呪禁師華厳
雪輪は、何処かの寺の山門を前に立っていた。
門には憤怒の表情で睨みをきかせた赤い仁王像がいる。それを見上げ、青白い顔を一段と白くして、黒髪の娘は呆然と佇んでいた。
乾いた寒空は、遠く晴れ渡っている。冬の日差しが辺りで照り輝いていた。微かに春の柔らかさを感じる風が、長い髪の先を揺らす。木々の隙間で、小鳥が楽し気に囀っていた。光や音の明瞭さで、『結界を出たようだ』と雪輪は理解した。でもどうやってここへ来たか、覚えがない。右手は藍玉の玉簪を握っていた。
門の向こうの正面に、本堂が見える。力の入らない足で、目に映ったそこへ向かって娘は歩き始めた。
雪輪は古い門をくぐり、境内に入る。ここにも人はおらず、小さな団子屋が一軒あって長閑に湯気が立ち上るのみ。日常の気配に緊張が解け、娘は肺に空気を取り戻した気がした。石畳を進み、辿り着いた本堂前の石段へ腰かける。
――――先刻、目の前で何が起きた?
ぼやけた実感と共に、記憶を反芻しようとした。しかし
『うち、歌人になりてぇんだ!』
『うちもちょっとくれぇなら、“特別”に生まれてみても良かったかなぁ』
『約束だからね?』
思い出すのは、おちやの顔や声ばかり。僅かな荷物を胸に抱え、石段で下を向いた雪輪は身を固くしていた。今頃になって、再び冷や汗が首筋を伝う。体は芯まで冷え切っていた。冬の外気と風のせいだけではない。そこへ引き戸を開く音と、人の動く気配がした。
「おや、如何なされた?」
誰かが、雪輪に声を掛けてくる。足音のした方へ黒い視線を動かすと、本堂より出てきた年配の僧が傍らに膝をつき、こちらを覗き込んできた。寺の住職と思われた。
「旅のお方ですな。どこぞ、怪我でもなされましたか?」
五、六十代だろう。僧侶の呼びかけに、娘は極小さな声で「いいえ」と答える。
「……何か、恐ろしい目に遭われたのですな」
全身が小刻みに震えている雪輪の様子を眺め、住職は呟いた。雪輪は一層深く黙り込む。
「ここでお待ちなさい。白湯を持ってきましょう」
穏やかに言い、黒い法衣の裾を翻すと、草履の足音は遠ざかっていった。
そして辺りが再び静かになって、数秒後だった。
《猿神の結界より、出たか》
娘の頭の中で、年経た男の声が銅鑼の如く響いた。
「華厳様……」
つり上がった雪輪の切れ長の目が、宙を見る。右手に持ったままだった簪を見ると、藍色の玉が仄かに光っていた。
「火乱は、どこへ?」
居たはずの化猫の行方を尋ねた娘に
《彼奴は常世へ戻った。力を使い過ぎたのであろう》
結界の中にいた時と同様の軽快さでもって、藍色の玉は語りかけてくる。
《火乱ほどの重さなれば、常世と映し世を行き来するも容易い。あれは昔、我が式神となり“軽く”なりし者。行き来に厄介と、自ら式神となることを望んだ風変わりな者よ。疾く戻って参ろう。彼奴め、そなたを気に入っておるようじゃ》
くっくと笑い、華厳と名乗った古の術者は、猫と己の事情をそう物語った。だが華厳の陽気さとは対照的に、雪輪の白い顔は陰を増す。
「おちやは……戻らないのですね」
弱い声で呟く。呪禁師は答えなかった。双方言葉が途絶えて後。
《あの折、猿神は『映し世の形』を成しておらなんだ》
語尾に多少の慰めを交えて、艶のある老人の声が告げる。
「映し世の形?」
虚無を宿した眼差しで、雪輪は問いかけた。
《言うなれば獣や烏、草木や水や風、光、闇……人が、分かる姿よ。先の猿神は、さにあらず。常世の姿に近き姿。“化物”よ。あのようなもの、人が見ゆれば気も狂う。猿神は娘を“針の先”として常世へ戻らんと欲したが、壊した。転がりおったは、潰れた娘。まぁ、わしのこの“姿”の如く、変化する事こそ稀代なれば》
禁を破り、後ろを見てしまったおちやが見た『モノ』。簪の喋る碧玉は、猿神の結界内で起きた事態を、そう説明した。
