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夕日

 K宿は水郷である。宿場の外は沼地と湿地帯が広がり、網目のような大小の川の隙間に田畑が作られていた。すぐ近くにはM川という川が流れ、ここが水運の動脈となっている。このM川沿いに続く土手を下流へ向かえば、Yという船着き場があるはずだった。しかしである。


「おかしいね?」

 土手を歩いていたおちやが、足を止めて言った。

「どうして誰もいねぇんだ? 道さ間違えたのか?」

 娘は首を伸ばし、周囲をぐるりと見回す。雪輪も止まり、目深に被っていた手拭いを外して土手の彼方を眺めた。枯草に覆われた土手にも、日に照らされた対岸にも、無論川面にも人影がない。


「人がいねぇなら都合がいいと思ったけんど……こんな、猫の子一匹いねぇってのは、おかしいよねぇ?」

 おちやの声は、いつもより高くなって膝も震えていた。空気さえ動かない静寂と、ひたひた積もる違和感に娘は怯えはじめている。雪輪も違和感は覚えていた。おかしいのは音だけではなく、草や土の匂いまでもが止まったように感じられない。

「あ、あれ? もう日が暮れちまうのか? まだ朝だべ?」

 おちやが空を見て叫んだ。太陽が、西の方角へ傾き始めていた。冬の日が暮れるにしても、早過ぎる。


 そこへ「おい」と男の声が聞こえた。娘二人が後ろを見ると、長い赤毛をゆるく結った派手な青年が立っている。


「火乱……」

「だ、だだ誰?」

 小さく声を上げた雪輪の背後へ、おちやが慌てて隠れる。現れた見知らぬ男と雪輪とを、円らな目で見比べていた。背後のおちやへ目配せし、雪輪は火乱へ近付いて言う。


「川下へ行こうとしていたのですが、道に迷ってしまったようなのです」

 事情を説明した青白い肌の娘に見上げられた火乱は、牙の覗く口元を曲げ、首を横に振った。

「ちゃうな。引きずり込まれたんや」

 赤い前髪を掻いた青年は、緑の混じる妖艶な目を忌々し気に周辺へ巡らせる。


「スマンな。わいが一時、アンタから目ぇ離したんが、あかんかった。油断した。土々呂も一匹、取りこぼした。旅籠で騒ぎになったやろ? 逃がした土々呂が原因や。あいつらが、いらんこと吹き込みよったんやろ。猿神にもな。ここは千猿の結界……人間なんぞ一度入り込んだら、そう簡単には出られへん」

 見渡す限り、人どころか鳥や虫の影も無いこの場の異常さを、そう説いた。


「あの猿。封印破って、出てきよった」

「祠のですか?」

 火乱の口から出た『猿』という単語に、雪輪は声を潜めて尋ねる。「ああ」と火乱も軽く頷いた。山内屋の裏庭にあった小さな祠と、聞こえたあの声。家主から『千猿さま』と呼ばれていた、尻尾だけ残っているという何かである。


