追いかけてきた娘
浅野は狭霧と雪輪を渡場まで案内し、小さな舟を紹介してくれた。おかげで対岸まで運んでもらえる事となった。渡し賃は五厘だった。
浅野が立ち去った後、賑やかな川辺で姉弟は乗る舟が来るのを待っていた。川面を吹き抜ける乾燥した北風と、人々の威勢の良い声や音が周囲を包む。雪輪は積まれた荷物の横に腰掛けて、吸い込まれそうなほど青い空を見上げていた。
――――身売りは難しそうだ。
そんなことを考えていた。
帝都へ行き、食っていく手段がどうしても何も得られなかった場合、身売りしようかと考えていたのだ。芸妓や女郎が無理なら、店の下働きや雑用で構わない。しかし先程の浅野の忠告から勘案すると、それはかなり危ない行為かもしれなかった。
考えてみれば、女やそれを扱う店にとって『子授けの神通力』がある雪輪は、疫病神も同然である。女が妊娠すれば、商品にならなくなってしまう。『噂』を知られれば、それだけで敬遠されそうだった。廓やそういった世界で生きる人々は恐れを知らぬ亡八などと呼ばれる反面、非常に迷信深い場合も多いのだ。
だが、そうは言っても女と一切関わらずに帝都まで行き、普通に生活するというのは無理がある。女との接触はある程度、諦めるより他無いだろうと思った。
帝都で女中奉公が出来れば上等だけれど、話しを聞いてくれる口入れ屋があるだろうか? 女郎屋も神通力の事を伏せれば、どうにかなるだろうか? でも……などと雪輪が考えていたとき。
「あ! いた……っ! 若! ひいさま……!」
馴染んだ呼ばれ方に、狭霧と顔を見合わせた。振り仰ぐと土手の上からこちらの方へ、真っ直ぐ駆け下りてくる娘がいる。
「良かった、追いついた!」
枯草を蹴散らし駆け寄って来たのは、手甲脚絆に墨黒と茶の縞絣。杖と笠を持ち、解れた髪を天神髷に結った、円い日焼け顔だった。中肉中背の娘は休んでいた湾凪家の姉弟の前で急停止し、息を弾ませている。
「……おちや?」
雪輪は見間違えかと思った。この娘は『横山ちや』といい、故郷の里の人間だった。
「何しに来た?! 僕らを連れ戻そうとしても、そうはいかないぞ!」
狭霧が背中で雪輪を庇って言う。敵意むき出しで、戦う態勢になっていた。けれどおちやは杖と笠を手に、愛嬌のある目をきょろっと動かして首を傾げる。
「へ……? つ、連れ戻す? そんなことするはずねぇべ」
「じゃあ何しに来た?」
寸暇も与えず問い返す狭霧の刺々しい応対ぶりに、多少当惑した表情を浮かべた田舎娘だったが
「な、何って、その、ええと……あのぅ……う、うちも帝都へ連れてってくださいましッ!」
言うなり、ガバッと頭を下げた。
「……は?」
何の事やら。唐突な申し出に、雪輪と狭霧は再び目配せし合う。
「里の追手じゃないのか……?」
まだ警戒を緩めない狭霧の問いへ、おちやは吃驚した顔を上げた。首を横にぶんぶん振る。
「お、追手?! うちが?! 違う違う! そりゃたしかに、ひいさままでいなくなって里は大騒ぎになってたけんど、うちには関係ねぇよ!」
大慌てで主張する。主張の声に、嘘の響きは感じられなかった。第一、雪輪を連れ戻しに来たとすれば人選がおかしい。
ではこの娘は何をするために、こんな所まで湾凪家の姉弟を追ってきたのか。訝る二人を前に、童顔の日焼け顔がおずおずと語りだした。
「じ、実はさ、うちも前から、里を出たかったんだ。で、でも……怖くてできなくて。女の一人旅は何かと危ねぇだろ? 追い剥ぎだって出るし、夜道は真っ暗で怖いし……それに帝都に知り合いなんて一人もいねぇから、心細くて……」
