Second chance
「柾樹さま!?」
女中が叫んだのだ。普段は考えられない大きさの声で。
夜半を過ぎた頃だった。古道具屋の数鹿流堂で、ランプが照らす文机の前で背中を丸め書き物をしていた長二郎と、欠伸まじりで本を読んでいた千尋は顔を見合わせた。一瞬後、それぞれ鉛筆や本を放り出し、声がした台所へ同時に駆け出す。
「雪輪ちゃん!?」
「どうしました!?」
ランプを手に、書生達が飛び込んだ先。闇に包まれたそこで彼らが見たのは、勝手口近くで倒れている金茶色の髪をした青年と、彼の傍らで膝をつき声をかけている娘の姿だった。
「怪我をしていらっしゃるようです」
振り向いた雪輪が言う。無表情な白い顔が、いつもより険しくなっているように見えた。
「え? 怪我……?」
「柾樹が……?」
千尋も長二郎も、咄嗟に次の動きへ移れない。あの馬鹿みたいに強くて頑丈な柾樹が、『怪我をする』などという可愛らしいヘマをするだろうか。が、柾樹は実際倒れている。
「な、何があったんでしょう?」
「わかりません」
土間へ裸足で降り尋ねた千尋に、元々青褪めたみたいな顔色の女中娘は、必要最低限の言葉で答える。
「柾樹! おーい、柾樹!」
千尋が呼んでも、柾樹は動かなかった。
倒れている柾樹は下駄が片方脱げており、傍らには二丁の拳銃が落ちている。一つは彼の愛用品。もう一つは最近手に入れたと自慢していた、奇妙な古い拳銃だった。足元にはガンケースが、風呂敷から半分顔を出して転がっている。
「いつか誰かが殺るだろうとは思っていたが……」
「馬鹿な事言ってる場合か! 手伝え長二郎!!」
ランプを手に板敷で静観している長二郎を、千尋が叱りつけた。と
「? 雪輪さん?」
千尋が訝しげに眉をゆがめ声を掛ける。雪輪が真っ黒な瞳で、天井を見上げているのだ。
「いいえ」
と雪輪は答えて、長二郎からランプを受け取る。若者二人は長身の友人を何とか室内へ運びこんだ。座敷を占拠している古道具達の隙間に煎餅蒲団を敷いて寝かせるが、柾樹は反応が無い。微かにいびきすらかいていた。
「こいつ、酔っ払って寝ているだけじゃないのか?」
柾樹の安らかさに、長二郎が疑惑を向ける。
「一先ず、息はあるようですが」
拳銃などを拾ってきた雪輪が荷物を畳へ置き、怪我人の袖を捲った。途端に
「うわっ」
「何だこれ!?」
ランプの灯りをかざして三人覗き込み、千尋と長二郎が叫んだ。
柾樹の左腕は手首から肩にかけて所々白く凍りつき、異常に腫れあがって紫色に変色していた。よくよく確かめれば、足や顔も部分的とはいえ同様になっている。最もひどいのが左腕だった。素人でもわかる重傷である。全員唖然とした。しかしこの状況で真っ先に次の動きへ移ったのは、何と千尋だった。
「医者を呼んでくる。後頼むぞ!」
言い置き、千尋は部屋を飛び出す。長二郎が慌てて追いかけた。
「こんな時間に診てくれる医者があるか?」
「桜の親父さんに聞いてみる!」
喚いて夜へ駆け出した青年を見送り、後ろで思案していた雪輪も立ち上がる。女中は古道具の山の中から大きな木の盥を持ち出し、次いで台所へ行って小振りな手桶に水を汲み始めた。
「どうするの?」
尋ねる長二郎の前を、手桶を持った雪輪が小走りで通り過ぎた。長火鉢の上にあった鉄瓶の熱湯と水を盥へ注ぎ、混ぜ始める。娘は動かない怪我人を苦労して抱き起こした。
「これは恐らく雪焼けです」
最も重傷を負っている柾樹の左腕を湯に入れ、手で慎重にお湯をかけては温め始める。
「雪焼け? そろそろ夏だよ?」
「はい。仰るとおりですが、どう見ましても雪焼けか、それに近うございます。それに体中、冷え切っておられます。何はなくとも、温めねばなりません」
