過日の告白
雪輪は曲がりくねったM川に沿って、下流へ向かった。狭霧と落ち合う約束をした、Yという村の船着場を目指している。田舎道はあまり使われておらず、すれ違う人も多くなかった。細い道を、旅姿の娘は足早に進んでいる。笠は無くしてしまっていた。
おちやの一件。
飛び込んできた、故郷壊滅の報せ。
知った時は動揺したものの、雪輪は冷静さを取り戻していた。これは戦なのだと、自らに言い聞かせていた。武家の末裔たるもの、易々と泣き騒いだりうろたえたりしてはならないのである。
しかしそのとき突如聞こえてきた『ある声』が、娘の冷静を揺るがせた。
『とうとう、言えず仕舞いだったべ……』
懐かしい声に、雪輪はびくりと身体が強張った。立ち止まり周囲を見回し、相手の姿を探してしまった。漆黒の目に映るのは湿原。他には、枯れ草で覆われた田んぼ。所々に浮かぶ島みたいな鎮守の杜。遠くに霞む小さな集落の影。どこにも探し人の姿はない。
声は、平蔵だった。
居るはずがない。
分かっていても尚、冬の光が照らす田舎道を行く娘の足は止まった。そのうちに気が付き、慌てて懐に仕舞っていた鏡を取り出す。母の柄鏡から、“声”が響いてきているのだ。
『ひいさま……申し訳ねぇ』
平蔵の声が語りかけてくる。
「平蔵……わたくしの声が聞こえるのですか?」
雪輪は驚きを込めて、鏡へ向かい呼びかけた。でも
『鏡……せめて、ひいさまの代わりに聞いてくれ。意気地なしの、昔話だ』
返ってきたのは、雪輪への応答ではなかった。彼は手鏡に向けて語りかけているらしい。
「九十九神……?」
状況を解し、雪輪は道端で立ち止まったまま呟いた。
鏡を手に語った彼の声が、柄鏡を介して時を渡り、遠く離れた雪輪の元へ届いているのだ。
それが雪輪達が里を出て、何日後だったかはわからない。平蔵は住む人のいなくなった湾凪家の屋敷で、残されていたこの柄鏡を手にしたのだろうか。
何が今起きているのか、娘が考えている間に
『おらが、湾凪の殿様みてぇになりてぇなんて思ったのが、間違いだったんだな……』
平蔵の“昔話”は、ぽつりぽつりと始まった。
彼の声の背後からは、どうどうと切れ間なく雨の音も響いていた。当時の平蔵は急な雨を逃れ、空家となった湾凪の家へ入り込んだだけだったのかもしれない。
『殿様が里へお戻りになったのは、おらがまだ子供の頃だ。御室の里の首領たる九之丞様、三百年ぶりの御帰還だった。里の皆は殿様を見て魂消ていた。御家来の数もそうだが、金糸の入った着物なぞお召になっておられる、足袋なぞ履いていらっしゃると……。“九之丞様は、都暮らしでお殿様になっちまった”と、嘆いていた。
だけんどおらは、殿様が眩しく見えた。馬に乗って、堂々としててよ……背筋なんかシャンとして、立派なもんだった。おまけに殿様は、外の色んなものを持っていらして、広い世界を教えて下すった。外国の書物に、世界地図……港へ来た異人の話しや、南蛮渡来の品や食べ物。聞かせて下さる話はどれも面白くってよ。何より殿様は、おら達里人相手に学校を開いて、学問も授けて下すった。頭の固い親父やお婆は、“算術なんぞ、下界の商人のすることだ”と、本を読むおらを馬鹿にしたが。
殿様は、学問に夢中になるおらを認めて下すった。中々覚えが良い、見込みがあるぞと言って……。奥様も褒めて下すった。新しい時代には、平蔵のように熱心な若い者こそ必要なのですよと。褒められたんだ。嬉しかったなぁ。おらにも取り柄があるんだと、初めて感じられたんだ。
殿様の書物を拝借して、夢中で読んだ。殿様なら、里を変えて下さる。このお方について行こうと決めた。立派な一番弟子になろうと思った。
