触れるべからず
本当は昼まで寝ていたかった。しかし友人達に「飯だ、起きろ」と叩き起こされた柾樹の睡眠時間は、片手で足りる程度となった。起き上ってからも腕だの足だの、あちこち痒い。蚤や南京虫に食いつかれたのだった。道具の隙間からごそごそ這い出し、琥珀色の髪をした青年は大きく伸びをする。
外は天気で、差し込む眩しい朝の光がそこここで跳ねていた。昨夜はあのまま座敷に転がり込み、古道具に囲まれて寝たため身体はガチガチに凝っている。明るくなった室内を改めて見回す柾樹の前には、想像以上に酷い景色が広がっていた。
中野の夫婦が普段から使っている土間と台所と、その横の十二畳だけはそれなりに片付いている。と言っても、座る場所が存在するという程度の片付き具合である。
そこから廊下を挟んだ先の、二つの大座敷が酷かった。畳も壁もぼろぼろで、そこかしこに雨漏りの痕がある。庭の向こうに見える四畳半の離れも、たぶん似たような状態だった。表通りに面した庭を覗くと、そこに建つ黒漆喰の土蔵は屋根に草が生え、壁の漆喰も所々剥がれている。池のある庭は草が生え放題で、一部が畑になっていた。
何より古道具屋の内部に集積された膨大な数の古道具が、ある意味で圧巻である。殆どの襖を取り払った座敷の天井からは、茶ばんだ提灯、傘、笠や蓑やザルが幾つも吊り下げられていた。その下には行李と長持が積まれている。隣には古びた茶釜と、何故か畑を耕す鍬や鋤が並んでいた。他にも火鉢や箪笥や行灯と一緒に、風呂敷で包まれた古い食器。埃まみれの外居や岡持ち。更に由来不明の鎧兜に謎の観音像まで、ありとあらゆる品が無秩序に床や畳を埋め尽くしていた。室内でこれだから、外の蔵の中などどうなっているかわからない。表門付近と玄関も、どこから持ってきたのかわからない大小の壷や樽が列を成していた。
どうしてここまでなったかと言えば、店主の善五郎が安く仕入れられれば何でも手に入れてくる。そして置く場所には事欠かないため、道具が無計画に増えていた。店のテーマは見失われて久しい。好きで在庫を抱え込んでいる中野の夫婦は、おそらく店の主に向いていなかった。どこかで何かを間違えたのだろう。
よくぞこれだけガラクタを集めたと思いながら、柾樹は寝ぼけ眼で台所へ降りようとした。
「お早うございます」
台所の戸の影にいた雪輪に声をかけられ、「うおあ」とのけぞる。娘は昨日と同じく色あせた灰色の着物で、長い髪は結った根元に巻きつけていた。結い直して多少すっきりしているとはいえ、相変わらず身体は震えて青みがかった白い顔をしている。明るい日差しを受けていても、娘の周囲だけ夜の沼みたいに陰気だった。
「目が覚めたら全部夢だった……ってなことになるんじゃねぇかと思ってたんだがな」
その後、座敷で箱膳に乗った朝飯を食いつつ、柾樹はぼそっと独り言をこぼす。横で同じく飯を食っていた長二郎が、箸を手に言った。
「それは僕も少し思ったな」
楽しそうに笑っている長二郎は今日も、使い込まれて擦り切れた仙台平の袴を履いている。上に着ている紺絣といい、全体的に質素というよりみすぼらしい。
「オレは夢じゃないと思っていたぞ……一睡もしてないからな」
「寝てないのかよ」
目の下にクマの出来ている千尋も、味噌汁をすすり隣から口を挟んだ。そこに突っ込む柾樹も目がしょぼしょぼしている。元気なのは長二郎だけのようだった。
「この飯、うまいなぁ」
長二郎は目を輝かせてパクついている。この朝飯は雪輪が作った。長二郎が起きてきて飯の支度をしようとしていると、どこかから雪輪が音も無く現れ、『御手伝いさせて頂いても宜しゅうございますか』と申し出て、台所仕事を引き継いだという。
