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破鏡重ねては照らさず

「おちやもいい加減なやつだなぁ。ここまで来て、『帝都に行くのはやめた』だなんて」


 荷を積んだ舟が流れていく川を左に眺め、狭霧が言った。歩く道の右側には、まだ水の無い田んぼと沼地。所々に、こんもりとした家の陰。明るい日差しは、時間が間もなく正午になることを教えていた。船着き場を目指して進む姉弟の間を、枯草と泥の匂いの混じった風が吹き抜けていく。


「急に気が変わったと?」

「……ええ」

 尋ねる弟の一歩後ろで、答える雪輪の声は小さかった。顔は一層青褪め、つり上がった目元には憔悴が浮かんでいる。狭霧が合流した時から、雪輪はこうだった。ふうっと息を吐き、弟は視線を空へ向ける。


「まぁ、仕方ないか。僕の養生で長逗留している間に、考えが変わってしまったのでしょう」

 ちょっと寂しそうに、狭霧は言う。


「しかし、おちやには帝都の女流歌人より、田舎の宿場で働く方が合いそうだ。存外、あいつは自分をよくわかっていたんだな。山内屋で働くうちに、気がついたのかな」

 明朗な弟の声を聞き、目深に被った手拭いの下で雪輪は黙っていた。


――――もし真実まことを語り“常世”を知り……狭霧まで、おちやのようになってしまったら。


 おちやを異形へ変貌させた“常世”。それはあまりに曖昧で、掴み所が無さ過ぎた。不安と恐れが普段から重い雪輪の口を、更に重くしていた。そんな姉の横へ戻って来た狭霧が、小声で囁く。


「そう言えば……あの旅籠の女将。お腹の子の父親は、下男だったようです」

 告げつつ、狭霧は周囲へ注意を払っている。雪輪も黒い目を上げた。


「誰に聞いたのですか?」

「下男本人です。弥十郎という、あの男です。僕を追いかけてきて、K宿からこちらへ逃げられる道を教えてくれた時に……『一度きりの過ちでした』、と」

 まだ幼顔の残る狭霧には、戸惑う話だったろう。口調は滑らかではなかった。

「そうでしたか……」

 話しを聞き、雪輪は山内屋での全体の事に得心した。


「みどりさんは、御亭主との仲がうまくいっていなかったようです。子を成すことも叶わず、お寂しかったのでしょう。ふと魔が差して……けれどそのような恥を、口に出せるものではありません。それに理由はどうあれ、妻の不貞は厳しい罰を受けます。それゆえあのとき、『子授けの神通力で孕んだ』と言い放ったのでしょう」

 心を取り戻して娘は語る。狭霧が今度は思いきり大きな溜息をついた。


「不貞の言い逃れか……ひどい話だな。親切な良い人だと思っていたのに。いくら恩人とはいえ、何故僕らがこんな濡れ衣を着せられなければならないんだ」

 不満を零した。

「完全な濡れ衣でも、ないのやもしれませんけれど……」

 『神通力』のことを思い、再び白い顔を俯かせた雪輪は微かな声で言う。狭霧には聞こえていないようだった。少年の顔で、空を指さす。


「姉上、あそこに大きな鴉がいるでしょう? あいつときたら、ずっと僕について来るんです。さっきも姉上が居る所まで、僕を導いてくれたんですよ」

 狭霧の指差す先で旋回している鴉を見上げ、「そう」と雪輪も短く答えた。

 さっきから狭霧がよく喋る。この弟はおちやが突然いなくなり、姉の様子もおかしいことに何か感じ取ってはいるのだろう。それでいて、直接聞くのは避けているようだった。


「あれ? 何だ、どこから出てきたんだ猫。お前もついてくるのか? 餌など無いぞ?」

「ギャーオ」

 鳴き声のする足元を見れば赤毛の大きな猫が、二人と並んで歩いている。火乱だった。いつ映し世へ戻ったのかと雪輪は考え、むしろ『出てきた』という方が正確だろうかと思い直した。雪輪を護る役目を負っているらしい火乱だが、とりあえず今日は人の形をしていない。

『化けるのは、余程“力”を使うのかしら……?』

 簪の呪禁師が話していた事を踏まえ、白い娘は赤い猫を見ていた。


「こいつ、溺れかけていたところを姉上に助けられたんですよね? もしかして、恩を感じているのかな。だとしたら猫のくせに、“誰か”よりも余程の忠義者ですね」


 旅籠に居た頃から姿を見かけるようになった猫を、動物好きな狭霧は気に入っていた。おどけた声に混ぜて言う。悪意の無いそれを聞いた雪輪は、返事が出なかった。乾いた道で唇を結び、弟の後ろを歩き続ける。雪輪は懐に入れていた古い柄鏡を、震えの止まらない手で握りしめた。


 おちやが消えた真相だけではない。雪輪は狭霧に、伝えていない事がまだある。


 一つは故郷の御室の里が、山崩れで消滅したこと。

 もう一つは、鏡を通じて聞いた平蔵の告白。

 これらを狭霧に伝えられていない。どこから、どう話せばいいのか。沈黙を守る事に慣れ過ぎている雪輪にはわからなかった。何より、まだどうしても信じられない。


――――先ほど聞いた山里とは、故郷とは別の里ではないのか?

