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小林弥助

 勝手口から顔を出したのは色の黒い、四十がらみの小太り男だった。噂をすれば影。おのぶの弟の小林弥助だった。


 鳥打帽をかぶり、シャツに股引に尻はしょりという探偵スタイル。しかし手足が短いせいか、それとも風貌ゆえか。探偵というより岡っ引きといった方が、どうも似合う。それもあまり切れ者ではない方の岡っ引である。


 千尋が大慌てで飛んで出て、通せんぼするように立ち塞がった。小柄な弥助は土間に足を踏み入れるなり行く手を阻まれ、ちょっと驚いた声を上げたが


「おう、若旦那。近くに寄ったんでな、ご機嫌伺いに来てやったぜ。どうだい、楽しくやってるか?」

てかてかに油ぎった丸顔で笑う。


 暮白屋で長年奉公していた善五郎やおのぶとは異なり、弥助は子供の頃から知っている千尋を、どこか弟みたいに思っているようだった。一応呼び方だけは最近『若旦那』に格上げされたけれど、そこ以外では良く言えば親しげに。悪く言えばぞんざいな口をきく。もっとも、おのぶがいればそんな真似は決して許さない。でも弥助にとっての第二の母は、今留守にしていなかった。


「はあ、まぁ、何とかやってます……」

「それより若旦那、聞いたかよ? 幽霊の話」

 言いたくてうずうずしていたのだろう。何はなくともといった感じに、弥助が言い出した。


「ゆ、幽霊?」

 千尋の顔が緊張する。幽霊に怯えたのではなく現在、大変身近なような気がする単語だったからである。聞き捨てならない言葉を聞きつけ、柾樹と長二郎も框を飛び越えバタバタと土間へ駆け下りた。囲まれた弥助は道楽書生達を見上げ、「何だ何だ」と泡を食う。


「また居候が増えてるじゃねえか! 何だ、今度は相内屋敷の眼鏡小僧まで来たのかよ!?」

「誰が眼鏡小僧だッ!」

「かーっ、相変わらず声がデケェな、バカヤロウ! 上の方から大声で喚くんじゃねぇやッ!!」


 食って掛かる柾樹に対し、耳の穴を指でほじくりながら中年男は怒鳴り返す。千尋に対して親しげな弥助は、千尋の友人である柾樹や長二郎に対しても全く遠慮が無かった。生意気で口の悪いこの琥珀髪の若造すら、野良犬をからかうようにして案外可愛がっている。弥助はどうやら彼らの兄貴分を気取っているようで、今日もズケズケと容赦がない。そんな弥助が急に改まると、変な生物の群れでも見るような目で一同を見つめ、しみじみと言った。


「しかしお前ら、久々に見るとつくづく思うが……ホントにてんでんばらばらだな。何で友達やってんだ?」

「な……何でって言われても」

 弥助の言葉を真正面から受け止め、『若旦那』が友人たちの方を見る。いかにも育ちが良くて小奇麗な千尋と、貧書生を絵に描いたような長二郎と、目付きや雰囲気が殆ど渡世人か博徒に近い柾樹は成程、おかしな取り合わせである。

 何となく間が抜けた人々の間に割って入るようにして


「そ、そんなことより弥助さん! その幽霊ってどんな話ですか?」

話の先を促して長二郎が尋ねた。聞くなり弥助はぽんと手を打つ。


「おー、そうだそうだ! はっはー、やっぱりお前らまだ知らねぇな? しょーがねぇなぁ。いいか? 良く聞けよ? 実はな……このすぐ横の小路で、幽霊が出たんだよ」

 脂ぎった丸顔で必要以上に深刻な表情を作り、声をひそめて話しだした。

 それは弥助の知り合いが、そのまた知り合いである芸者から聞いた話だった。昨晩この近辺を通りがかりに、見たという。


「全身真っ白な女の姿でな。そこの壁の向こう側に佇んで、じいっとこっちを見ていたらしい」

「へー……」

「はー……」

「ほー……」

 それ以外リアクションのしようがない三人は、弥助を見習って深刻な表情を作り、極力顔色を変えないよう努力しながら話を聞いていた。昨夜の話がもうここまで広がっているのだから、女の口とは恐ろしいほどの伝播力である。


「芸者は正体を確かめてやろうと思ったらしいんだが、幽霊の顔が骸骨だ! ってんで、肝を潰してよ」

「……ん?」

「骸骨?」

「おうよ、それでこっちに幽霊は髪を振り乱して近付いてくる。もう震え上がって両国橋まで走りに走り、出くわした巡査に、お助け下さい幽霊がと、息も絶え絶えですがりついて大騒ぎだ」


『幽霊』の顔が白過ぎて、月明かりを通した目には骸骨に見えたのだろうか。ともかく顔面蒼白で泣きつく芸者を連れた巡査は、幽霊を見たという場所まで一緒に戻って確認した。でも幽霊は、煙のように消えてしまっていたとのことだった。それはそうだろう。その頃『幽霊』は古道具屋に上がりこみ、書生達をのけぞらせていた。