「うまいもまずいもねぇだろ、こんなもん」
「いいや、人に作ってもらう飯は自分で作るよりうまい。絶対うまい」
柾樹の毒舌にも、長二郎は譲らない。長二郎はここしばらくの間、米など研いだこともない箱入り息子の千尋と二人暮しで、成り行き上ほぼ完全な炊事担当となっていただけに、尚更美味く感じるのかもしれなかった。余談だが彼らの使用している箱膳その他は、古道具屋の品物を勝手に持ち出して使っている。
「実は全部馬糞だったりしねぇだろうな」
ふと昔話を思い出し、箸で味噌汁を混ぜながら柾樹が嫌なことを言い出した。長二郎がぶくくと笑う。
「化かされてるって? それなら心配いらない、材料を揃えたのは僕だ」
「わかんねぇぞ。すりかえられてるかもしれねぇだろ」
「うはははは、お茶が馬の小便だったりしてな?」
「食う気が失せるからよせ。それにそんな言いよう、あの人にあんまりじゃないか……」
柾樹と長二郎のやり取りに、台所の方をちらと見て千尋が嗜めた。雪輪も引き戸の陰の板敷きで、一人飯を食っている。別に女中というわけでもないのだから、座敷に上がれと言ったのだけれど、娘は辞退したのだった。理由は知らない。
「それはそうと……あの娘さん、これからどうするんだ?」
「源爺も無理を言うよなぁ。しかも女に触れさせるなって言ったんだろう?」
長二郎と千尋が小声で柾樹に問い正す。銀縁眼鏡は茶碗を持ったまま「うーん」と唸った。
「まぁ、善五郎たちが帰るまでまだ時間はあるから、居るのは構わないがなぁ。たまに弥助が来るくらいで、寝る場所ならいくらでもあるし……他に行くあても無いんだろう?」
見た目だけなら武術家のように厳つい千尋が、箸で米粒を摘み上げのんびり言った。
『弥助』というのは小林弥助という中年男で、この古道具屋の女房、おのぶの末弟である。帝都で探偵(警察)をしており、柾樹たちとも知り合いだった。
「そういえば善さん達、いつ帰って来るんだ?」
何気なく長二郎が訊くと、千尋は頭を横に振る。
「知らん。この前来た手紙だと、ホンコンで面白いことになっているそうだ」
「へーえ、ホンコンてのはそんなに楽しい所なのか?」
「さあなぁ……大商人と一緒だから巴里まで大名行列で、結構なことなんだろ」
漬物を口へ放り込み、千尋は興味無さそうに答える。
中野善五郎とおのぶの夫婦は現在、花の都の巴里へ向かっている最中だった。このご時世に、何とも景気の良い話である。千尋によれば、中野夫婦の旅の同伴者であり提供者である大商人は、ピエールさんという仏蘭西人であるという。それを聞き、柾樹は眼鏡の上の眉をひそめた。
「何で善五郎は、そんな外国の金持ちと知り合いなんだよ?」
「善五郎が横浜に行ったときに知り合って、意気投合したんだと」
「あー、僕も前に聞いたな。善さんが、そいつの死んだ親父に似てたんだろ?」
「うん」
「……ピエールってのは仏蘭西人なんだよな?」
「しかもおのぶさんまで、死んだお袋様に生き写しだったんだろ?」
「うん」
「だから仏蘭西人なんだよな? 顔が東洋人なのかそいつは?」
「知らんよ、魂の親子だったんだろ。とにかくあちらさんは『親を早くに亡くしたから』とかで、善五郎が異国の旅がしてみたいと言ったら、それじゃあ自分が帰るついでに連れて行ってやる、金も世話も全部任せろと言って、そのままとんとん拍子に」
中野の老夫婦は玄界灘を渡ったのである。誘う方も凄いが、乗る方も乗る方だった。
「よくそれだけで、おのぶ婆さんまで行く気になったな」
