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宿探し

 居ても立ってもいられなかったのだろう。


「うち、泊まれる宿がねぇか、もういっぺん探してくる」

 そう言って、おちやは先刻駆け出して行った。川にほど近い古びた稲荷社の陰で、動けない狭霧と共に雪輪はおちやの帰りを待っていた。


 少し改善したと思われた宿の問題が、ここへ来て急にまた悪化したのである。

「どう見たって、三人のうち二人が病人だもんなぁ。仕方ねぇべなぁ……」

 木賃宿を追い払われた際、泣き出しそうな顔で、おちやがそう独り言を言っているのが聞こえた。


 一行は辿り着いた日光街道三番目の宿場町K宿で、悉く宿泊を断られる事態に陥っている。体調を崩した狭霧だけでも屋根のある場所で休ませたいのだが、事は思うように運ばない。


 しかもただ断られたり、追い返されるだけではなかった。

 雪輪に対する人々の反応が、奇妙な具合で過敏になっているのだ。

 悲鳴ならまだしも、姿を見せただけで失神されることすらあった。うかうか店にも入れない。「変な女がいる」と噂を聞きつけ見物に来た町の男達と、狭霧が喧嘩を始めそうになったりもした。


――――もしや『神通力』と、何か関係があるのでは?


 雪輪の胸に漠然と、そんな考えが浮かんでいた。

 ここへ来る街道で、女衒らしき男達に襲われた折。現れた膨大な数の九十九神といい、何か落ち着かない。帝都まで後少しというところへ辿り着いても、旅はすんなりと終わってくれそうになかった。


 K宿はM川を挟んで帝都側に位置するK町と、対岸のO町の二つに分かれている。やや特徴的な構造をした町だった。日光街道の他にも、複数の街道が集まる交通の要衝で、宿場町としての規模も大きい。十年ほど前には、大火でK町の多くの建物が焼けた。だが既に活気を取り戻し、鉄道馬車の開業も間近であるという。北のO町には芸者屋や旅籠が多く、南のK町は呉服屋など商店が多かった。


 もはや日は落ち、東の空には星と月とが浮かんでいる。その町の片隅に、雪輪たちはいる。


 そのとき、コツコツと固い音が聞こえ、雪輪は音のする方角へ視線を向けた。

宵闇に慣れた目が、近付いてくる人影を捉える。おちやではない。


 歩幅が狭く、歩き方が慎重だった。近付いてくる人物は手拭いを姉さん被りにし、小さな身体で三味線を背負い、杖をついている。瞽女ごぜだった。各地、各所の家の門前で三味線を弾き、歌を歌って金を稼ぐ盲目の旅芸人である。町のさざめきから離れた稲荷社へ彷徨い込んで来た女は、方向がわからなくなっているようだった。


 一時考えた後、雪輪は意を決して立ち上がり、佇む女へ静かに近付く。


「もし、瞽女ごぜの方」

 声をかけた。自分から他人に声をかけるのは久しぶりだった。雪輪の呼びかけに、女が振り返る。子供かと思うほど小さく、痩せていた。その分、背中の三味線がやたらと大きく見える。それでいて、杖を持つ手と顔の皺の深さは老人のようだった。月明かりが冷たく照らす目は白く、何も映していない。


「旅をしておいでですか?」

 雪輪が尋ねると、瞽女は前歯の一本欠けた口元を綻ばせて笑う。


「所用で、一人出ておりました。宿へ戻ろうと致しましたが、少し道に迷ったようで……ええ、お恥ずかしい。いつもでしたら、こんなことはございませんのに。しばらくぶりに、ここを訪ねたせいもありましょうか」


 澄んだ声ではない。でも女は、味のある良い声をしていた。背骨を丸め、明るい口調で言う。瞽女は数人で集団を作り、旅をするのが常だった。中でも、比較的目の見える者が道案内役となるのだけれど、この女は知っている宿場だからと、一人で外出したのかもしれない。


