表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
83/164

Chocolate

「芝公園に、鬼が出たそうですよ」

 数鹿流堂の縁側で仰向けになった千尋が、夕紫に染まる天井を眺めて呟いた。


 夏も盛りを過ぎている。軒の向こうの紫紺の空には、緋色の入道雲が浮かんでいた。微風は穏やかで、爽やかな夕刻の空気が満ちている。心持ち、この座敷一帯だけ涼しい。


 草と土と、蚊燻しの煙の匂いが漂う中、千尋は貸本を片手に半分うたた寝していた。そこから何の脈絡も無く始まったのは、鬼の話。


「芝公園も広いが……どこに出たんだ? 誰に聞いた?」

 右手に鉛筆、左手に団扇を握り文机へ向かっていた長二郎が、首だけ振り向き尋ねた。


「袋田さんのところの、お滝さんに聞いたんだ」

「へ、あやしいもんだね。色んな意味で」

 情報源を知り、長二郎は再び机上へ目を戻す。

「鬼は、どのような?」

 畳廊下で洗濯物を畳んでいた雪輪が問う。千尋は身体を起こし、眠そうな目で語り始めた。


「紅葉館に出たんです。黄昏時、人の何倍もある、大きな影が屋根の上にいるのを見たと、客が騒いだ。その場に居た女中も見たと話しているそうです」

「ますますあやしいや」

 手を止めることなく貧書生が話しを止めた。


「お滝さんの口が、まず信憑性に欠けるよ。それに、紅葉館だろう? 文士気取りの金持ちが、酒を飲み過ぎていたんじゃないのか」

 長二郎は机と向き合ったままである。嫌悪と猜疑が、言葉の隙間から立ち上っていた。


 紅葉館は会員制の宴会用、豪華料理屋である。鹿鳴館が消えた後は、海外の要人を招く接待の場にもなっていた。政治家や軍人、文学者の会合などでも用いられている。庶民には縁の遠い場所だった。存在自体を堕落の象徴と軽侮する者もいた。尚、遥か後年この建物の跡地には、紅白の尖った鉄塔が建設される。


 他愛ない鬼談義が交わされていたそこへ、土間の方角より下駄の音が聞こえてきた。やがて「ただいま」の一言も無く現れたのは、この二、三日というもの出かけたきり帰ってこなかった金茶頭。

「おお、柾樹か」

 柾樹は普段通りの仏頂面だったが

「お帰りなさいまし」

「うん」

震え続ける女中が指をついて頭を下げると、頷いた。返事をしただけ、機嫌が良いようである。青年は縁側の近くに胡坐をかくと、持っていた信玄袋の紐を解いて言った。


「お前ら、土産があるぞ」

「土産?」

 土産の言葉に条件反射し、長二郎が団扇をバタバタ扇いで寄ってくる。

「珈琲挽茶入りの角砂糖だったら僕はいらないぞ?」

「違う。あれは俺だって嫌いだ」

 衆目が集まるのを待って、柾樹が出してみせたのは


「チョコレートだ」

 円筒形をしたブリキの缶だった。

 濃い黄色の肌に、きっぱりした赤い色で外国の社名が印刷されている。装飾は少なく、モダンで洒落た缶だった。


「チョコレート?」

 長二郎は早速缶を手に取り、抱えるようにして観察し始める。

「これは見たことないなぁ。舶来品か?」

 千尋も楽しそうに、黄色いブリキの缶を眺めている。雪輪は三人から離れた場所で、いるのかいないのかわからないほど大人しく控えていた。


「やすのがどっかで貰ったんだとよ。食ってみようぜ」

 柾樹が言い終わるのを待たず、長二郎がどこからともなく缶切りを取り出し缶を開け始めた。


 銀縁眼鏡は駿河台の実家へ帰っていたのだ。資金調達で久しぶりに帰って来た弟に、甘やかしがちな姉のやすのが、手土産としてチョコレートを持たせたということであった。


「……美味いのか?」

 自分で開けたくせに、缶を手にした長二郎が柾樹と千尋を見て確認する。チョコレートは株式取引所が開業したのと同じ頃より、国内でも販売されていた。


「食べて確かめてみたらどうだ」

 千尋が微笑んで促す。

 缶から出てきたチョコレートは、大人の指くらい大きさ。棒状で、五つ連なった形をしていた。そこへ雪輪が箸と懐紙と、小皿と黒文字を盆に載せて持ってきた。小皿の上へ取り出された菓子を見て、長二郎の表情が険しくなる。