――――帰れば、故郷の山は古代から続く姿で、そこにあるのではないか?


 気持ちがそちらへ向かってしまう。頭では解していても、信じ切れない。

 すると、握っていた柄鏡から歪な感触が伝わってきた。何かと鏡を目の前へ取り出すや


「あ……」

 母の形見の柄鏡には、蟋蟀コウロギに似た足が三本生えていた。刹那、雪輪の手を飛び出した手鏡は数歩地面を這った後、音も無く細かい灰色の煙となって消えてしまう。


「あんれまぁ~、力を使い過ぎだんだべなぁ」

 空の仙娥がカアーと鳴くのが雪輪には聞こえた。火乱も雪輪が立ち止まったのに合わせて地面に座り込んだものの、九十九神の消滅自体には無反応である。


 今日に限らず九十九神は、あちらこちらに現れては消えていた。それにしても、赤い目玉の状態と足が生えた状態は異なるらしい。今の柄鏡に宿った九十九神の如き消滅が、力を消耗し過ぎた常世のものの末路であるようだとは、娘にも想像された。


「姉上」

 呼ばれた雪輪は前を向く。狭霧も足を止めていた。弟は背を向けたままで、表情を窺い知ることは出来ない。

「僕は……歪んでいますね」

 弟から発せられた言で、雪輪は「え?」と黒い目を瞠った。狭霧の口調に、さっきまでの不自然な明るさは無い。


「旅籠の女将の件といい……いつも人の本性というものを見誤る。それは、僕の性根が歪んでいるからかもしれない」

 ここ数年で、随分と声が男らしく低くなってきた。その声で語るまだ華奢な首筋では、少し伸びてきた黒い髪が風に揺れている。


「平蔵の一件だけじゃない……里の者達との日頃の関わり合いも、常に騙された、裏切られたと、そんな思いばかりが先に立って……もはや話すことなど無いと考えていました。誰も彼もが、敵に見えていた。しかし、それは僕の心根が歪んでいたからではないでしょうか。生来、心が曇っているのではないでしょうか。あのときこそ、僕は膝詰めで人々の話しを聞くべきだったのではないのかと、思えてならないのです。父上ならば、どうなされたでしょうか?」

 振り返り、狭霧は姉へ問いかけてくる。押し黙った雪輪に、狭霧は微笑した。


「おちやが姿をくらませたのも、僕がこういう有様だから、何も言えなかったのではないかな?」

 喧嘩してばかりだった旅仲間の娘。彼女を思い出すように、切れ長の目を伏せて呟いた。

「……それは断じて違います」

 やっとの思いで、雪輪は答える。こんな答えだけで精一杯な己の弱さに、失望していた。対する狭霧は

「や、今更何を言っても、仕方ないですね」

それ以上問わず、言わなかった。姉の傍らへ戻り「帝都まで、あと一息です」と真っ白な手を握り、笑顔を開く。


「姉上、良い話もあるのです。弥十郎が、帝都へ行く舟も手配してくれました。たぶん、詫びのつもりなんでしょう。ここに一筆書いてくれたんです。これを見せれば、船賃もいらないと話していました。これで明日には帝都へ着ける」

 懐から手紙らしき紙片を取り出し語る少年の顔には、安堵が浮かんでいた。雪輪は、ゆっくり瞑目する。


「狭霧」

 弟の名を口にした。

「御室の里のことなのですが」

 そう雪輪は切り出した。狭霧は怪訝そうに、姉を見つめている。姉は言葉を今一度飲み込んだ。大事について語るのは、何も今日ではなくとも良いのではないかという思いが過ぎっていた。


 けれど弟も、いずれは新聞や人伝で故郷の滅びを知る事となる。そしてこれより先、帝都で何が起きようと、帰る場所はもう無い。故郷が失われた現実は、とにかく知っておかなければならない。


「先刻、通りかかったお寺のご住職が、村人と話しておられるのを聞いたのです」

 雪輪の声が北風に乗り飛んでいった。風に雲を浚われた冬空は、夏の如き深い青さで広がっている。


 古い麦打ち唄が、聞こえてきそうな空だった。

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