「猿神が祠から出てきたのは……わたくしがあの宿に居たためではございませんか?」
猿神が『針の先』を求めていたことを思い返し、雪輪は尋ねる。華厳は尚も明るく、「いやいや」と笑った。
《無名の君の“封印”が、また一つ解けた。猿神が動きだしたは、それが故。致し方があるまいぞ。形あるもの、いつかは滅びゆ。姿を変ゆる。それこそが映し世の、唯一の理》
話す華厳の声は明朗過ぎて、深刻さに欠けている。
《さてもさても……己が祖先の生業を知らぬか? いや、その前に、世の事さえ何も知らぬな、この姫は? さりとて無名の君に、三つの封印が施されておった事は、知っておろう?》
改まって華厳が尋ねた。
「はい」
と雪輪が答えると、簪の藍玉は満足げに語り始める。
《無名の君を縛る封印は三つ。“要岩”が最も古く、“霧降”と“人の型”とは、万に一つ要岩の封印が解かるる折りに、歯止めとせんがためのもの》
しかしこのうち、神刀“霧降”は既に奪われ
《新たに『要岩』が破られた……もはや残るは、最もか弱き“人の型”の封印ただ一つ。あれでは絹糸で獅子を縛るも、同じうこと》
歌うように華厳が喋るたび、簪の玉は微妙に光の強さを変えた。
「封印とは、直すことの叶わぬものなのでございますか?」
玉簪を手にした娘から差し出された疑問には
《要岩を……? あれほど複雑難解にして精巧なる封印、形とする力も知恵も言霊も、人の世より失われて久しいわ》
おどけた表情が見えてきそうな調子で、老人の声はそう返した。
それから
《今は昔。我は“外道の呪禁師”であった。“呪”を使い、式神を操りて気儘に暮らし、都人はそれを忌み嫌うた》
思い出した風に話し始める。それは千年も前の、華厳の昔話だった。何をしたのか、華厳という呪禁師は評判が良くなかったようである。だが
《外道も厭わぬと、ある一族の者が我を丁重に招いた。『名の無き神』が目覚めかけていると申してな。乞われた我は、一つの願と引き換えに、都から遥か遠き地で、無名の君を封じる二つ目の封印を結んだ。封印には、そなたの一族に伝わる、簪と刀を用いた》
往時を振り返り、懐かしそうに華厳は言った。
「その刀が、御神刀の“霧降”でございますか」
問いかける娘に、藍色の玉は明滅で答えた。
《いかにも。元より“霧降”は、封印に用いるようなものにあらず。あれなるは神代の昔、男が大蛇神へ、“神殺し”を願い現れ出でた刀。あれは誓約そのものにて。さりながら、大蛇は自らが形にした霧降に、最初に喰われてしもうたが》
刀に食べられてしまった大蛇の滑稽を語り、華厳はまたホホホとおかしそうに笑った。雪輪は脳内で響く老人の言葉を、沈黙と共に聞いている。
《刀は長きに渡り各地を流れ、終には“無名の君”の鎮め役を負いし者達が引き受けた。その首領こそ、そなたの家の祖。他の者達では、如何にも手に負えなんだ》
話しを聞き、玉簪を手に雪輪は瞑目した。華厳の物語は、初めて聞く湾凪家と神剣『霧降』の縁起だった。狭霧はおろか、父や祖父達、御室の里の人々も知らなかったろう。
《霧降は“神食み”の二つ名が有る。あれは神を喰ろう。誓約を、より重き誓約で潰し、奇特の現出を止める。人の思惑や、結願の有無に関わらずな》
更に続けて簪の玉は語り、青と白の間の色を柔らかく放っていた。
《『無名の君の誓約』を徒に潰さば、何としょう? それを思わば、封印として用いるにはあまりに危うい……とは申せ、あの時は他に手立ても無し。霧降へ呪を十重二十重と重ね、“無名の君”を再び要岩の奥に眠らせたのじゃ》
語り終えると、華厳は急に静かになった。そして
《そなた、“針の先”は、いやか?》
菓子が欲しいか? とでも問いそうな声色で、尋ねてくる。娘はどう答えたものか躊躇った。その躊躇いの答えが出る前に