「チョコレートというのは、こんな真っ黒だったか?」

「そうだよ」

 色を見ただけで引き気味の友人に、柾樹が答えてやっていた。

「羊羹みたいな色だよなぁ」

 千尋も、のったり感想を述べる。


「雪輪さん、西洋の菓子ですよ」

 背後に控える雪輪へ向け、精悍な顔を無防備に崩して千尋が声を掛けた。

「チョコレートを見るのは初めてですか?」

「はい」

 千尋に問われると、青白い顔色の娘は微かに頷く。


「げ、溶けてやがる」

 手にくっ付いたチョコレートを睨み、柾樹が憎々しげに唸った。

「味に変わりはないだろう?」

 菓子を手に取る長二郎は、食べることで頭がいっぱいの顔だった。


「それじゃ早速」

 言うなり、書生三人は揃ってチョコレートを口へ放り込む。誰も懐紙を使わない。

 しばらく味わった後


「ほお、美味いじゃないか」

「そうかぁ? 俺はどうもこの味は好かねぇな……白岡は?」

「うむ、悪くない。ただ、ざらざらして後味が良くないなぁ」


 へばりつくチョコレートに苦労しつつ、各人が各人なりの感想を述べた。指についたチョコレートを行儀悪く舐めていた柾樹が、銀縁眼鏡を後ろへ向ける。


「雪輪、食ってみろ」

 女中へ命じた。柾樹はたまにこういった気まぐれをする。以前も雪輪の髪に飾る赤い端切れを、どこからか調達してきた。しかしランプに火を入れていた雪輪は、人々へ近付かない。


「早く来い」

 再び呼ばれ、やっと女中は橙色の光が漏れるランプを傍らへ置き、柾樹の斜め後ろへ座った。

「頂戴いたします」

 長二郎が差し出したチョコレートの乗る小皿を、震える華奢な両手で慎重に受け取った。暑さで柔らかくなっている物体を、黒文字でゆっくりと小さく切り、更にゆっくりした動作で一欠け口へ運ぶ。