……そんな頃だべ。鉱山開発の話が出てきたのは。
里の皆が嫌がるわけが、おらは皆目わからなかった。歯痒くてならなかった。でも鉱山開発にどれだけ利があるか伝えようにも、ガキのおらの話しなんぞ、誰も取り合っちゃくれねぇ。新しい世になっても、里は昔通りの古い掟と仕来りで雁字搦めだ。都は疫病や盗人だらけで穢れていると外を拒み、何も考えねぇ。耳を塞いで目を逸らして、ただ昔の仕来りや伝承さえ守れば里は安泰だと、頑固に信じてる。
そのとき、考え付いたんだ。まずはおらが帝都へ行って、一旗揚げてみせたらどうだろう。立身出世でお大尽になって帰ってくれば、さすがに見る目も変わるだろう。里の連中にとって殿様はもはや『余所者』だが、里で生まれ育ったおらの口で広い世間を語れば、違って聞こえるはずだ。未だに長い夢を見て、寝ぼけている皆の目も覚める。もう世の中の仕組みはすっかり変わったんだと、わかるはずだ。
学問だってたくさんした。帝都へ出ても、うまくやっていける。六郎右ヱ門の家の倅に、知恵と金とが揃えば怖いもの無しだ。
そうして、おらが殿様の右腕になる。そうすりゃ、みんなうまくいく。鉱山を開発して、里を豊かにする。亡霊みてぇな古い迷信で凝り固まった里を、変えられる。里を良くしようと苦労して下さる殿様への、ご恩返しだ。ここで何もせず、これから先も親父やお婆の言いなりになって暮らすなんて、まっぴらだ……。
十五の小僧が、そんな生意気を考えていた。里を出さえすれば、全部変えられると思った。
どうしてあんなこと考えたんだべなぁ? 湾凪様の御嫡男にでも、なった気でいたのか? ただの百姓の倅がよ。おらは狭霧様とは違う。月とすっぽんほど違うのは、見りゃわかるってのに。要は、帝都へ行きたかったんだな……おらは帝都に憧れてた。殿様や奥様から聞いた、華の帝都だ。
だが里を出ようにも、一旗揚げるどころか路銀さえ持っちゃいねぇ。それまで里じゃお金なんぞ穢れの元で、持っちゃいけねぇと言われてたからな……。
諦めかけていた時だ。年に一度の買出しで、里の男衆と宿場町へ行った。その宿場で、おらに薬売りが寄って来た。そしてこんな噂話を教えてくれた。
――――帝都のとあるお大尽が、珍しい“白い石の刀”を探しておいでだそうでございます。
――――ええ、そうそう! ちょうど今度、鉱山開発の件で、そちらの里へいらっしゃるお方ですよ。
――――特に古いものが良いそうで……さぞかし古物がお好きなんでしょう。
――――もしお望み通りのお品をお見せすれば、言い値で買って下さいましょうなぁ。
なんて言ってよ。
古くて白い石の刀……。
すぐに、御神刀の“霧降”が頭に浮かんだ。あれも、白い石の刀だと言われてた。しかし御神刀を売り飛ばすなんて、さすがに恐れ多い……最初はそう思った。これは諦めようと。
でも薬売りの言葉が、里へ帰ってからも頭から離れなくなった。おかしなくらい、どんどん諦められなくなった。最後にはおらの中で、帝都へ行きてぇ気持ちが勝っちまった。
そしてあの日。
おらは湾凪様の家に伝わる玉簪を、神棚からこっそり持ち出した。あれが霧降の封印の“鍵”だと、殿様に聞いていたから……。例の客人が来るってんで、ざわざわしていたお屋敷から拝借したんだ。
御家紋岩のからくり仕掛けが解けるか、試してみるだけ。ほんの腕試しだ……そんな言い訳をしながら、御室のお山へ登った。
山はいつもは深い霧で覆われている。右も左もわからねぇはずと、覚悟していた。だけんどあの日は、一歩踏み出すたびに霧が左右へ割れていくようだった。もしかして、簪のお陰だったか?