「何故?」

 こんなところで変なものだが、雪輪は尋ねたくなった。

 あの時、祠の声に邪悪さや禍々しさは感じられなかったのである。祠に祀られた者はあの場所で、静かに鎮座しているだけかと思われた。


「封印の中で、座して死を待つんは、納得いかへんかったんやろ」

 ぽつ、と化猫の青年は答えた。これまでより僅かに沈んだ声のように、雪輪には聞こえた。

「死ぬるのですか?」

「人間の死ぬんとは、ちゃうけどな」

 と、火乱と語り合っていた雪輪の腕を、急におちやが引く。大急ぎで数歩離れた場所まで雪輪を連れて行き、赤毛の方を横目で見ては小さい悲鳴みたいな声で尋ねた。


「ひ、ひいさま。あの人誰? 今度は何だべ?」

 すっかり混乱した表情で、疑問をぶつけてくる。事ここに至っては、隠すも何も無い。

「『この世ならぬ者』です」

「ヘエ?」

  雪輪が告げると、おちやは頭から飛び出すような甲高い声を上げ立ち竦んだ。目は瞬きもしない。


「里の『無名様』と、同じような者達ですよ」

 馴染みのある名を出してやる。更にヒュッと息を飲んだ。

「ムミョウサンと……! そ、それじゃあ、あの、それって!」

 おちやは雪輪が思った以上に、素直に事情を呑み込んだ。赤毛の若者と雪輪とを交互に見ては、手をすり合わせたり足踏みしたりと、驚きうろたえている。雪輪は返事の代わりに、真っ白な顔で一度頷いてやった。


「おちやには、後で改めて詳しく話しましょう。しかし今はここから出て、狭霧と落ち合うのが先です。無事だと良いのですが……」

 何も知らず単独で行動している弟を思い、雪輪は不安に駆られた。その不安感は、おちやも同様だったのだろう。強く「うん」と頷いた。


「わ、わかった……でも、後でちゃんと教えとくれよ? 約束だからね?」

 念を押し、状況に関する詳細な説明を後回しにすることを了承した。そして雪輪は火乱の元へ戻ると

「火乱。外へ出るにはどうすれば良いのでしょう?」

背の高い相手を見上げ、静かに尋ねる。


「何か必要なのですか? もしそなたの助太刀と引き換えに、人を喰わせろというのなら、後日わたくしがそなたに喰われましょう」

 化け猫へと申し出た。昔話などで、物怪との取引には何かを差し出すのが定石である。だが提案された火乱は、むしろ驚き呆気にとられているような顔をした。


「……そんなら、久しぶりに油揚げが喰いたいな?」

 しばらくして幼子をからかう風に笑い、素っ気ない口調でもって答えた。

「油揚げ……? それで良いのですか?」

「せやなぁ、持ってきてんか。あ、ちゃーんと油抜きしたやつやで? そんなら手ぇ打ったるわ」

 難しいのか簡単なのか。示された化猫の要求に、一先ず雪輪は「わかりました」と頷いた。


「……とは言え、わいかて猿神の結界を直接破るなんちゅう真似は出来へんからな。そんでも、『外』までの道案内ならな。何とかしたる」

 どことなくつまらなそうな顔で耳を掻き、青年はそう言ってくれた。火乱の言葉に、一先ず娘たちは安堵する。


 しかしそんな娘二人へ、真顔になった火乱が命じた。

「ええか? この先何があっても絶対に後ろ向いたらあかんぞ? 何が聞こえても、返事もしたらあかん。一言も喋るな。声も出すな」

 不思議な『禁忌』を言って聞かせる。


「後ろを見たら……どうなるんだべ?」

 おちやの問いに、赤毛の青年は緑色の混じった目で相手を見つめ

「帰れへんようになるわ」

極めて冷淡に告げる。その時だった。


「来よったな」

 整い過ぎているくらいに美しい顔を上げ、化猫が呟いた。雪輪すら何も聞こえないけれど、火乱には何か聞こえたのだろう。


「あっちや。外で仙娥が呼んどる」

 長い指で、真っ直ぐ土手の道の先を指さした後

「ほんなら、行こか」

先に立ち、土手の草を蹴って歩き始める。おちやと雪輪は頷き合い、どちらからともなく差し出した手を固く握って、火乱の後に続き歩き始めた。尻尾を思わせる長い赤毛が揺れる背中を追い、黙々と歩く。あまりの静寂に、空気すら吸いにくく、重く感じられた。


 そういう状態のまま、どれほど経っただろう。数秒のようでもあり、数時間経過した気もした。三人の背後で材木でも引き摺るような、ずるずると重い音が響いてきたのである。重いその音に混じって


《モウシ……モゥ……し……》


 枯葉を擦り合わせたみたいな囁き声が、すぐ後ろから語りかけてきた。


 性別もわからない。時に低く時に高く、声は不安定に揺らぎ、呼びかけてくる。おちやが雪輪の手をぎゅっと握りしめてきた。目だけ動かして横を見ると、おちやの顔は真っ青で、歯をかちかち鳴らしている。雪輪も緊張で心臓が鼓動を早め、呼吸まで苦しくなってきた。