 世慣れた様子の女に「そうですか」と雪輪は答え

「わたくしも旅の者で、宿を探しているのです。しかしながら、訳有って宿探しに難儀しております」

そう切り出した。

「不躾とは存じますが、一晩だけ、そちらさまと宿をご一緒させては頂けませんか? お金は払います。夜露さえ多少凌げれば、それで良いのです」

無茶を承知で、頼んでみた。


 目の見えない瞽女ならば、雪輪の姿も見えない。旅から旅を続ける彼女達には、定宿もあるはず。瞽女と一緒なら、運が良ければ宿の側も大目に見てくれるかもしれないと思った。しかし


「美しいお声をなさっておりますな」

耳を澄ませる風に首を傾けていた瞽女は、ニコッと笑って口を開いた。


「人品卑しからぬお方とお察し致しますが……貴女様のようなお方をお連れするなど、わしには荷が重過ぎますわ」

 小さな女は弱った風に頭を横に振る。髪には白髪がだいぶ混じっていた。頭をふいに上げ、見えない目で雪輪を見つめた瞽女は

「ご無礼ながら、貴女様は、まことに人でございますか?」

露骨な恐怖というよりは、どこか不思議そうに問いかけてくる。幼女にも似た無邪気さで、雪輪の方が返答に窮した。


「わしはご覧の通りの盲目めくらでございます。貴女様のお姿は少しもわかりません。されど今こうしてお声を耳にしているだけで、手足の肌が粟立っております」

 杖を握る自らの手に手を重ね、瞽女は言う。女は微かに震えていた。


「何卒、お気を悪くなさらないでくだされまし。ただ何と申しましょうか、貴女様から、尋常ならざる気配を感じるのでございます。何ぞこう、まるで神仙の類を前にしたかの如き、恐ろしさでございます。目が見えぬ分、鋭くなる感覚もあるのです。宿で待っている者達も、きっと承知致しますまい」


 痩せた身体を縮ませ、瞽女の女は申し訳無さそうに何度も首を振っている。旅の盲者の賢さと独特の鋭さに、雪輪は舌を巻く思いで目を伏せた。


「わたくしは神仙などではありません。ですが、そうですね……仰るとおり、常人とは少々異なるのやもしれません」

 これ以上の無理強いは出来ない。

「無体を申しました。右を向いてください。そうです、そのまま石畳の上を真っ直ぐ進めば、通りへ戻れましょう」

 最初と同じだけの距離を保ち、雪輪は瞽女に道案内をする。


「恐れ入ります。光を知らぬ者の申す事。どうぞお許しください」

 頭を下げ、肩越しに振り向いて背中の三味線を揺らし、女は稲荷社を出て行った。女の後姿が見えなくなり、雪輪は長く薄い溜息を漏らす。自分は姿形だけではない、“何か”が違うようである。


「駄目か……」

 呟いて踵を返した雪輪は、社の影に居る弟の元へ戻った。音に気付いたか、寝ていた病人が目を覚ます。


「すみません、姉上」

 半分瞼を閉じたまま、身体を硬く丸めて狭霧が呟いた。持参していた薬を飲ませ、雪輪の上っ張りを着せてやっているものの、まだ寒がっている。姉が傍らに腰掛けると

「情けないなぁ……姉上達は平気なのに、男の僕が熱を出すなんて」

狭霧は赤い顔をし、虚ろな目で呟いていた。


「誰しも、具合が悪くなる時はあるものです」

 そう言って竹筒に入っていた水を飲ませた雪輪は、弟の額に自分の震える手を当てる。先程より熱が上がっているようだった。


「もうじき、おちやも戻って来るでしょう。しばらく、ここで待っていなさい」

 手拭を取り出し弟に告げて、雪輪は稲荷社を離れた。先ほど瞽女が去って行った方向とは、逆である。狭霧の病状の悪化を多少なりとも食い止めなければと、焦る気持ちに動かされていた。おちやが骨を折ってくれても、旅籠に入れる望みが薄いのはわかっている。


 雪輪は夜に紛れて街道沿いに並ぶ建物の裏を通り、宿場を分つ大沢橋という大きな橋の方へと向かった。表通りの方角では、女達が男を招いたり、きゃあきゃあじゃれ合う声が聞こえた。店先から温かな橙色の光が漏れ、賑やかな歌声や三味線の音が響いてくる。どれも前時代から続く、街道の景色と音。