そこまでのおちやの言葉を聞き、呆れきった表情を浮かべて狭霧が返す。
「知るかそんなの。ここまで来たなら、もう一人で行けるだろう」
冷たく言い放たれた途端、娘のぼさぼさの眉が情けなく下がった。
「わ、若ぁ!」
「おちや」
若様へ食い下がろうとした娘に、今度は雪輪が声をかける。
「里を出たかったのならば、もう叶っているではありませんか。帝都まで行かずとも、良いのでは?」
疑問を呈す。狭霧も腕を組み、大きく頷いた。
「姉上の言う通りだ。この宿場で働き口でも何でも、探せば良いじゃないか」
狭霧は少年の気配が残る綺麗な顔で剣呑な物言いをするから、余計に厳しく聞こえる。言われるおちやは眉だけでなく、口の角まで下がってしまった。
「な、何だよそんな言い草……! 少しくらい同情してくれたっていいでねぇか!」
「どの口で言ってるんだ」
おちやの反撃にも、狭霧は間髪入れずやり返す。
「今までお前だって、僕達のことを毛嫌いしていたじゃないか。里の連中と、さんざん陰口を叩いていただろう? こちらが気付いていないとでも思っていたのか? こんな時だけ知り合いの顔をされても、迷惑というものだ。一人でこの先の旅が出来ないなら、諦めて里へ帰れ」
何もかもきっぱり言い切っている。そういう狭霧を横目で見て、雪輪は複雑だった。弟の言動は素朴ながらも正当と言える。だが田舎娘を相手にムキになるなど、旧旗本の男子としては褒められない。
「そ、そんなこと、今言わなくったって……」
やり込められたおちやは杖を握り締め、ぶちぶち文句を垂れていた。今言わなくて、いつ言うのか。狭霧も狭霧だが、おちやもおちやだった。同郷の娘の様子を伺っていた雪輪は、ちょっと鎌を掛けてみる。
「もしかして……縁談ですか?」
「え?」
「それが里を出た理由ですか、おちや?」
雪輪からの問いかけで、貨物に囲まれ佇んでいたおちやは悲しそうな顔になる。
「はい……」
こくんと小さく頷いた。
「縁談? おちやが?」
「この前、平蔵に聞きました」
僅かに驚きを覗かせた狭霧へ、雪輪は答えてやる。
とてもそうは見えないけれど、おちやは雪輪より一つ年上である。
そして雪輪がかつて『子授けの祈祷』をした娘でもあった。当時十一歳だったおちやは、家の都合で十三歳と年齢を偽り、隣村へ嫁いでいる。御室の里の人間が、“外”の人間と婚姻関係を結ぶようになったのは、御一新で世が改まって以降の事だった。
その際おちやの両親に頼まれて、雪輪は『子授け』を行ったのである。連れて来られたあどけない少女を見て、雪輪の父母は少し辛そうな目をしていた。
こうして嫁いですぐ、おちやは孕んで赤ん坊を産んだ。しかし、死産だった。母体が若過ぎたのか、おちや自身も産後に生死の境を彷徨ったという。それ以降は子供も出来ず、十六歳の時に実家へ帰ってきた。嫁ぎ先では随分辛い目にもあったようだとの話しは、雪輪の耳にも少しだけ届いている。里へ戻って数年経過しているとはいえ、今もおちやが縁談や婚姻に対して、明るい印象を持っていないのは見て取れた。
「出来るだけ、里や実家から離れたかったということですか?」
雪輪が静かに尋ねると、おちやの手は自分の縞絣の袂をぎゅっと握る。
「それもある……それもあるけど、それだけじゃねぇよ」
力強く言って顔を上げた娘は
「ひいさま。うち、歌人になりてぇんだ!」
前に踏み出し、言い切った。
『歌人』。
その名の通り、歌を詠む人のことである。どこから突っ込みを入れればいいのかわからず、船着場で三人ともが固まって