『返事をしてはいけない』

『振り返ってはいけない』

 心を静め、火乱に言われた禁忌を念仏の如く幾度も頭の中で呟いていた。

 すると、今度は


《むかーし、の、話しでござります》

 背後の声は呼びかけるのをやめ、たどたどしく語り始めた。


《ある、所、に、悪、い猿神、がおりもうした……人里を、荒らし、時には女や赤子をさらって喰ら、うことも、ご、ざりました。さり、とて、その、ような猿神の悪行も、長くは続き、ませなんだ。徳の高、い僧により、言霊で、もって封ぜられ、小さな壺へと閉じ込めらる、るこ、とと相成りましてござりま。す。人の世で善い行いを重ねれば、いつか必ず狭、き檻より出し、てもらえ、よう……それ、ま。でよくよく精進怠るべ、からずと……》


 前を行く火乱と娘二人に追い付くことなく、等しい距離を保って後ろを付いてきているらしい『声』は、不自然な音階を辿り物語る。


《さ、れど、人の世でいくら尽くそうと、一向に、壺は開か、ぬのでござります。それ、どころ、か壺の中におる『何者か』のことも、人々は瞬く間、に忘れ去って、しまいまし、てござります。壺、はいつしか、『商売、繁盛の御守』な、どと言われ、各、地を流れ、人の、手から人の手へ、流れ、流れて五百年……》


 声は哀しげにそう言って、溜息の様な間が空いた。


《何卒、お救い、下さりま、せぬか。もは、や。『針の先』に、縋る他なく……壺を破り、出た、我が身は、映し世で、後、は、消え、るだけ……ほれ、もう、消え、かけて、おります、消え、かけて、おります、消え、かけ、ております、消え、てしまう、消え、てしまう、消え、てしまう、消え、る、消え、る消え、る消え消えきききききききききキキキキキーーーーーー……》


 そこで、背後の声がぷつっと途切れた。

 雪輪達の足音以外、何の音も聞こえなくなる。未だ風は吹かない。追い駆けてきていた『誰か』は、もういなくなったのか。消えてなくなったのか。


 緊張が途切れかけた刹那。

 握り締めていた雪輪の手を、突如おちやの手が振り払った。


「!?」

 驚いて見ると、隣のおちやは完全に後ろを振り向いていた。背後を見てしまった娘の目が、異常に見開かれている。その顔が、骨格ごとおかしな歪み方をした、次の瞬間


「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!」

 人とも思えない奇声が発し、おちやは蜥蜴そっくりの四つん這いになるや、後ろへ向かって走り出す。


「おち……っ!」

「見るなッ!!」

 振り向きかけた雪輪の肩を、火乱が掴んで止める。


「アイツはもう駄目や」

 火乱の瞳は冷え切っていた。大きな手が、雪輪の目を覆い隠す。

「走れ」

 そうして娘の手を引き、土手の上を走り出した。


《アンヴウガスァウェリオギイイイイイーーーー!!》


 意味のわからない猛り狂う声がして、背後から伸びてきた黒い枝に似た何かが雪輪の足に絡まりかける。倒されそうになったそれより先に、火乱が雪輪を右手に抱えて跳躍した。

「火乱!?」

火乱が左腕を怪我している。雪輪の声に、化け猫の青年は口元へ軽い笑みと牙を覗かせた。


「だんない。……へん、なんもわからんくせに、まだこない力だけは残っとったか。でも、もう終わりやな」

 火乱は娘を片手に抱えた状態で、奇声を上げる黒い追手を次々かわしていた。追手を避けきり、距離を取るとふわと降り立った青年は、雪輪を地面に降ろして言う。


「猿神の、最期の悪足掻きや」

 顎で、そちらの方を指した。

「見ても、良いのですか……?」

 雪輪も恐る恐る、火乱の視線の先を見る。


 五十歩ほど離れたそこに居たのは、想像していた風な『猿』ではなかった。

 干乾びて固そうで、まだぎこちなくも動いている、黒く歪な塊。一軒家ほどの大きさで、どこが頭で、何本も伸びる細長いもののどれが手で足かも判然としない。朽ち果てる寸前の、巨大な流木を思わせた。あれを『神』と言われても、崇める気にはなれそうもない。


