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化猫火乱

 品の良い金持ち風の中老男性に化けた猫が、雪輪と狭霧と、宿探しを諦めて戻って来たおちやを連れて向かった先は、K宿の旅籠だった。場所はかなり南端に位置している。古い出格子も小粋な、『山内屋』という小さな旅籠だった。


 先に店へ入った男性(猫)に続き、三人の旅人達も戸を潜る。建物の中は薄暗く、奥で灯りが漏れているのみだった。客もいるのかいないのか、静かで人の声も聞こえない。男が呼びかけると、廊下の向こうから女が一人、ランプを手に出て来て目を丸くした。


「マァ、御手洗みたらい様……?!」

 四十代と思われる女は驚いた声を上げる。猫が化けている人物は、『御手洗』さんというらしかった。


「梅見をなさって、そのまま真っ直ぐ帝都へお帰りになったんじゃ……?」

 丸髷の女は面長で背が高く、落ち着いた物腰をしていた。小走りで寄って来ると、『御手洗』氏とその後ろにいる三人を交互に見て、戸惑いまじりの表情を浮かべる。おちやの背中では、赤い顔をした狭霧が半ば眠っていた。御手洗氏は上がり框に腰かけて黒い山高帽を脱ぎ、懐から出したハンカチで額を押さえ口を開く。


「それがな女将。実は、さっき道中で賊に襲われてなぁ……」

「え?!」

 弱々しく切り出された話しに、女将の顔色が変わった。

「若い男だ。金を出せと脅されて、命からがら逃げて来たよ。ヤアまったく、酷い目に遭った」

御手洗氏は袖の埃を払う仕草をし、人の良さそうな丸顔を弱く横に振る。


「すぐ警察に!」

「イヤイヤ、いいんだ。それはもう報せてある。逃げ足の速そうな奴だったから、捕まるかどうかはわからんがね。私も金は取られなかったし、怪我も無かった」

 慌てる女将を、品の良い男性は穏やかに引きとめた。


「お怪我は無かったんですか? ああ、それなら一先ずは良うございました」

 おそらく御手洗氏と懇意にしているのだろう旅籠の女将は、右手を当てた胸をなでおろしている。そんな女性へ

「その時、こちらの方々に助けて頂いたのだよ。賊を追い払ってくだすってね」

男性はにこにこと、後ろの旅人達を紹介した。会話を傍らで聞いていたおちやが、こそりと雪輪に耳打ちする。


「ひいさま……そうだったの? 街道の連中とは別だべ? うちがいねぇ間に何が……ていうか、あの人誰?」

 疑問だらけの娘に問われ、三人分の荷物を抱えた雪輪は

「……通りすがりに、ね」

小さな声で、それだけ返した。


「湾凪さんと仰ってな。お三方で帝都まで行きたいのだそうだ。お礼方々、わしが帝都までお連れしようと思ったのだが、お一人が急に熱を出してしまわれた。無理に動かすわけにもいかない。しかし旅籠はどこも入れず、難儀しておいでなのだよ」

 御手洗氏(の偽者)はすらすらと喋っている。


 尚、人間に化けた猫がさっきから喋っているこれは、嘘八百である。雪輪は居心地が悪かった。だがもはや、他に手段が無い。ここでの野宿は、狭霧の命に関わりかねない。ここはもう、化猫に任せようと思った。


「そこで女将。何ぶん急で申し訳ないが、こちらの方々を泊めて差し上げてはもらえないか? 恩人に、ご恩返しをしたいのだよ。この通りだ。金はわしが先に、十分払っておこう」

 白髪も薄い頭を下げ、御手洗氏は頼み込む。女将は突然の依頼に、困惑している様子だったが

「ハァ……まぁ、他ならぬ御手洗様の頼みとあっちゃあねぇ……」

断れないといった風に頷き、やがて微笑んだ。


「あいわかりました。ちょうど二階の部屋が空いております。二日でも三日でも、お使い下さい」

 気風の良い女は答え、引き受けてくれた。

「そうか、良いか」

女将の言葉に、御手洗氏の丸顔が一層にこやかにほころぶ。


「ヤァ良かった、ありがたいありがたい。恩にきるよ」

「やめてくだいましな。いつも良くして頂いてる御手洗様の恩人なら、うちの恩人も同然でございますよ」

 何度も頭を下げる常連客に、女将は笑っている。


「良かったね、若! ひいさま!」

 おちやが弾んだ声で言った。女将が「若?」と小首を傾げている横で

「では、わしはこれで失礼させて頂こう。随分と遅くなってしまった。早く帰らねばならん」

山高帽を被った男性は断わって、いそいそと立ちあがった。


「ただいまお人力車くるまを!」

「いやいや、これ以上女将に世話をかけては心苦しい。ここで結構だよ。何、二度も賊に遭うなんて間抜けはしない。金はこちらに置いておくよ」

 人力車を呼ぼうとする女将をやんわり抑え、御手洗氏は金を払うと微笑んで手を振り、外へ出て行く。女将は店の前まで出て、「今度こそ、どうかお気を付けて!」と呼びかけ、しばらく見送っていた。


