くのも問題なさそうだった。
「そうか……震えているのが当たり前だったから、震えが止まると反対に動きにくくなるのか」
灰色の後姿を見て、長二郎が納得した顔で呟く。そして気まずそうに唸った。
「触ってしまった……」
「意外と普通だろ」
「うん……いや、待て。何で君はそんなこと知っているんだ?」
平然と言う柾樹に、長二郎が問い質そうとしたのを遮って
「そ、それより、なぁ……雪輪さんの様子が、ちっと変じゃないか?」
台所の方を伺い、千尋が口に手を添え囁いた。
「あ? どこが?」
「変に決まっているだろう。急に震えが止まったんだ」
「違う、そこじゃない」
頭を寄せ合う格好でこそこそ答える二人へ、大柄な青年は首を横に振る。
「オレもよくわからんが……チョコレートを食べる前と、後で……雰囲気が変わったというか。気のせいだろうか?」
短い髪を掻き、千尋は眼前の友人達へ困惑まじりに尋ねた。
「ああ……」
「確かに……」
千尋のあやふやな感想を、柾樹たちは否定しない。
雪輪は常に、独特な空気を纏っていた。
初めて会ったとき彼らの肌を粟立たせた、何か異様な気配である。それは無理に言葉にすれば妖しく、冷たく硬質で、非常に重い。長期間顔を突き合わせている甲斐あってか、書生たちも随分慣れたと思っている。でも暗い廊下で急に雪輪に遭遇すると、息が止まりそうになる点は変わっていない。
彼らはそれもこれも、あの娘の少々特殊な条件の揃った外見の成せる業と考えていた。だがチョコレートを食べた後も、身体の震え以外で雪輪の外見は変化していない。にも拘らず、雪輪から感じていた奇妙な圧迫感が、極端に薄くなった印象を受ける。
「そうだろう? 何というか……上手く言えないんだが、こう……?」
言い表せない千尋は、額を掌で押さえ苦悶している。黄色い缶を見つめて考えていた長二郎が、友人に代わって表現した。
「『憑き物が落ちた』、ような?」
「そうだ!」
「それだ!」
千尋と柾樹が感嘆の声を上げる。
「しかし、チョコレートで……?」
解せない柾樹の声が、夕闇色と共に古畳へ沈んでいった。




