空言
旅籠二階の窓からは、広い空がよく見える。雪輪と狭霧は薄暗い一室で、荷造りをしていた。
山内屋で世話になって幾日目か。ようやく出立の日となったのだ。すっかり長逗留になってしまった。懐もさびしくなった。でもお陰で狭霧の体調は回復した。
荷造りと言っても、大した量はない。先に片づけを済ませた狭霧が、姉の方へ振り向いた。胡粉のように真っ白な横顔を見つめていたのが、一呼吸置き
「姉上。平蔵が『困っていた』とは、どういう事ですか?」
声を掛ける。正座した彼の膝の上には、握りしめた両の拳が並んでいた。手甲を着けていた雪輪が、ぴくりと反応する。
「おちやの話し、聞いていたのですね」
「はい……」
改めて向き直った姉に、弟は頭を下げた。
「良いのです。近々話さねばならないとは、思っていました」
雪輪は情緒のない口調で言って居住まいを正すと、荷物を側へ置く。
「『古文書』の事です」
白い面を上げ、薄い唇が開いて言った。
「人身御供の?」
問い返す狭霧に、娘の首がゆっくり頷く。
「話しとして、奇妙に過ぎるのです。里の者でなければ知らぬ事柄について、詳しく記された文書が、何処からともなくやって来たなどと……」
長い睫の下、光まで吸い込みそうなほどに漆黒の瞳で斜め下を見て、雪輪は低く呟いた。
「里には鉱山開発のため、他所から人が入っています。要岩や御家紋岩について、外の何者かが知っていたことも有り得るでしょう。それでも古い神事などは、さすがに御室の里で長く暮らす者でなければ、知る事も叶いません」
そして、一旦沈黙した娘は
「『古文書』は、平蔵の空言です」
そう告げた。狭霧が切れ長の目を大きく見開き、息をのむ。
「し、しかし、紙も虫食いがあったり、色も古々しい褐色で、どう見ても古い時代の巻子本でした!」
あどけなさの残る少年は、うろたえ掠れた声を喉の奥から捻り出す。雪輪は僅かに目を細めた。
「古い紙を用いて作れば、済むことです。そこへ古く見えるよう細工を施せば、尚良いでしょう。紙を幾度も折ったり曲げたりして痛めつけることで、古紙に近付きます。柿渋などを塗れば、色も変えられます。たとえ素人の仕業であろうと、見る側とて書画の玄人ではないのです。わたくしは実物を見ていませんが、薄暗い室内や蝋燭の灯りで見れば、いかにも古い文書らしく見えたでしょう」
訥々と語る。座り込んでいる狭霧は、更に尻餅をつくみたいに体の力が抜けていた。
「そういえば……僕があの古文書を見せられた場所も、薄暗い納屋の中でした」
弱々しい声で、当時を振り返る。里の古老たちへ挨拶に参りましょうと、平蔵に呼び出された。
「僕は古文書を、姉上にも見せようと言ったんです。姉上を説き伏せるためにも必要だと……しかし平蔵は、それは駄目だと言って渡しませんでした。すぐに元の場所へ戻さなければ、里人達に気付かれると言って……里からの出奔も、寸前までひいさまにお教えしてはなりませんと」
たくさんの情報と感情が重なり、狭霧は声が小さくなっていく。混乱が汗と共に、眉間の辺りへ滲んでいた。
「平蔵は僅かな字の癖などで、誰が書いたか、わたくしに見破られる事を恐れたのやもしれません」
弟へ冷徹に告げる姉の全身は、いつも通り小刻みに震え続けている。狭霧が虚ろな表情で顔を上げた。
「では、里人が姉上の『人身御供』を企てていたという、あれも……?」
「おそらくは、空言です」
弟の再度の質問に、雪輪は淡々と返す。
「平蔵は『古文書の出現で、密かに騒ぎになっていた』と話していましたが、怪しいものです。わたくし達が里で孤立していることを逆手にとり、策を弄したと考える方が自然でしょう」