《然もありなん。さりとて、鱈腹甘き蜜を啜る者あれば、苦杯を舐める者も現れるは必定。誰しも苦杯は避けたいものじゃ……しかしながら、これが映し世というものよ》
幼子をあやす風に、碧玉は雪輪の脳へ直接語りかけてきた。もしここに華厳の腕があれば娘の肩を抱き、震える手も握っていたろうと思わせる優しい語り口だった。
《……が、そなたが何としても“針の先”になりとうないと申すならば……霧降を探すが良い。あれなれば、無名の君とも渡り合えよう》
華厳が言いだす。雪輪の真っ黒な目が、藍色の玉を映した。
「何故、貴方様はそのようなことを教えて下さるのでございましょう?」
訊くと、老人の声はころころ笑う。
《あえかなる宿命のそなたにこれを教えぬは、片手落ちというものよ》
相変わらず、おどけた調子で華厳は言った。
《この日この時、ここへ辿り着くまで、時がかかり過ぎた。我が力も残り少ないが……何かの折には、再び目覚めて話しをしようぞ》
しわがれた声は感慨深げに囁く。微笑んだ気配を残し、簪の玉飾りは光を失って静かになった。
「……」
震える指で雪輪が撫でても、応えは無い。他にも聞きたいことは山ほどもあった。諦めた娘は、元結へ簪を差し戻す。そこへ先ほどの住職が、戸を潜り現れた。
「さあ、これを」
白湯の入った茶碗を差し出してくれる。この人物は、雪輪と対面しても影響を受けにくい型であるらしかった。職業柄もあるのだろうか。
「有難う存じます」
喉は乾いていなかったけれど雪輪は礼を述べ、差し出された茶碗を受け取った。両手で器を持ち、白湯を口へ運ぶ。小刻みに震え続ける旅人を、黒衣の僧侶が哀れみを込めた目で見つめていたときだった。
「あ、これは」
また別の男の声が、山門の方より聞こえてくる。
近所の村人と思しき人物が、近付いてくるところだった。
「おお、源八か」
住職が男を笑顔で迎える。雪輪も僅かに目を向けた。源八と呼ばれた男は小男で、顔の下半分を縁どる濃い髭が、いやに青々と目立っていた。小作人といった風体で、本殿まで来ると頭を下げる。
「お久しぶりでございます。お邪魔で……?」
「ああ、いやいや。こちらは旅の方だ。疲れておいでのようだったので、白湯を差し上げていた」
答える住職の後ろで雪輪は手拭いを被り、顔を覆って俯いた。
「ハァ……それはそれは」
離れていても、雪輪の白過ぎる肌の白さが目を引いたのだろう。源八の注意は、尚も雪輪に注がれていた。そんな男に苦笑して
「源八こそ、どうした? 古物の買い出しへ出かけたのだろう? 戻るにしても、早過ぎはしないか? 日光参りもすると、張り切っていたではないか」
住職が話題を振ると、百姓男は娘の方から住職へと向き直る。
「へえ、そうなんですが。切り上げて戻って参りました」
「ほう、一体なぜ?」
微笑んだ僧侶へ、源八は腰を曲げつつ頭を掻いた。
「途中でひどい大雨にやられたんです。もう二週間ほど前になりますか」
「大雨か……あちらはひどい雨だったか。新聞や、人の話しには聞いていたが……」
「ひどいも何も。道なんて通れたもんじゃありません。行く先行く先、途中に新しく川が出来ているような具合だったんです。それに大変な山崩れまで起きまして、とても山に近付く気になんかなりやしません。恐ろしくなって、逃げ帰って参りました」
青髭の顔を顰め、肩まで縮めて源八は言う。
二週間ほど前には、確かに街道で雪輪達もひどい雨に降られた。話しを小耳に挟みつつ、あの時はまだおちやも居たと、雪輪は胸に重石を乗せられたような思いがした。
「あれだろう? どこだかの集落が、崩れた山に埋もれて消えてしまったと」
両掌を合わせ痛ましげに言った住職の言葉を聞き、源八も頷いた。
「ええ、それです。たしか『みむろ』という里でした。昔から近隣とあまり関わりたがらない、妙な集落だったそうですが」
――――……え?