「美味いか」

 不味いとは言わせない気配で問う柾樹に

「はい」

雪輪はとても美味しそうには見えない口ぶりで返す。二人の会話はこのように、洒落も情緒もないのが常だった。でも千尋と長二郎も、既に馴染んでいて気にしない。


「味はともかく、溶けやすいのはどうにかならないのか?」

「元は飲み物だったというから、仕方がないんだろう」

 チョコレートへの感想や注文を言い合っている。


 その途中で、長二郎がとある異変に気付いた。


「あ、あれ……?」

 癖毛の書生は、隣の白い娘を見つめている。

「どうした?」

 長二郎の変化に、柾樹と千尋も身構えた。


「雪輪ちゃん……止まってないか?」

 長次郎が、ややうろたえた声で指摘する。雪輪は相変わらず、無表情に座っていた。


「ほら、手が震えてない」

 長二郎は確かめるみたいに言う。

「あ……」

 そこで娘は己が右手を見て、小さく声を漏らした。黒曜石と同じ色の瞳が、僅かに見開かれている。日頃表情が少ない雪輪にしては、まぁまぁな驚きの表れだった。


「うわ、本当だ! 震えてない!」

「どうした急に?! 具合でも悪いのか?!」

 千尋と柾樹も、飛び退る勢いで叫んだ。


「ま……まさか、コレか?」

 長二郎が指さしたのは、人の輪の中心に居座る黄色い缶だった。

「ちょ、チョコレートが? そんな、薬じゃあるまいし……どうして治るんだ? それにもしそうだとしても、こんなテキメンに効くか?」

 割と冷静に千尋が反論する。

「それは僕もそう思うが」

言っている長二郎も、当惑が眉間の辺りに表れ出ていた。混乱気味な友人達へ、マイペースな柾樹が口を挟む。


「何だっていいじゃねぇか。おい雪輪、もっと食ってみろ。目つきも治るかもしれんぞ」

「柾樹、黙ろうか」

「ま、まだチョコレートが原因と決まったわけじゃないだろ!」


 チョコレートの載った小皿を、殆ど突きつけるようにして雪輪の鼻先へ差し出す柾樹を、他二人が止めた。当の雪輪は菓子を見つめて、黙している。間断なく続いていた身体の震えは、全く止まっていた。


「雪輪さん、どこかこう……痛いだとか痒いだとか、身体におかしなところはありますか?」

 千尋が尋ねると、雪輪は青白い首を僅かに傾げる仕草をした。

「いいえ……ただ……」

呟きながら、胡粉みたいに真っ白な両手を目の前にかざす。


「これまでずっと震えておりましたので……それが無いのは、奇妙と申しますか……不思議な心持が致します」

 途切れがちに語っていた。それが、そのうち

「お茶をお持ち致します」

己の役割を思い出して、急ぎ立ち上がろうとする。それが均衡を崩し、ふらりと転びかけた。


「わ!」

「だ、大丈夫か?!」

 両隣の柾樹と長二郎が、膝をついた娘の腕や肩を咄嗟に支えた。雪輪が同居人達にこんな『隙』を見せたのは、初めてだった。震えが止まった現象以上に、彼らはこちらの方にもっと驚愕した。


「も……申し訳ございません」

 詫びて、女中は台所へ引っ込んでいく。今度は歩くのも問題なさそうだった。


「そうか……震えているのが当たり前だったから、震えが止まると反対に動きにくくなるのか」

 灰色の後姿を見て、長二郎が納得した顔で呟く。そして気まずそうに唸った。


「触ってしまった……」

「意外と普通だろ」

「うん……いや、待て。何で君はそんなこと知っているんだ?」

 平然と言う柾樹に、長二郎が問い質そうとしたのを遮って

「そ、それより、なぁ……雪輪さんの様子が、ちっと変じゃないか?」

台所の方を伺い、千尋が口に手を添え囁いた。


「あ? どこが?」

「変に決まっているだろう。急に震えが止まったんだ」

「違う、そこじゃない」

 頭を寄せ合う格好でこそこそ答える二人へ、大柄な青年は首を横に振る。


「オレもよくわからんが……チョコレートを食べる前と、後で……雰囲気が変わったというか。気のせいだろうか?」

 短い髪を掻き、千尋は眼前の友人達へ困惑まじりに尋ねた。


「ああ……」

「確かに……」

 千尋のあやふやな感想を、柾樹たちは否定しない。


 雪輪は常に、独特な空気を纏っていた。

 初めて会ったとき彼らの肌を粟立たせた、何か異様な気配である。それは無理に言葉にすれば妖しく、冷たく硬質で、非常に重い。長期間顔を突き合わせている甲斐あってか、書生たちも随分慣れたと思っている。でも暗い廊下で急に雪輪に遭遇すると、息が止まりそうになる点は変わっていない。


 彼らはそれもこれも、あの娘の少々特殊な条件の揃った外見の成せる業と考えていた。だがチョコレートを食べた後も、身体の震え以外で雪輪の外見は変化していない。にも拘らず、雪輪から感じていた奇妙な圧迫感が、極端に薄くなった印象を受ける。


「そうだろう? 何というか……上手く言えないんだが、こう……?」

 言い表せない千尋は、額を掌で押さえ苦悶している。黄色い缶を見つめて考えていた長二郎が、友人に代わって表現した。


「『憑き物が落ちた』、ような?」

「そうだ!」

「それだ!」

 千尋と柾樹が感嘆の声を上げる。


「しかし、チョコレートで……?」

 解せない柾樹の声が、夕闇色と共に古畳へ沈んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