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 三日後、狭霧の熱はようやく下がった。だがまだふらついていて、食欲も無い。


「下手な無理をしたら、たちまち病人に逆戻りですよ」

 みどりが見かねてそう言って、今しばらく部屋を使うよう提案してくれた。金も、まだ多少ある。女将の好意に、旅人三人は甘える事にした。尚、雪輪が他の客との接触を避けたい旨を伝えると、これもみどりは容易に了解してくれた。


「ああ、構いませんよ。お好きになさって下さいな」

 山内屋の女将の対応はそれだけで、話しはおしまいになった。

 こうして看病と店の手伝いに明け暮れるうち、一週間などすぐ過ぎていく。おちやはすっかり馴染んで、山内屋の俄か女中としてよく働いていた。


 山内屋は主に行商人が利用する旅籠で、人の出入りの割に静かな店だった。忙しい商人たちは、二階の一番奥の部屋に人がいるとは知らないまま、入っては出て行く。これが大変に有り難く、雪輪も気を休めることができた。


 そうは言っても、おちやだけ働かせて遊んでいるわけにはいかない。雪輪は狭霧の看病の傍ら、旅籠の布団や着物を含めた繕い物を、一手に引き受けていた。他に洗濯も担当している。


 そして、()()の声が聞こえてきたのは、ある日の明け方。

 雪輪が裏庭で、洗濯物を干している時だった。


《モシ……モウシ……エ》


 洗濯物を干していた雪輪は、誰かの呼びかけに手を止めた。


 男の声と思われた。朝も早いが、昨日泊まった客達は既に出立している。今この旅籠にいる男は、狭霧と下男の弥十郎だけのはず。長い黒髪を微風に揺らし、娘は足元の桶に洗濯物を置いて裏庭を見回した。


 人の影はない。その代わり、敷地の隅を占める木漏れ日の下に、小さな古い祠を見つけた。小皿に盛られた、塩と水とが供えられている。声はここから聞こえてくる。


――――『常世』の者か。


 思い当たった。

 山内屋でも、たまに怪異が顔を出すことがある。時々、赤い目玉の九十九神が一つ二つ、壁や板敷の床へ出てくる。開いた戸口や窓の外を、白い影が過ぎったりする。今聞こえた『声』も、そういった類だろうと思った。


 よく意識を集中させると、声は耳ではなく、雪輪の頭の中に直接響いてきていた。古い道具に触れた時に聞こえる、声や音と似ていた。雪輪は慣れ過ぎてしまっているため、気をつけていないと通常の音と区別し損ねるときがあった。でもやはり常世の音は異なっていて、まるで“夢”で聞く音のように、曖昧で不自然なのだ。


――――何がいるのだろう?


 雪輪は祠の前まで歩み寄り、古びて所々苔の生えた木製の小さな建築物を見つめる。

 火乱の言葉を信じるならば。おそらくこの祠には、みどり達が常世に“慣れる”原因的存在が祀られている。


《モウシ……モウシ……》


 祠の中の何者かは、まだ同じ言葉を繰り返していた。しかし返事をしてやるべきか雪輪が悩んでいる内に声は次第に小さくなり、最終的には消えてしまう。


「ちょいと、雪輪さん」

 そこへ、呼ぶ声がした。ハッキリとした女の声。

「オヤ、どうなさいました?」

 娘が振り返ると、洗った手拭いの束を抱えたみどりが庭へ降りてくるところだった。


「あの、声が……」

 真っ白の顔に表情は出ずとも、雪輪は少し慌ててしまう。

「? 声?」

 たすき掛けの娘が漏らした言葉の意味を、みどりは理解していない様子だった。この女も何も聞こえていないのだ。


「いえ……何か声が聞こえた気がしたので、旦那様がお帰りになられたのかと」

 平常心を取り戻した雪輪は尤もらしい事を述べて、はぐらかす。それを聞いた女将は軽快に笑い、手を振った。

「ああ、それなら空耳でしょうね。帰ってなんかきやしませんよ、あの人は」

 からりと言う。雪輪の態度を不審がったり、恐れている気配はない。


 みどりは雪輪のような、異様に目のつり上がった青白い顔の娘が相手でも、平然と会話する女だった。距離を置いたりもしない。度胸が据わっているというか、どことなく、世の中に対して開き直った風な気の強さを感じさせる女だった。


「みどりさん。つかぬことを伺いますが……この祠は、昔からここに?」

 雪輪の問いへ、女将は首を伸ばして小さな祠を見てから頷く。

「ええ、昔っからあるんですよ」

 無駄な愛想は使わない主義らしい宿の女将は、再び気軽な調子で答えてくれた。


「『千猿さま』っていうんですよ。商売繁盛のご利益があるとかでね。『猿神様の尻尾』が入った壺が安置されてるって……でも祠の扉を開けちゃいけないんですよ。あたしも開けちゃいけないよと、厳しく言われてきましたから、開けて見たことはありません。うちの名前が『猿尾』なのは、この神様にあやかっているらしくてね」