だが山頂へ着いて御家紋岩を見つけても、からくり仕掛けはそう簡単には解けなかった。鍵の簪を岩の裏側にある穴へ挿せば、御家紋岩の割れ四つ石や九曜紋が動くようになることはわかったが……どれをどう動かせばいいのか、わからねぇ。
そのうち、ハタと親父の名を思い出した。“六郎右ヱ門”。昔から受け継がれている名だ。もしやと、陰六角を右に六度、回してみた。御家紋岩の奥で、何か不思議な音がした。聞いた事もねぇ、澄んだ高い音だった。
奉納絵馬の算木が示している数は、四百九十六。
同じ理屈で『四郎左ヱ門』の名を使えば、割れ四つ石も動かせるはず。割れ四つ石を左に百回、回した。すると、またあの音がした。
ただ九曜がわからねぇ。何度も何度も試しているうちに、時間が無くなっていく。誰かに勘付かれる前に山を下りて、簪も返さなけりゃならねぇ。駄目かと思ったとき、九曜紋の石は御家紋岩から外せると分かった。やけくそで、九曜紋の丸を引っ張り出し、裏返しては嵌め込むのを十回やってみた。
そうしたらまたあの音がして、御家紋岩が動いた。
御家紋岩が生き物みてぇにスルスル動いて、組木細工が真っ二つに分かれて……御神刀が現れた。変な形の太刀だった。後で調べたら、蕨手刀って古い刀に形が近かったが、驚くより何より、この時のおらはやってやった! と思った。勇んで刀を手に取った。
途端に、雷鳴が轟いて……知らねぇ所で立っていた。一面、金色の梅林だ。
辺りは夜になっていて、空にでっけぇ月がかかっていた。
遠くに大きな一本松が見えて……その下に馬鹿でけぇ奴と、小せぇ娘っこがいるでねぇか。
ひいさまだ。一目でわかった。
ひいさまがアイツに浚われちまうと、そう思った。おらは刀を振り回しながら駆け出して、その子を離せと喚いた。馬鹿でけぇ奴がこっちを見やがった。辺りがピカッと光った。
それからどのくらい経ったのか……。
気が付いたら、おらは元の山中で御神刀を手に座り込んでいた。夢か幻か……わからねぇが、急に怖くなった。御家紋岩を元に戻し、御神刀を抱えて山を下りようとした。だが急に方角がわからなくなって、山で迷った。それでも必死で走り回っていると、ひょっと開けた場所へ出た。どこをどう走ったか、御室のお山の反対側へ飛び出たんだ。するとそこへ、お大尽の乗った馬の行列がやって来た。船着場を探していた。
後はよく覚えてねぇ……無我夢中だったんだべな。
御神刀を差し出して、これが欲しいかと尋ねた。相手は驚いているみてぇだった。おらぁ商売なんぞしたことねぇから、値段の付け方もわからねぇ。御神刀を、僅かばかりの金と交換してもらった。そしてどうにか里人に見つからず里へ帰ったら、あの騒ぎだ……ひいさまが“鬼”に会ったと。
あれからずっと、誰にも言えず抱えてきた。
あの時の事を……御神刀を盗んだことを、正直に殿様へ申し上げてお詫びしたかった。お仕置きを受けようと何度も思った。思いながら、殿様には言えなかった……奥様にも言えなかった……若にも。ひいさまにも。怖くて、言えなかった。
ひいさまを見ているだけで、辛かった。怖くて仕方なかった。御神刀を盗んだと、周りに気付かれたくなかった。気付かれたくねぇ一心で、心と反対に毎日湾凪様の家へ通い詰めた。終いには忠義者なんて言われてよ……大馬鹿だな。
何でもっと早く、信じ切れなかったんだべなぁ? あれは全部夢だったってな。
ひいさまの不具は、山の神でも祟りでもねぇ。ただのご病気で、おらが見た夢とは何の関わり合いもねぇ偶然だと。どうしてこんな当たり前のことが信じられなかったのか……実は誰より一等、里の仕来りやムミョウサンに縛られていたのは、おらだったんだな。
そんでも、もう大丈夫だ。さっき確かめてきて、ハッキリした。ムミョウサンは、やっぱり大昔の迷信だ。
禁を破っても、要岩は何も起きなかったんだ。鶴嘴を打ち付けても、血を塗りつけても、要岩は一切変わらねぇ。御家紋岩の時とは大違いだ。動きもしねぇ。山の神が出てくるどころか、石一つ転がらなかった。ははっ、そうだよなぁ!
この雨がやんだら、里の皆を要岩まで連れて行って見せてやろう。
皆、腰抜かすぞ。山の禁忌を破ったって、祟りなんか起きやしねぇんだ。恐れていたムミョウサンはどこにもいねぇと、確かめられたんだからな。こんな簡単なことなら、もっと早くやっちまえば良かった。
だがこれで、里を変えられる。要岩を打壊すのは、手始めだ。今度こそおらの手で、殿様が思い描いていらしたような里にしてみせるんだ。
そうしていつか、里が本当に変わったら……ひいさま達にお伝えしよう。
まずはおらが盗みを働いたこと、お詫びするんだ。お許し頂けるとは思えねぇが、やんなきゃならねぇ。もちろん里人総出でお出迎えして、お詫びもさせよう。迷信にとらわれて御無礼を重ねたと……。それでようやく元通りだ。これでおらも、やっと楽に……』
その時、平蔵の声が凄まじい雷鳴で途切れた。
立て続けに、幾度も轟き渡る雷の音。同時に、不気味な地鳴りも響いてくる。
『何だ、この音? 雷か? いや……山の方から……?』
異変を感じた平蔵が、独り言を漏らしていた。
雪輪にも伝わってきた、感覚を麻痺させる雨音と、頭の痛くなるような轟音。
「平蔵……平蔵、逃げて。皆に逃げろと報せて」
冬晴れの道でただ一人、震える手の中の柄鏡に向け雪輪は無意識に懇願した。
しかし雪輪の声は相手へ届かず
――――すげぇ音だなぁ……。
間抜けなほど穏やかな言葉を最後に、平蔵の声が聞こえることは二度となかった。