瞬発力だけを頼りにした夫婦の生き様に、驚く気も失せてきた柾樹は真顔で指摘する。すると千尋も負けず劣らずの真顔で言った。
「それがな、ちょうど善五郎が横浜に行っていたとき、おのぶが白い狐の出てくる夢を見たらしい」
「狐?」
「そう。白い狐がギャンギャン鳴いてる夢だったんだと。これと全く同じ夢を善五郎も見ていてな。こりゃ何かの吉兆だろうってことで、二人ともすっかりその気になってだな」
「その狐は『馬鹿な真似はやめろ』と、言ってくれてたんじゃねぇのか?」
「オレに言うなよ」
柾樹と千尋がそんな話をしていた。そこへ
「失礼いたします」
娘がお茶を淹れにきたから、三人ともやたらと焦る。
彼らの話を聞いていたのか、いないのか。わからないが、雪輪はそ知らぬ顔でお茶を淹れていた。指先まで満遍なく震えているので、零すのではないかと見ている方がハラハラする。でも何かコツでもあるのか安定していて、一滴も零さない。柾樹の横の長火鉢に土瓶を置いて雪輪が下がると長二郎が肘で突付き、小声で問うた。
「何で震えてるんだ? そういう病気か」
「いや、病気とは違うらしい。子供の頃からなんだと」
「え、そうなのか? オレ、昨日あの子があんまりガタガタ震えているから掻巻貸したんだよ。断られたんだが……そうか、寒いとか病気じゃなかったのか……いらん世話だったかな?」
「お前は本当に親切な奴だな……」
自分の行動について悩む千尋に向け、長二郎は憐れみ半分、感心半分といった顔で言う。しかし、かく言う長二郎も昨夜、震え続ける娘にお湯を入れた桶と手拭を出してやったというから、この二人はさっさと寝てしまった柾樹より、ずっと気がきいていた。
狐の方へ脱線していた話題が雪輪のことへ戻ってきたので、箸を置いた柾樹は娘を呼ぶ。呼ばれた雪輪が戸の陰から現れた。
「そこに座れ」
言われたとおり雪輪は「はい」と畳に座したけれど、その場所は柾樹が命じた辺りより心持ち遠かった。黒々と切れ上がった目は斜め下を見つめていて、並ぶ書生三人を映そうとしない。こうして少し離れていても、雪輪の身体が小刻みに震えているのは見てとれた。
「お前、これからどうする?」
俯きがちな娘に向け、湯飲みを手に柾樹は大雑把な質問をする。少し間を置いて
「さあ?」
娘は愛想の欠片も無い口調で答えた。
「さあ? ってこたねぇだろ」
会話が早くも終わってしまい、琥珀の髪をした若造の顔が歪んだ。
「あ、あのー……いいですか?」
千尋が恐る恐るといった表情で、参加してきた。
「さっき柾樹に聞いたが……その、『女に触れられない』という掟は、一体どういうわけです?」
「あ、それは僕も聞きたかった」
雪輪の様子を伺いながら千尋が提示した疑問に、長二郎も嬉しそうな顔をする。柾樹も気になっていたわりに昨日はすっぽり聞きそびれたので、興味があった。禅寺の坊主ではあるまいし。何故女の雪輪が、女に触れてはならないのか。
でも青年三人の前で雪輪はまた黙してしまい、少し上げた視線も再び畳の方を向いてしまう。大して長い沈黙でもなかった。だが短気な柾樹がすぐに焦れて、口を開きそうになったとき
「……わたくしに触れられた女は皆、懐妊するというのでございます」
娘はゆっくり瞬きして、そう言った。
「か?」
「え?」
「は?」
座敷の三人はそれぞれ素っ頓狂な声を出す。
「正しくは、わたくしが手でお腹に触れた女が……で、ございます」
厳密に修正されるも、そこはさしたる問題ではないだろうと誰もが思った。
要するに、『触れただけで女を孕ませてしまうから、女に触れられない』と言いたいようである。色男の寝言と紛う言い草だった。それはともかく