感情を殆ど見せない雪輪の声がより一層、冷たさを増して語る。
「御室の里の誰一人、わたくしを『供物』にしようなどとは、夢にも思っていなかったのでは?」
真っ直ぐ狭霧の目を見つめ、青白い肌の娘は言った。まだ明るくはない部屋の中、弟の顔色が変わっていくのが雪輪の目には見て取れた。
「おちやに確かめてみましょう。何か知っているかも……」
狭霧は両手をより固く握り、険しい眼差しでそこまで言いかけたが
「……いいや、やめよう。無駄だ」
途中で自分の考えを否定し、小さく首を横に振る。弟が何を思って発言を取り下げたかは、声に出ずとも雪輪に伝わってきた。
「狭霧が見せられた古文書には、『湾凪之女』と記されていたのでしょう? つまり、わたくし以外に、供物の代えは無いのです」
だからこそ、雪輪も狭霧と共に里を離れ逃げなければならないという、それが平蔵の主訴だった。姉の言葉を聞き、少年は頷く。
「そうだ……おちやは『里の皆が悔やんでいた』と話していた。もし平蔵の語った通り、里人達が古文書に則り人身御供の儀式を行おうとしていたのであれば、もっと血眼で追って来たはずだ……悔やんでいる暇なんて無い」
小声で語る狭霧の綺麗な顔から、混乱や動揺が少しずつ抜けていく。代わりに、悔しさと惨めさが表れ始めた。
「騙されたのか」
俯いた少年の唇には、自嘲の笑みが浮かんでいた。
「疑心暗鬼につけ込まれたのです。わたくしが『人身御供』にされると聞けば、きっと狭霧は動転して、言われるまま動く……。そこまで思案済みで、平蔵はこの一計を案じたのでしょう」
無表情ながらも、弟に語り掛ける雪輪の言の端には、微量の苦痛が混じっていた。
「でも、何故こんな真似をしたのだろう? 僕らを追い出したところで、あんな古い家屋敷では、大した金にもならないだろうに」
狭霧の疑問を受け、雪輪は黒い瞳へ少し考える気配を見せた後
「わたくしに、里を出て行って欲しかったのですよ」
一際静かに答えた。
「姉上に? どうして……? あんなに親しくしていたじゃないか」
驚きで目を瞬いた弟を見つめ、娘は更に静かに続ける。
「親しいからこそ、重荷であったとも考えられます」
雪輪の語るそれは推測というより、確信だった。
いつの頃よりかはハッキリしないが、昔から雪輪は平蔵の『忠義』に、空々しさを感じていた。『どこが』とは確定しにくい。平蔵の敬意や言動、全てが嘘で塗り固められていたとも思えない。それでいて、常に味方となり傍にいてくれる優しい目の底に、時々何か暗い影が過ぎるのを、雪輪は見ていた。
だから山中で平蔵の『説明』を聞いていた時。
相手の声を聴き、表情を見てるうちに、何となくわかってしまった。
――――この人は、わたくしに出て行って欲しいのだ。
そう気付いてしまった。
『古文書』も、偽物ではなかろうかと疑っていた。ただ、嘘か真かは状況的に確かめようが無い。もっと言えば、確かめたくもなかった。けれど追いかけてきたおちやの告げ口により、やはり嘘だったと判明したのである。おちやの家出だけは、平蔵も計算外だったろう。
「それにしても、何故これほど回りくどい策を弄する必要があるんだ? 姉上も僕と帝都へ行けば良いと勧めてくれたら、それで済んだ話しじゃないか」
じわじわ腹が立ってきたのだろう狭霧は腕を組み、先ほどより声を大きくして言った。雪輪の黒い目が畳を見つめ、平素と何ら変わらぬ音量で返す。
「わたくしを里から出すことは、四郎左ヱ門達が許さなかったでしょう。わたくしも、里を出るつもりなどありませんでした。『人身御供』はさておき、御室の里が固陋な『掟』や『伝承』に支配されていた事に、変わりはありません。それに……」
「それに?」