 結局、何かを見間違えたのだろうの一言で幽霊話は片付けられたらしい。だが当の芸者は帰ってから熱を出し、寝込んでしまっていると弥助は語った。


「俺はなぁ、ここら辺じゃ、いつかそんなことも起こるんじゃねぇかと思ってたんだよ」

 沈痛な面持ちで中年男は首を横に振る。

「何故です?」

 千尋がきょとんと聞き返した。


「ここはなぁ、料亭だった昔に女中が首をくくっていて、その後に出来た芸者置屋じゃ人殺しもあった。茶屋になってからも娘の気が違ったなんて話しが続いて、嫌な噂がそりゃもう色々あるんだよ」

「はぁ~、それで安く売りに出されていたのか……」

「だから俺はこんな家買うのは止めとけって、あれほどおのぶ姉さんに……」

 言いかけた弥助の言葉が不自然に止まった。彼は何かを見つけて転げ出そうなほど目を瞠り、顔から血の気が引きはじめる。


「弥助?」

 青年たちが中年男の視線の先を追う。すると道具が積み上げられた後ろの座敷に噂の幽霊……ではなく、震える雪輪が座して、つりあがった黒い目でこちらを見つめていた。


 ハッと気付いて柾樹が説明しようとした、その瞬間。弥助は後ずさろうとして、自分の踵に躓いた。そしてそのまま後ろへ思い切り引っくり返り、敷居へ後頭部を強打して「ダ!」と言ったきり気絶してしまった。白目をむき、柾樹や長二郎が叩いても揺すっても「きゅう」とも言わない。


「あーあ……忘れてたな……弥助は幽霊とかそれっぽいものが、てんで駄目なんだった。血や死体は平気なくせに、変な奴だよなぁ」

 後ろ頭を掻きながら千尋が小声で呟いた。さっきのはしゃぎようから察するに、そのテの話を聞くのは大好きなようだが、それらしきものは遠目に見るだけでもダメなのだろう。


「雪輪は幽霊でも妖怪でもねぇだろ。お前らとコイツくらいには、話しといてもいいかと思ってたんだけどな……事情を話してやりゃあ、どうにかなるんじゃねぇか?」

 無神経な大声で柾樹が言った、そこで。


 弥助が「うはっ!」と目を覚ました。探偵稼業で身体のつくりが頑丈なだけはある。しかし中年男はガバと跳ね起き、きょろきょろ辺りを見回して座敷の雪輪を再確認するなり、ご丁寧にもう一回引っくり返った。


「駄目か」

「駄目だな。もうやめとこう。お互い無理は良くない」

 のびている弥助を眺め、柾樹と長二郎が言い合っていると

「申し訳ございません」

畳へ指をつき、無感情な声で雪輪が詫びる。振り向いた長二郎が明るく笑っった。


「いや、君は悪くないさ。座っていただけだもの。今のは弥助さんの早合点が悪い。幽霊幽霊と考えているから、違うものまで見間違えるんだ」

 おどけたような長二郎の言葉にも、雪輪は転がる弥助を見つめて沈黙している。そのうち


「申し訳ございません」

もう一度言った。表情は変わらないものの、さっきより声が僅かに小さくなっていた。そんな娘に、千尋が少し慌てた様子で言う。


「弥助は気にしないで下さい。のびるのは日常茶飯なんですよ。この前も、夜の道端で飛んできた白手拭が顔に当たっただけで、気絶したくらいですから」

 弥助は周囲も“またか”と思う程、実にお手軽に気絶する性質なのだと説明する。それにしても夜の道端で何もしなくても人間を一発で遁走せしめ、今もこのように指一本動かさずとも人一人失神させるとは。


「身の振り方云々の前に。お前はどうすりゃこういうことを起こさずにすむか、考えねぇとな」

 動かない弥助の足を、柾樹がつま先で軽く蹴飛ばした。雪輪は尚も沈黙している。伸びている中年男を引き摺って敷居の上から移動させ、千尋が苦笑交じりの顔を上げた。


「はは、そうだな……しかしまぁ、これも何かの縁だ」

 立ちあがって腰を伸ばす。


「どこか、行くあてがあるわけじゃないんですよね? じゃあ先ずは、ここで一休みされてはどうですか。柾樹の言う通り、身の振り方や色々も考えなきゃいけないでしょう。でもどこかに身を落ち着けないと、思案なんて出来るものじゃないですよ。幸か不幸か、ここは他に女もいないし。人目を気にせず休めるとは思いますが」

 小刻みに震え続ける娘へ、穏やかに語りかける千尋の横で


「そうそう。人に会いたくなければ、誰か来た時は隠れていれば良い。どの道、柾樹は居座るつもりなんだろう? それなら一人増えるのも二人増えるのも大して変わらないさ。僕が言うのも何だけど」

長二郎もへらりと笑い、友人の意見に同調した。


 そしてこの数分後。

 弥助は意外と早く蘇生した。彼は最初、座敷を指差し「そこに幽霊が座っていた」と大騒ぎに騒いだ。泣きだす寸前だった。だが書生どもに「夢でも見たんだろう」「こんな昼間に幽霊もない」と言い包められ、本人もあんまり幽霊を怖がっていては、男としても探偵としても沽券に関わると思ったようで、最終的には「夢だった」で納得し、ぶつけた後頭部を庇いつつ引き上げて行った。


 弥助の頭が悪くて本当に良かったと、全員が思ったのは言うまでもない。

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