 おちやの姿は見えなかった。アレに食われてしまったのかと、雪輪は血の気が引いた。それでもせめて、痕跡だけでも無いかと探していた娘の耳に


「おやおや。これはお気の毒」

 火乱とは別の声がする。西の方角から、土手の枯草をかき分け近付いてくる白尽くめの薬売りがいた。


「土々呂……」

「集まってきよったか」

 舌打ちし、火乱が緑色の目を鈍く光らせる。近付いてくる土々呂は、ひとりではなかった。土手の草むらや道の向こうから、柳行李を背負った白い影が、ひとりまたひとりと集まってくる。


 その時、雪輪はキィン……という耳鳴りに近い音を感じて片手で耳を押さえた。


《ようよう始まりおったか。愉快な事となりにしものよ》

 同時に頭の中で、優しくも知らない声が聞こえる。


「遅いわジジイ」

 火乱が雪輪を見下ろし、腹立たしげに言った。だが前にいる娘に言っていない。視線を追って、雪輪は自らの髪にあった簪を引き抜き驚いた。飾りと思っていた藍色の玉が仄かに白く光り、内部で青い光の粉が渦を巻いている。優しい声は、ここから聞こえてきた。


「簪が、喋っている……?」

 雪輪の呟きに、藍色の玉がくすくす笑った。


《我を忘れたか。ホホホ、千年も時を過ぎれば、忘れたとて不可思議もないか……然れども、待ちくたびれたぞ、『針の先』?》

 陽気な口調で言う。

《我は華厳けごん。『霧降の封印』を組みし呪禁師じゅごんし。『針の先』の宿り木じゃ》

 軽やかにそう名乗った。


《これにてまたもや、『土々呂』が増ゆるか》

 続けて華厳は囁いた。


 雪輪が猿神へ視線を戻せば、たくさんの土々呂が集まってきている。集団となった土々呂達はわらわらと、猿神を取り囲んでいた。ひとりが、か細い声でキイキイ泣いている猿神の傍らで跪き、柳行李を降ろして蓋を開けた。白い大きな布を引っ張り出し、猿神の上へばさりと掛ける。他の土々呂たちも次々と白い布を被せていき、すっかり猿神が覆い隠されると、今度は布が蠢き始めた。


《猿神の結界が縮む……疾く、ここより出よ火乱。この時がための『式神』ぞ》

 何が起きるか全てを見届ける前に、華厳が命じる。空の色はいつの間にか完全に、夕刻を思わせる紅で染まっていた。

「わかっとるわ」

 火乱は華厳の指示に素直に従う。片腕で雪輪を抱え上げる。

「どかんかいこのネズミがぁ! 食ったるぞコラァ!!」

 まだ集まり続ける土々呂達を蹴散らし、猿神に背を向けて風のような速さで土手の上を駆け出した。


「待って!」

 抱えられた雪輪は、叫んで必死に体をねじる。

「ひいさん、大人しゅうしといてんか!」

「待って火乱。おちや……おちやが見つからないのです!」

 叫ぶ娘に

「……猿神の足元に転がっとったやろ」

 走り続ける化猫の青年は、冷徹に答えた。


「転が……?」

 土手にうずくまる猿神から遠ざかりつつ、雪輪は火乱の肩にしがみついて後ろを見た。


 赤い夕日に照らされた土々呂が、ひとり。地面に転がっていた真っ黒な、炭団のような黒い塊を拾い上げ、背中の葛籠へポイと放り込んでいた。

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