雪輪の話しを聞き、長二郎は「へえ」と思った。娘が雪焼けの治療法まで知っていることも驚いたが
――――助けるのか。
そこが、意外に感じた。
長二郎は、雪輪は柾樹を嫌っていると思っていたのだ。こんな当たり前の顔をして助けるとは、想像していなかった。こういったとき、人助けをするのは常識的、且つ高尚な行いであるとはわかる。その上でまだ意外だった。
雪輪は柾樹に対して、距離を取っている。身元引受人とはいえ、柾樹の高圧的で無駄に偉そうな態度を鑑みれば、彼が好かれなくとも無理はない。だがそこを勘定に入れても尚、長二郎や千尋に対する時と、柾樹相手の時では、雪輪は態度がどこか違う。長二郎は商人が客の履物を見比べるように、それを見ている。
「田上さま」
ぼさっと立っている長二郎を、雪輪が呼ぶ。滅多に話しかけてこない娘に呼ばれ、長二郎は気付くのが遅れた。
「は、え?」
「恐れ入ります。この手拭をお湯で温めて、柾樹さまの足と手も包んで下さいませ」
手近にあった手拭数枚を小刻みに震える手で取って差し出し、娘が頼んできた。雪輪は柾樹を抱きかかえる格好になっており、身動きがとれない。旧旗本の血を引く女中の言葉に
「ハイ」
下級士族生まれの長二郎は無抵抗に返事した。言われた通り、鉄瓶の湯を別の桶に汲んで手拭を浸す。それで青紫色になっている柾樹の足と手を包んだ。巻かれた手拭から湯気が薄く立ち上っていた。
「こんなことで、効果があるかな?」
「何もしないよりは、いくらか良いかと」
作業する傍ら尋ねる長二郎へ、雪輪は愛想の無い声でそう答えるも
「ただ……こちらの腕は、手遅れやもしれません」
膝の上で眠る青年を見下ろし、声は少し重くなった。
「柾樹さま、柾樹さま……!」
眼鏡を外した柾樹の顔に温めた手拭を当て、雪輪は声をかけ続けている。
暗闇の中で僅かな光源に照らされ眠る柾樹と、それを膝に抱えた雪輪の様子は、これだけでもう怪談だった。もし何も知らない第三者が見れば、柾樹が悪い何かに取り憑かれているとしか見えないだろう。
でも長二郎は別のことを考えていた。ランプの灯りに照らされた二人を眺める脳裏に、細切れとなってちらついていたのは、遠い昔の記憶だった。
あれは、兄が馬車に轢かれて死んだ日だった。
夕刻、父が抱えて連れ帰った当時十歳の兄の亡骸に、母が縋りついて泣いていた。午前中に元気に出掛けて行った子が、半日後に死んで帰って来るなど、とても受け入れられなかったのだろう。諦めよと声を詰まらせる父の手を振り払い
――――まだ温かいではありませんか! 弥一郎! 弥一郎、目を覚ましなさい!
狭い棟割長屋で、もはや冷たく固くなっていくばかりの我が子を抱き、母は泣き叫びながら、名を呼び続けていた。
「………」
長二郎は黙って腰を上げ、自分の荷物置き場になっている文机の方へ向かった。荷物の山を漁り、中から小さな茶色の薬壺を取り出す。中には軟膏が入っていた。
この薬は幼い頃、近所の『婆さん』がくれた『万能薬』だった。
火傷でも擦り傷でも、ホンの少し塗ると、たちまち治る不思議な軟膏なのである。長二郎はこれを重宝して、大事に大事に使ってきた。慣れない料理で指を切った時。近所のいじめっ子と喧嘩したとき。癒してくれたのは、この奇妙なほどよく効く薬だった。長二郎にとっては、自分を守ってくれる大切な『御守』だった。その万能薬は、残り少ない。
「……ま、仕方ないか」
やや癖毛の青年は、独り言を呟き薄く笑う。
あの頃の自分は打ちひしがれる両親を前に、弟をおんぶして見ている事しか出来なかった。
でも今は違う。ささやかとはいえ、出来そうな事があるのだ。
「雪輪ちゃーん。実はこんな塗り薬があるんだけどさぁ」
小さな薬壺を握り締めた長二郎は、座敷へ引き返した。