 それらを横目に、雪輪がちょうど川沿いに建つ立派な店の裏を通りかかった時だった。


「あぶぶぶぶぶぶぶぶ……」


 変な音が聞こえ、娘はつい足が止まった。

 細い裏道を、一周見回してみる。道は遠くにも近くにも、人影はない。でも謎の音はまだ聞こえた。雪輪は急いでいる。急いでいるのにどうしても気になり、再度辺りをよく確認した。


 見つけたのは、店の裏手に並ぶ三つの大きな酒樽。そのうち一つの蓋が、地面に落ちていた。


「……?」

 足音を忍ばせ、樽に近付き覗き込む。酒の匂いが漂ってきた。酒の中から、あぶくがコポコポ湧いて出ている。酒樽の中に、何かいた。闇夜に沁み渡る三味線の音に混じって聞こえる変な声。


「ばばばばばばー、ぶぶぶぶぶぶー、べべべべべべー、べべべべべべー」


 たぶん、『たすけて』と言っている。


「……」

 雪輪は迷った。が。


 袖を捲り上げた娘は酒樽の中へ、細い手をざぶっと突っ込んだ。そして中に沈んでいた、重くて柔らかい物体を掴んで引き上げようとする。でもこれが、まるで栓のようにみっちり樽に納まっていて、びくともしなかった。雪輪は力持ちではない。どちらかと言えば、非力な方に分類される。それでも

「エイ……ッ!」

と小さな掛け声と引っ張ると、僅かに酒樽内部の水圧に変化が起きたのだろう。


「ブアッハアアアアア!」

 親父臭い声と共に飛沫が飛び、酒の匂いが一際強く辺りに撒き散らされた。騒々しい音を発して酒樽から出てきたのは

「……猫?」

雪輪も思わず眉を寄せてしまう。酒の雫を滴らせる巨大な赤毛の猫が、酒樽の縁に爪でしがみ付いていた。


「あー、死ぬとこやった。死なへんけど」

 おまけに人語で口をきいた。普通の猫ではない。鴉の仙娥に続いて、化猫にまで遭遇するとは思わなかった。無表情の裏側で吃驚している雪輪を、緑色の目でじろと見上げた化猫は


「いやー、ちょっと酒舐めたろか思ただけやったんやけどなぁ。足滑らせてもうてん。ねーちゃん、おおきに」

 渋い声で、ぺらぺら話しかけてくる。


「やっぱり中途半端な酒はあかんな。飲むなら御神酒にせぇへんと、悪酔いするわぁ……」

 更に何故か言葉が、上方方面の音によく似ている。声は無駄に男前だった。犬と見紛う大きさの猫は、地面へ降りると身体を震わせ、染み込んだ酒を振り払う。化猫と言えば主人を噛み殺して化けると言われ、非常に恐ろしい存在とされるが、どうもそういうおぞましさは感じられない。


「……どう致しまして」

 持っていた手拭で腕を拭きつつ、雪輪は少々千鳥足でうろついている猫へ一応答えた。


 ちらと酒樽を見ると、酒は半分程度に減ってしまっている。猫が飲んだ上、だいぶ零れてしまったのだろう。店は気の毒である。そうは言っても、減った分を増やしてやることも出来ないし、何より化猫の味が染みこんでいる酒。飲まない方が良さそうな気がした。


 とりあえず酒樽の蓋をし直すと

「もうお酒を盗んではなりませんよ」

赤毛の猫に忠告を残し、雪輪は踵を返して本来の目的である川の方へと向かった。酔っ払いの化猫と遊んでいる場合ではないのだ。冷やした手拭いを、狭霧に持って行ってやらなければならない。


 やっと川まで辿り着いた雪輪は、腰まで届く枯れ草をかき分けて土手を降り、何とか水に手が届くところを探し当てた。暗い川の水へ手を伸ばし、手拭を浸す。冬の水はまだ刺すように冷たかった。