 面長の顔が、大真面目に言っている。洒落っ気なのか駄洒落なのか、よくわからない答えだった。聞いた娘の側も、若干気が抜ける。


「もしかして……何か見えるの?」

 丸髷の女は、さっきとはまた別の真面目さをすっと目元に浮かべ、少し声を潜めて雪輪に問うた。


「雪輪さん、あんた市子イチコかい? それか、卜占ぼくせんでもしておいでなの? 人に会いたくないって言っていた、それと何か関わりがあるんですか? きっとお士族さんだろうとは、お見受けしていたんですけどね」

 口には出さずとも、みどりもやはり色々疑問はあったのだ。至極当然だろうと、雪輪も思った。助けてもらい、世話にもなっている身の上である。逡巡した後、娘は少しだけ事情を語った。


「当家は、元は旗本でございます。しかしながら故あって、わたくしはかつて郷里で、『子授け観音』などと呼ばれておりました。『子授けの神通力』があると……」

「神通力! それはまた大仰だこと!」

 転げ出そうなほど目を剥いて、みどりは小さく叫ぶ。口元には僅かに笑みが滲んでいたが、相手を軽んずる笑いではなかった。ただ、珍しがってはいるようだった。


「どうやって子授けするんです? こう、ご祈祷か何かで?」

「はい……」

「へえー、そりゃ大変だ。ま、あたしくらいの歳になれば、今更ねぇ……関わりなんぞ無いからねぇ」

 みどりはまた吃驚した顔になっている。まるきり対岸の火事といった風情だった。それからぱんと手を合わせ


「さ、おしゃべりはこれくらいにして。朝餉の支度はしてありますから、これ干し終わったらどうぞ」

喋りながら宿の女将は、持ってきていた手拭いを雪輪へ渡した。

「恐れ入ります」

「こんな事で恐れ入らなくたっていいんですよ」

 答える娘の無表情にも、みどりは手早く返す。そうして慌ただしい足音と共に、室内へと引っ込んでいった。


 残された雪輪は物干し竿の前へ戻り、渡された手拭いを干し始める。

 その背後に突然ぞくりと、何者かの気配を感じた。耳は良い方の雪輪が、足音も聞き取れなかった。やや身を固くし、左の肩越しに後ろを見る。娘のすぐ傍。予想以上の近い距離に、その者は立っていた。


「ここの旦那、主人とは名ばかりや。長年女房の尻に敷かれっぱなしやったんが三年前、他所に妾を囲って、そこで生まれた子供と親子三人、仲良う暮らしとるらしいで」

 背の高い、見ず知らずの赤毛の男。でも上方訛りに似た言葉を話す男の声には、覚えがあった。


「その声は……火乱?」

 語尾に僅かな驚きを滲ませる雪輪を見下ろし、赤毛の青年はニヤッと笑った。化猫の火乱が、また人の姿に化けて出てきたのだ。前回はふくよかな男性だったが、今回はまた随分と若い上に派手である。


「今度は、誰に化けているのですか?」

「これか? まぁ面構え自体は昔、わいの飼い主やった男や。この方が目立たへんし、話しやすいやろ」

 火乱は悠々と答えた。話しやすさはともかく、この外見で目立たないという事は無いだろう。


 真っ赤な長い髪は、藤色の組紐で緩く結ってある。緋縮緬の襦袢。艶やかな梔子色の着流しで、裸足に雪駄。長めの黒羽織は裏勝りで、鮮やかな五色と金糸を用いて瓢箪紋様がぎっしり刺繍されている。緑色の光が混じる切れ長の黒い眼にだけ、猫の頃の面影があった。美しいが、作り物めいていて何となく嘘くさい。


「男前やろ?」

 鼻高々と色白の顔が言って笑うと、赤い唇から尖った牙が少し覗く。遊び人風とでも言えば良いか。少々派手過ぎる配色を除けば、無駄のない痩身と整い過ぎている顔立ちは、水も滴る美男と言って差し支えなかった。

 だが


「顔と声が合ってない……」

「何でやねん。他に感想ありまっしゃろ」

 渋い声と華やか過ぎる外見の不一致による違和感が先に立ち、見惚れるのを忘れてしまう。そんな雪輪に、火乱は物凄く不満そうに言い返した。不貞腐れている化け猫青年の横顔を見ていた娘は、思い出して口を開く。