「えー……ええと。そ、それは……具体的にどういう?」
下から覗き込むようにして尋ねる長二郎に促され、雪輪はまたゆっくり口を開いた。
「十年以上も前になりましょうか。わたくしがお腹に触れた女のうち、母とわたくしを除く村中の女が、一人残らず孕んだことがございました」
語る娘の黒い瞳は中空を見つめている。
「ひ……一人残らず?」
「言いすぎだろ。婆さんもか?」
「下は十一、上はたしか、七十二歳でございました」
「なぶッ?!」
という音と一緒に千尋がお茶を吹いた。「やめろよ!」と長二郎が飛びのく。
「偶然じゃねぇのか?」
胡散臭そうに柾樹が言うと、雪輪は能面より真っ白な顔で微かに頷いた。
「はい。偶然でございましょう。しかしながら、わたくしがお腹に触れた女が孕むという、この『偶然』が以来、百回以上も続いていたのでございます」
「ひゃ、百? それは少し……多いかもしれないな」
目を丸くして千尋が驚きの声を上げる。
「触れられて、懐妊しなかった人は? そういう人は一人もいなかったの?」
長二郎が尋ねると、娘は抑揚の少ない声で答えた。
「はい。あまりの百発百中ゆえ、『子授けの神通力』などと言われておりました」
それから細い肩を僅かに落として言う。
「お仕舞いには、わたくしと同席しただけで孕んだと申す者まで現れる有様……。このような事になって参りますと、わたくしも身の置き場がございません。隠者の方にご相談を申し上げましたところ、『もはや女人には近付かぬが宜しい』と申されました。わたくしもそのように存じます。それゆえ叶うことならば、女に近付かぬようにしたいと考え、堀田様にも我儘を申した次第なのでございます」
そう言って雪輪は浅く頭を下げた。柾樹もようやく納得した。こういう所以があったから、源右衛門は柾樹が古道具屋に転がり込む心積もりであると聞いて、雪輪を託したのだ。しかし、である。
「女に近付きたくねぇのは、まぁわかったけどよ。男もダメなのか?」
柾樹が訊くと、娘の目がすいと動いた。
「人目を憚るのが一番でございますゆえ」
静かな声で、短く答える。
たしかに、女だけ避けながら暮らすというのは無理があった。いっそ男女問わず他者との接触を避けてしまう方が、手っ取り早いし確実だと書生達にも思われる。千尋が「なるほどなぁ」と頷き、長二郎は黙って腕を組んでいた。その横で何やら考えていた柾樹は湯呑みを置き、思いついた顔で言う。
「そうだ、お前もうそれ商売にしたらど」
「嫌でございます」
明るく言いかけた提案は、全部終わらないうちに物凄い速さで拒否された。今までで最速といって良い速さだったので書生たちは揃ってぽかんとしてしまう。
「あ、あのなぁ! 嫌とか良いとか言ってられる立場か!?」
「今の話を聞いた上で、商売だの言い出す君も、中々トンチンカンだけどな?」
怒鳴る柾樹を横目に、湯呑みを口に運んで長二郎が呟いた。そこは無視して柾樹は自論を繰り広げる。
「触って死ぬとか病気になるならともかく、赤ん坊が生まれるなら、めでたくて結構なことだろうがよ。子宝に恵まれねぇ奴なんざ、いくらでもいるだろ!? ケチケチしないでやってやりゃあいいじゃねぇか。子供が欲しい奴は授かって、お前は食っていける金を稼げる。それの何が嫌なんだよ?」
とても良い考えだと思っているので食い下がるものの
「嫌と言ったら嫌でございます」
雪輪は取りつく島もない。こうなると意地っ張りな銀縁眼鏡は、どうしても引けなくなってくる。尚もしつこく口論を続けようとした、そのとき。
「おうい、若旦那!」
裏口の方から、元気のいい男の声が聞こえてきた。