言いかけて口を噤んだ姉を、不思議そうに見ている弟へ
「因習の鎖を断ち切り、わたくしを里から出す方法として、これが最も確かだと平蔵は考えたのでしょう。『人身御供』と脅しておけば、もし帝都でうまくいかなかったとしても、里へ帰る気は起こしにくい」
雪輪は言い、窓の外へと黒い視線を移す。外から聞こえてくる人の声や、大八車を引く音も増えてきた。
「僕は、まんまと踊らされたわけだ」
ちょっと笑って狭霧は小声でそう漏らした。相当怒っている。雪輪は狭霧の心情を思い、気持ちが曇った。
「……狭霧。この際なので、もう一つ話しておきましょう」
広くはない旅籠の二階で、一時の間が空いた後。膝の上に自分の震える手を重ね、雪輪は切り出した。狭霧は背筋を伸ばし、「はい」と対面する。
「御室の山のお社にあった奉納絵馬のこと、覚えていますね?」
娘はここまでとは全く異なる、新たな話題を持ち出した。
「はい」
「あれに書かれていたのが、『算木』であることもわかりますね?」
「はい」
雪輪の問いかけへ、狭霧は従順に頷く。
禁足地だった故郷の山の、寂れたお社に奉納されていた古い絵馬。
そこに描かれていたのは、『算木』だった。算木は木片を並べて数を表現する道具である。これは算盤が広まるまで、計算をする時に重宝された。あの奉納絵馬に描かれていたのは、『数』だった。
「絵馬に記されていた『数』は、覚えていますか」
「たしか、一、二、四、八、十六……それから……?」
「三十一、六十二、百二十四、二百四十八です」
狭霧が迷った先を繋いで、雪輪は言った。
「これらを、勘定したことはありますか?」
「え? な、無いです」
「全ての数を足すと、『四百九十六』になります」
雪輪は『答え』を述べる。姉の謎かけと解答に「はあ」と頷き、狭霧は吃驚した表情をぶら下げていた。父が他界が早かったため、狭霧は当主として伝え聞いていない事柄も多い。残された僅かな書物などで補ってはいたが足りない部分が多く、奉納絵馬についても同様だった。
「どうして足すとわかるのですか? あの算木は並んでいただけです。引くのかもしれない」
狭霧は問い返す。その指摘にも娘の青白い顔は、特に変化を表すことなく
「足すと現れる、『四』と『九』と『六』という数に、覚えがあったからです」
そう告げた。
「まずは当家の家紋です。『九曜』に『陰六角』と『割れ四つ石』」
言いながら雪輪は懐剣を取り出し、そこに印された自家の家紋を指し示す。
「そして名です。『六郎右衛門』と『四郎左衛門』」
「父上が、『九之丞』か」
狭霧は膝を打つ。姉は体を小刻みに震わせつつ懐剣を仕舞い、頷いた。
「四百九十六に、何か意味が?」
尋ねる狭霧へ、今度は雪輪も視線を逸らす。
「わかりません。何故これほど、何度も繰り返してこの数が出てくるのか……。ですが、何か重要な意味のある数だったのやもしれません。この数を忘れないために、人の名や家紋に託して、伝えられてきたのではないでしょうか」
「四百九十六……? 何だろう……?」
と、二人が黙り込んだのと、ちょうど時を同じくして。
複数人の怒鳴るような声と、どたどたバタバタ近付いてくる足音が聞こえた。
「ちょ、ちょっと待って! 駄目だよ! 待ってったら!」
「うるさいね!」
「どいとくれ!」
襖の向こうでそう怒鳴り合う声が聞こえるや否や
「ひ、ひいさま! この人たちが……!」
襖が開き、おちやが泣きそうな顔を出す。押し留めようとしていた娘を突き飛ばし、女が三人、部屋へ雪崩れ込んできた。何れも雪輪達の知らない顔である。
「ねぇアンタ、『子授けの神通力』があるんだって!?」
女達の口が叫んだ。