 そうして建物内に戻った女は、居並ぶ若い三人を順繰りに見ていく。先ほどまでの愛想の良さは、嘘みたいに消えていた。これはもしや、また駄目なのかと三人が一瞬思ったところで

「弥十郎、手水鉢に水入れて持って来とくれ!」

戸の陰で様子を伺っていた下男へ、女将が声を掛ける。それから旅人達へ振り向いた。


「さ、こちらへ」

 女は店の中へと導いてくれる。ふっと緊張が解けた。おちやと雪輪は顔を見合わせ、頷き合って後に続く。


 女将は二階の一番奥まった一室へ、三人を案内した。てきぱきした動きで布団を出してくる。雪輪達が狭霧を布団へ寝かせると、その間に弥十郎と呼ばれた下男に手伝わせ、お湯の入った桶も部屋へ運び込んでくれた。女将は娘達にも顔や手足を拭くよう勧め、狭霧の額には濡らした綺麗な手拭いを当ててくれた。


「ありがとうございます」

 うっすら目を開け、礼を口にした狭霧を見て

「オヤ、美男だこと。気がつきませんでしたよ」

長年働き続けてきた佇まいの女は、丸髷の下で笑いもせずに言う。女将は名を、『猿尾みどり』といった。


「……本当に、泊めて頂いても良いのですか?」

 狭霧が眠るのを見届けた雪輪は、行燈へ火を移していた旅籠の女将に問いかける。隣でおちやが目を瞠った。


「ひ、ひいさま?!」

「弟だけは、此方様のご厚意にお縋りするより他ないのですが、わたくしまでご厄介になると……」

 また何か起こるのではないか。道中の出来事を思い出し、雪輪は俯く。青白い顔色の娘を眺めていたみどりは、少し考える風な表情をした後

「その体の震えの事かい?」

客の正面へ向き直り、答えではなく質問で返してくる。


「雪輪さんと仰いましたかね? ちょいと変わった旅人が宿場に来ているって噂は聞いていましたけど、アンタだったのかねぇ? ……で、その震えは病気? 伝染うつったりするんですか?」

「いいえ」

「それじゃ、生まれつき?」

「……幼少の頃からなのです」

 やり取りしている雪輪の前へ、おちやが遮るように身を乗り出した。


「伝染るってことはねぇよ! そこはたしかだ!」

 必死な顔で叫ぶ。雪輪としては、自分がいない間の狭霧の世話をおちやに任せたいと考えていたくらいだったのだけれど、おちやは自分まで旅籠を出されてはたまらないと思っているのだろう。田舎娘の主張に、女将は驚いた顔を見せるも

「あ、そ。それなら構やしませんよ」

 軽快な、明るい声で言う。


「うちは長年ここで旅籠をやっていましてね。古さだけなら、ちょっとしたもんなんですよ。あたしと亭主と、下男が一人いるだけのちっぽけな店ですけどね。一度引き受けたお客を放り出すほど、落ちちゃいないんですよ」

 言いながら、みどりは廊下で控えている下男を見る。目配せされた弥十郎も、あばただらけの顔で、無言のまま頷いた。


「さて、のんびりしちゃあいられない。まず雪輪さんは病人のお世話。そっちはおちやさんだっけ? 台所手伝っとくれ」

 立ち上がりかけたみどりは、おちやの方を向いて指示してくる。


「う、うちが?」

「当たり前だろ。上げ膳据え膳になるとでも思ってたのかい? さ、行った行った!」

 気前の良い宿泊許可には最初から、労働力として使う心積もりもあったのだろう。宿場町の小さな旅籠を切り盛りしている女は、優雅さや洗練には遠いものの、全体に暗さがなく明け透けだった。


「しばらくしたら、雨戸を閉めて下さいな」

 そう言い置き、おちやを急き立てみどりは部屋を出て行った。


 静かになった部屋で、雪輪は弟の具合を伺う。微かな行燈の灯りの中、狭霧は赤い顔をして泥の如く眠っていた。雪輪は出来るだけ音をたてないように手拭を絞り直し、熱の籠った額に載せてやる。

 その時だった。


「アンタ、おひいさんやったんやなぁ。どーりで頭が高いと思ったわ」

 渋い声の上方訛りが聞こえてくる。雪輪が見上げた夜の窓辺には

「中々の化かしっぷりやったやろ?」

ニタアと笑う、赤毛の大きな猫がいた。闇に浮かぶ緑色の瞳が、炎みたいにゆらゆら光っている。


「恩は返すて言うたやろ。あ、あの金は本物やさかい、いらん心配せんでええからな?」

 ひらりと畳へ飛び降り座り込んだ猫の言に、雪輪は呆れた。化猫とは書物で読むよりも、存外に正直で義理堅いものなのかもしれないと思った。


「お前、名は何と言うのですか?」

 娘が小さな声で尋ねると、行灯の光に猫は目を細め、長い尻尾の先だけを動かす。

「名は先に名乗るんが礼儀やで……まぁ、ええか。おひいさんやからな。教えたるわ。『火乱』や」

「そう。美しい名ですね。わたくしは『雪輪』」


 猫の名乗りに答え、自らもそう名乗った後

「火乱。一つ尋ねたいのですが……何故あの女将は、わたくしを見ても恐れないのですか? 少しは驚いていました。それでも他の人々よりは、驚いていないのです。卒倒する人までいたのに」