百姓男が口にした里の名を聞き、雪輪は手の中の茶碗を落としそうになった。娘の心のざわめきをよそに、男たちは話し合っている。
「元々、谷底みたいな土地にあった里だそうでして、これがいけなかったんです。おまけにあの辺りだけ、狂ったように大雨が降ったものですから」
「そうか、それで山が崩れたのか……」
「へえ、それに近くの村に住む者の話しだと、昔、その里の辺りで鉱山開発をしたらしいんです。山が穴だらけだったんです。普請のやり方も、まずかったのでしょう。そこへ大雨の水が一度に流れ込んだと、こういうことで」
源八は話しながら、忙しそうに手を振る。
「里は一人残らず生き埋めでした。異変を知って助けに向かった連中も、手の施しようがなかったそうです。近いと言っても、山二つは越えなければならない場所だ。あったはずの山が崩れて、更地になっていたそうですよ。どうしようもない」
旅先で話しを見聞きしてきた男は、夢中で喋り続けていた。雪輪は糸で吊り上げられたみたいに、ふらりと立ち上がる。
「誰も……助からなかったのですか?」
一歩近づき、源八に尋ねた。顔や姿を隠すのも忘れていた。問い質された男は、青白い肌をした異様な姿の娘に息をのむ。しかし傍らで平静な住職の様子を確認すると、それ以上は取り乱すことなく答えてくれた。
「……へ、へえ、まず里がどこにあったかも、わからない有様だったそうで。その場へ行った者から聞いたんだ。本当でしょうよ」
源八の話しを、雪輪は茫然自失の状態で聞いている。住職が黙って、それを見ていた。
故郷の里が、山にのまれて無くなったという。様々なことが、雪輪の脳裏を去来した。
里の景色。育った古い家。両親の墓。小さな畑。屏風のような青い山々。周囲を流れる濠にも似た川。御室の山と要岩。四郎左衛門。六郎右衛門。おばば。里の人々。平蔵。そして、おちや。
「ああ、そうだ。へへへ、それでもね。こんな土産があるんですよ」
どこか頭の働きが鈍いのであろう男は雪輪の変化に気付かずに、懐を探り始める。
「埋もれた里の跡地で見つけたと言って、譲られたんです。今回の旅の収穫と言えば、これくらいだ」
少し自慢げに笑い、源八は布にくるまれたものを取り出した。
はらりと捲った白い木綿布の下から現れたのは、鏡だった。古びた柄鏡で、裏には松竹梅の模様が浮き彫りにされている。
「滅んだ里のものだろう!? 売り物にする気か!?」
住職が目を見開いた。叱られた男は、驚いた風に口を尖らせる。
「そ、そうは仰いますけどね? せっかく遠出して只のくたびれ損だなんて、あんまり悔しいじゃあないですか」
「馬鹿者ッ!! そんな道理があるかッ!」
浅ましい百姓男を、住職が怒鳴りつける。と
「その鏡は……」
雪輪の黒い瞳が、手鏡に釘付けになった。
見覚えがある。それは雪輪がかつて母から伝えられた、銅の柄鏡だった。
「その鏡は……わたくしの物です」
元より蒼白な顔を固くして呟いた雪輪は、鏡の方へ一歩ずつ引き寄せられていく。つり上がった真っ黒な眼は、故郷に置いてきたはずの柄鏡だけを見ていた。里を離れた晩。持ち出す暇もなかった柄鏡。その鏡がまるで、雪輪を追いかけてきたようにここにいる。
「ええ? あ、あんたの……? だけど、こいつは……」
鏡と雪輪を見比べ、源八は言いかけた。娘の声色の急変で、住職だけではなく、鏡を取り出した源八も驚き戸惑っている。だが
「やや?」
「地震……?」
次の異変に、男たちは辺りを見回した。
彼らには見えなかった。
しかしたくさんの赤い目玉が、寺の本堂の壁や屋根にぶくぶくと浮き出ていた。寺全体がカチカチ、ミシミシと軋み、揺れ始める。置いてあった茶碗にも、大きな赤い目玉がぎょろりと現れ、石段を転がり落ちた。人々の足元で、小さなつむじ風が幾つも巻き始める。
「何故、ここに……?」
雪輪は唇から声を漏らす。墨より黒い髪が、風に巻かれて舞い上がった。身体を震わせる娘の異様に、源八はみるみる蒼白となっていく。
「う、うわああ……! ま、まさか、幽れ……!」
「源八、静まれ」
今にも逃げ出しそうな源八の腕を、住職が掴んだ。僧侶は無言で、鏡を源八の手から引き抜く。そうして柄鏡を、雪輪へ手渡し握らせた。
「旅の方。これは貴女がお持ちなさい」
一語一語を噛みしめて言った。住職の言葉で、雪輪は我に返る。それと同時に建物の異音も、ぴたりと静まった。田舎村の僧は、雪輪の震える白い手を握りしめていた。
「あの……」
柄鏡を渡された雪輪が見上げると、住職は口元だけで微笑み返す。厳しい表情とは異なり、目には慈悲が浮かんでいた。
「これで良いな、源八」
振り返って言った僧の言は提案ではなく、命令だった。小作の男は抵抗しない。
「へ、へえ! へえ! それはもう……!」
地面にへたり込み深々と下げた頭の上で、何度も手を擦り合わせていた。