 と、手拭を絞っている雪輪の背後で草をかき分ける音がして、さっきの赤毛の猫が草の間からニョッキリ顔を出す。


「あんなぁ、ねーちゃん。悪いんやけど、わいのこと拭いてくれへん? 臭くてかなわん」

 猫は雪輪の横に並び、変な事を言い出した。厄介なものに見込まれてしまったようである。緑色の目に見上げられ、雪輪は困惑した。


「今、急いでいるのです」

 そう言って断る素振りを見せても、赤毛の猫は酒臭い身体を摺り寄せてくる。

「そない言わんと頼むわ~。わい金槌やねん。その手拭でちょちょっと拭いてくれたら、それでええんや。恩は後でちゃーんと返すさかい。な?」


 全く引く気配がない。他の猫と違って、濡れる事自体は嫌いではないらしい。でも酒樽で溺れかけていた猫は、川に降りたくないようだった。池や水場くらい他に探せば他にもあるだろうに、そういう行動へ移る様子が見られない。長い尻尾をぴたりと雪輪に寄せてくる様は、巨大さ以外は完全にただの猫だった。


 もうここまで来たら、乗りかかった舟というやつ。


「……じっとしていなさい」

 猫に向き直った雪輪は濡らした手拭で、猫を拭いてやることにした。川の水で手拭を洗っては猫を拭いてやるという事を、二度三度繰り返す。大人しく座っている猫の耳の先から腹や尻尾まで、ごしごしこすってやる内に酒臭さは消えた。猫の毛は毛先が月明かりを反射し、金色に光る。


「これで良いですか?」

 一通り酒臭さが消えたのをたしかめて、青白い肌をした娘は猫に尋ねる。赤い化猫は満足そうに、白い髭を動かした。


「おー、さっぱりしたわ。おおきに」

 人間みたいに、ニマッと笑う。相手が化猫とはいえ、こんな親しげな態度を向けられたのは久しぶりで、雪輪は旅で初めて気持ちが僅かに和んだ。震える指を伸ばすと、猫の頭を撫で

「お酒はほどほどになさい」

諭して、ようやく川辺を離れた。


 再び草を掻き分け登りながら、すっかり時間を無駄にしてしまった事に気も漫ろだった。人のいない裏道を、小走りで稲荷社へ帰る。


「狭霧」

 呼びかけた。そこでは先ほどと同じく、狭霧が膝を抱えてぐったり蹲っていた。まだおちやも戻っていない。覗き込むと、狭霧は眠っていた。隣に座り狭霧を抱き起こして、濡らした手拭を額へ当ててやる。


「熱が上がっている……」

 凭れかかる弟の頭を抱き寄せ、胸の奥が重くなった。辺りの空気も昼のうちは暖かかったが、夜になり急速に冷え込んでいる。野宿をするには、まだ厳しい季節だった。そこへ

「何や、風邪ふうじゃかいな? こらアカンな」

またしても、あの渋い声が聞こえた。見れば赤毛の猫が足音もさせず、社の陰から現れた。最初に見たときも思ったが、非常にデカい。


「……お前、さっきから何故ついて来るの?」

 離れた場所に座り込み、自分たちをじとじと眺めてくる猫へ雪輪は尋ねた。狭霧を抱く腕の力が、無意識で少し強くなる。娘の言葉を聞くと


「『針の先』は、どないなもんや思うてな。様子見に来たんや。こう見えて、『式神』やさかい」

 役者になれそうな良い声で、猫は言った。それから改まって、娘の青白い顔を見上げる。


「”無名の君”の封印が、二つ解けたやろ」

 鼻をひくひくさせ、緑柱石と同じ色の目を光らせた。大きな猫は長い尻尾を振ってぱたんと地面を叩き、口を横に裂いて笑う。


「それよりあんたら、どこかに宿が取りたいねんな?」

 飄々と言い当ててみせた。雪輪は真っ黒な目を瞠って尋ねる。

「何故知っているのですか?」

「何故て、見たらわかるやろ」

人間の疑問へ簡単に答えた猫は、ふふんと鼻を鳴らし

「わいに任しとき」

自信たっぷりな様子で立ち上がった。


 そして牙の並んだ口を、かぱっと開けたかと思うと。

 袋の口の部分から表と裏を返すようにして、猫の裏と表がひっくり返り。次の瞬間、紬の着物に二重廻しを引っかけ山高帽を被った、品の良さそうな紳士が立っていた。

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