雪輪は気になっていた事を口にした。すると

「ほほーう。ひいさん、ただの世間知らずとは、ちゃうみたいやな」

火乱は楽しそう言い、白い髭をひくつかせる。


「あれは性格だけが由来やない。あの女将はな。わいらみたいな『常世』の者に、慣れとるんや」

 火乱の言葉を聞き取るのに苦労しつつ、雪輪は首を傾げる。

「常世とは、『古事記』にある『常世の国」のことですか?」

 確認の意味で尋ねた。

 古人が思い描いた終わらない夜の国であり、永久とこしえの世界とも言われる場所。


「わいらが元々棲んどるとこや。この国の人間の間じゃ、『死者の国』や思われとるらしいな」

「違うのですか?」

「さーなぁ?」

 火乱はとぼけた口調で言うとごろりと寝転び、明確な回答をしない。


「とにかく、人間は常世の者と対峙した時、無意識で“違和感”を覚えて恐れるんや。ただ元々、身近に『常世』の存在がおったり、長年『結界』の中で暮らしとるような人間は、それが起きにくいねん。慣れるんも早い」

 猫は気だるげに話しながら前足を舐め、顔をこすっていた。

「そう」

真面目に猫と話し合っている自分の状況を嘘のように感じつつ、雪輪は頷いた。


「むしろ、ひいさんみたいな『針の先』と相対して、何も起こさへん人間こそ気ぃつけや。子供や年寄りなんかにも、たまーに平気なのはおるけどな。まぁ大体は何かで既に常世に関わって慣れとるか、どエライ阿呆かのどっちかやで」

「阿呆……」

 猫の言い様に、随分な言われ方だと雪輪は思った。きっと軽蔑の意味ではなかった。けれど日常会話で『阿呆』を使用した経験が無い娘には、この辺りの機微が掴みにくい。


「ひいさんら帝都へ行くんやろ? とりあえず、そこまで辛抱しいや。あっこは御前様のデカい『結界』に覆われとる。有象無象も集まる所や。人の反応も、ここよりだいぶマシになるやろ」

 語ると同時に、火乱は牙を見せ大欠伸をした。結界については雲竜坊も語っていた。


「この旅籠にも、『結界』があるということですか?」

 雪輪は天井を見上げた。暗い天井には古びた板が並んでいるだけで、特段の厳かさは感じられない。

「せやな。ただ、薄~いで」

火乱も天井を一瞥し、ボソッと言う。薄いと言ったそれは天井板の厚さではなく。


「結界がどういったものなのか、火乱は知っているのですね?」

 娘は尋ねた。雪輪は『結界』について、たとえば『女人結界』みたいなものと理解していた。越えてはならない“境界線”程度の存在感である。でも火乱の話しを聞く限り、別種の何かであるらしい。


「神の力が及ぶ『実在の場』……いまいちピンときてへん顔やな。『縄張り』とでも言うとった方が、わかりやすいか?」

 猫は寝転んだ体勢で面倒くさそうに説明する。どちらにせよ、雪輪にとって全然わかりやすくはなかった。『実在の場』は意味が不明に過ぎ、逆に『縄張り』は親分子分の世界である。けれど結界に関して、化け猫はこれ以上解いてはくれなかった。


「無名の君の結界を、石垣や濠やとしたら、ここにあるんはペラッペラの布きれみたいな結界や。そんでも一休みする間の“虫除け”の蚊帳としては、十分使えるやろ」

 赤毛の猫がそう呟いた時、窓の向こうより羽ばたく音がする。一人と一匹は、意識がそちらへ向いた。


「あんれまぁ、火乱でねぇか!」

 窓辺に、夜と同じ色をした大きな鳥が舞い降りる。烏天狗の仙娥だった。

「おお、仙ちゃん?! 久しぶりやなぁ!」

 感激した声で火乱も飛び上がり、窓へ駆け寄る。仙娥と火乱は知り合いのようだった。


「あっははははは! 久しぶりだ久しぶりだー!」

「何や、むっちゃ大きゅうなっとるやんか、こぉいつぅ~!」

「あははは、やっだべな~! 火乱も貫禄出てぎでるでねぇかぁ!」

「痛い! 痛い! 負けへんでぇ!」

「こっちこそぉ!」

「このっ! このっ!」

「くぬ! くぬ!」

 何故かド突き合いを始めた鴉と猫。両者共に通常の倍以上大きいので、必然的に騒ぎも大きくなった。ドタンバタンと枕元で響く騒音に、狭霧が「うう……」とうなされている。


「おやめなさい。病人も寝ているのですから……」

 この音で、他の客に来られたら困るのだ。

 雪輪は階下の気配に注意を払う傍ら、動物の姿をしたこの世ならざる者達を嗜めた。

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