「……何故、歌人に?」
ようやく雪輪が、意味を成しそうな質問を口にしたものの
「素的だから!」
おちやから出てきた理由は、どうしようもないほど単純だった。
たしかに歌人とは呼び名だけでも、知的で華やかで優雅である。女流歌人として世に名を馳せている女性も、実在している。芸一つで身を立て生きていく芸妓と同じく、女達の羨望の的だった。おちやが想像だけで憧れてしまうのも、(どうにか)わからなくはない。
「帝都には、たっくさん歌塾があるんだべ? 前の嫁ぎ先で、おっ母さん達が話しているのを聞いたんだ。だから帝都でどこかの歌塾に入って、歌人になりてぇんだ! うちも稼げるようになって、お師匠さんと呼ばれるようになりてぇんだ! でもうちみてぇな田舎女が、簡単に歌塾に入れて頂けるとは思えねぇ。その分、ひいさま達ならお士族様で、元はお旗本のお家柄だ。取り次いで頂けば、もしかしたらって……」
「無理に決まってるだろそんなの……」
怒る気も失われた顔で、狭霧が力なく呟く。
「お、お願いします! せめて道行だけでもお供させて下せぇまし! あ、路銀ならホラ、この通り!」
必死に食い下がり、おちやは胴体に巻いた財布を鳴らして見せた。多少の蓄えはあるのだろう。
歌塾は上流階級だけのものではない。下町の娘にも門戸を開いている塾があるとは、聞いたことがある。だが月謝はどうするつもりなのか。住み込みで働きながら習うという手もあるだろうけれど、どこの馬の骨とも知れない娘を、易々と弟子入りさせてくれるとは考えにくい。雪輪は考え込むこと、しばし。
「……おちや。正直なところ、九分九厘。わたくし達は、歌塾に口利きをしてやることは出来ないでしょう。それでも、行きたいのですか?」
望みが薄いことを告げた上で、そう尋ねた。完全に拒否されているわけではないと気付き、娘の色黒の顔が輝く。
「は、はい! お願いします! うち、二度と里には帰らねぇって覚悟で出てきたんだ! ダメって言われても、ついていくつもりだ!」
頭を何度も下げ、おちやは殆ど駄々っ子みたいなことを言い始めた。狭霧が腰を屈めて雪輪の耳元に囁く。
「姉上、連れて行くつもりですか? 僕はまだ信用出来ません」
おちやを疑う弟の言葉に、雪輪も小声で答えた。
「二人より三人の方が、何かと利は多いでしょう。宿などへ入るのも、狭霧とおちやを介せば、少しは容易になるやもしれません」
不慣れな旅路。寄せ集めでも人数は多い方が良い。それに現在最大の優先事項は、道中の安全と宿の確保だった。帝都へ到着しても、宿探しは必要になるかもしれないのだ。それは狭霧も考えていたようである。
ふうっと息を吐いた後
「……わかった」
若干渋りつつも、同行を認めた。おちやは両手を握り締めて飛び上がる。
「やった! あー良かった!」
「ただし、妙な真似をしたらただではおかないぞ」
「妙な真似? しねぇさ、そったら事!」
狭霧と言い合っているおちやを眺め、雪輪は少々気になっていたことを口にした。
「ところでおちや。字は書けるのですか?」
「うん! 『いろは』は覚えたよ!」
子供っぽい満面の笑みで娘は答える。素養として、だいぶ心もとない。裸一貫で始められる女郎の方が、まだ見込みがありそうだった。
「雅号ももう決めてあるんだ。『夕日』っていうの! きれいだろ?」
「そう……」
本人はもう歌人になった気でいる様子である。
お嫁に行った十一歳の時のまま。
時間が止まっているようなおちやに、雪輪は一先ず頷いてやった。