「……火乱。今一度、教えてほしいことがあるのです」

「あん? 何や」

 まだちょっと拗ねた声で答え、緑色の混じる横目が娘を見た。

「『針の先』とは、何なのですか? 雲竜という天狗から、人柱であるとは聞きましたが、『その時ではない』とも聞きました」

 雪輪は尋ねてみた。火乱の艶めかしい口が、ぽかんと開く。


「……アンタ湾凪の人間やろ? それも常世に片足入っとる分際で、そないなことも知らんのかいな?」

「知らないのです」

 無表情で頷いた娘に、火乱は呆気に取られた表情を浮かべていた。

「ハアー……映し世はホンマにこないなるねんなぁ」

 赤毛の青年は首を捻る傍らで、ブツクサ言っている。同じ呟きを、たしか雲竜も零していた。


「わたくしは、物の怪に食べられてしまうのですか?」

 持っていた洗濯物を丁寧に畳み直し、雪輪は改めて問いかける。

「せや。わいをこっちへ映し出したこの男みたいに、頭からガリガリガリーっ! とな」

 火乱はおどけた口調で答え、大袈裟に食べる素振りをしてみせる。緩慢に瞬きした娘は、「そう」と極僅かに頷いた。静まった二人の間を、冬の風が一陣吹き抜ける。


「何やねん! 『きゃ~』とか言うて怖がってみせる愛嬌ないんかい! おもろないおひいさんやな!」

 反応の薄い娘に、顔をしかめた火乱は右手で長い赤毛を掻き毟っていた。

「そのように言われても」

 顔色を変えないよう生きてきた雪輪は、どうすれば良いのか見当がつかない。


「まぁ知らんもんはしゃーないか……せやけど、まず“無名の君”は物の怪やのうて、『神』さんやで」

「神様?」

「せや。播摩の姫御世や、伊予の御大より古い。ダイダラボッチより、もーっと古い時代からこっちにおる」

 人の姿をした化け猫は、面倒くさそうな顔をしながらも話し始めた。


「『神』っちゅうのはな。元々、人には見ることも聞くことも感じることも出来へんもんや。常世と映し世は、由来も形も理屈も、ちゃうように出来とるさかいな。ただし言霊の誓約で、一瞬映し世の実在に近くなる事はある」

 火乱は身振り手振りで物語る。


「言うたらな? 本来は存在せぇへん常世の神を、誓約の言霊で映し世(こっち)へ映し出しとんねん。でもそないな真似すると、映し世が歪むねん。その“歪み”が、人がありがたがっとる奇特やねんけどな。そんでな、歪みをそのまんまにしとくと、これがアカン。奇特が行き過ぎて、破滅する。膨らみ過ぎた泡が、パチーンて破裂するようなもんや。そこで破裂する前に、何とかしたろっちゅう……」

「それが、『針の先』?」

 火乱の言葉の最後を、雪輪が拾った。


「“歪み”を消すために、わたくしが人柱となって死ぬるのですか」

 先の説明を、雪輪なりに解釈してみる。でも火乱はやや困った風な顔になった。

「いわゆる死ぬっちゅうのともちゃうねんけどな……とりあえず、『針の先』になった者は、映し世から消えるんや。輪廻転生からも外れる」

 語る化猫の回答には、言葉を選ぶそこそこの苦労が見て取れた。


「……と。わいが言えるんはここまでや」

 赤毛の青年は緑の光の混じる目で微笑み、雪輪の顔を覗き込んだ。言える事と、言えない事があるのだろう。

「そうですか」

 娘はそれ以上の問いをやめ、長い睫毛を伏せて答えを返した。


 火乱が語った事柄は難しくて、わからない部分の方が多い。それでもどうやら『無名様』と、それに纏わるものが、自分の手に負えなさそうだという点は把握出来た。一先ずはこれで十分だと考える。


「……でも何故、無名の君は今になって急に『針の先』を求めるようになったのです?」

 震える娘がもう一つ問うと

「ちゃうちゃう。何千年も前からあったわ。無理やり封印で止めてあっただけや」

これにも人間姿の赤猫は、陽気に答えてくれた。


「無名の君の誓約は“産児”や。だいぶ弱なった今ですら、桁違いに強い。ひいさんの周りで、やや子がポンポン生まれたやろ。急激に人を増やせるんや。特に政をする者には、都合が良かったやろな。あない巨大な『神』は、もう映し世に呼び出せへん。せやから何かあるたびに使うては封じ、使うては封じを繰り返して、封印を塗り重ねて『針の先』への到達を引き伸ばしにし続けてきたんや。それでもゆっくり動いてはおったやろけどな」


 明るくなってきた裏庭で猫の話を聞きながら、雪輪は冷たい洗濯物を握り締め黙り込んでいた。おちやの呼ぶ声が聞こえてくる。急いで手拭いを干し終えると、長い赤毛の青年に向け

「ありがとう」

礼を言い、娘は裏庭を後にした。

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