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Encounter

 街道を歩き始めて四日目。雪輪と狭霧は利根川にぶつかった。

 利根川は坂東太郎の名で知られ、暴れ川と名高い。川幅の広さに加えて都市防衛のため、この川に橋が架けられることはなかった。新しい世となった今も橋は無く、人々は船で川を渡る。帝都を中心に拡がっている鉄道の敷設も、まだここまでは来ていなかった。川を挟んで手前がN宿、対岸には昔関所が置かれたK宿がある。


 そのN宿で、雪輪と狭霧は舟宿と勘違いしてとある店へ入ってしまった。入ってから、「何かおかしいな?」と感じ取ったのである。それもそのはずで、そこは飯盛り旅籠だった。実態として女郎屋に近い。


――――あ、妓楼?


 そう気が付くまで時間がかかった。と言っても数秒だろう。でも店に一歩入った所で突っ立っていた二人の様は、いかにも金も用事も無さそうだったからに違いない。店の小女が姉弟を見とめ、奥へ声をかけた。呼ばれて出てきたのは、相撲取りかと思うほどの大男。


「うちに何か用かい?」

 男は太い二人を見下ろし言った。そうして狭霧の後ろにいる雪輪を覗き見ると

「おうおう、おめぇ労咳か何かじゃねぇのか?! 縁起でもねぇ!」

耳が割れそうな大声で怒鳴る。怒鳴るや大男は二人を摘まみ出しにかかった。狭霧は手荒に外へ押し出され、雪輪の方も引っ張り出そうと男が細い腕を乱暴に掴んだ。弾みで、雪輪は被っていた手拭が落ちてしまう。隠れていた黒檀より黒い目を見た瞬間、大男は「ウッ」と息をのみ雪輪を振り払った。


「姉上!」

 店先で突き飛ばされ転んだ姉を、狭霧が助け起こした。男は怯えた目で後ずさり、必死に手を拭っている。何の騒ぎかと、周囲へ人が寄ってきた。それでいて、一定以上近付いては来ない。大男もすぐ店の中へ戻ってしまった。


 ひそひそ囁き合い遠巻きに様子を伺う人垣。

 その間から、みすぼらしい白髪の男が顔を出した。

「あっ」

 男は雪輪を見て鋭い声を上げた。よろめきながら人を掻き分け、近付いてくる。


「まさか……湾凪様では……!?」

 痩せた男はひたすら吃驚した様子で、声もよく出ていなかった。老人と呼ぶには早そうだが、油っ気のない髪は濁った灰色でチョン髷に結っている。もう無理だろうというくらい着古した木綿の単衣と、草鞋。腰には徳利がぶらさがっていた。身体が少し酒臭い。


「そうですが……」

 小さな声で雪輪は答え、再び手拭いを被り立ち上がった。青白い顔で震え続ける娘を眼前にして、避けようともしないこの人物は誰だったろうと考える。無言で何度も頷いていた男は、やっと

「ああ、やはり」

吐息のような声を漏らした。


「いつぞやの、『隠者』でございます……覚えておいででしょうか?」

 耳打ちされた単語を聞き、今度は雪輪が目を瞠った。隠者はもう一度深く頷く。

「さ、こちらへ……」

 素早く小声で言い、姉弟を素早く導いて衆目の前から退散させた。

 そして細い道を何度も右へ左へ曲がり、人目に付きにくい建物の陰へ誘う。そこは頭上にぽっかり青空の見える、材木置き場だった。辿り着くと男は改めて頭を下げる。


「お懐かしゅうございますな、雪輪様」

 しゃがれ声で語りかけてきた。やや前歯の主張が強い黒ずんだ顔が、極微かに笑う。髭にも白髪が混じっていた。


「その節は……」

 雪輪は細かく震える身体を折り曲げ、ゆっくり頭を下げる。

「姉上、こちらの方を御存じなのですか?」

 両者を見て、狭霧が尋ねた。


「浅野様と申されます。以前わたくしの『神通力』について、ご助言を頂戴したお方です」

「そんな大層なものでは……」

 雪輪が紹介すると、『隠者』の浅野はかぶりを振った。


「私は昔、帝都で儒者の真似事などしていたのでございますよ。心学講舎で、ささやかな講話を開きました折、湾凪のお殿様とお近付きになるご縁を頂いたのです。懐かしい話です。後年、湾凪様の旧知行地に近い宿場でお会いした時も、少しばかりお話し相手の役をつとめました」

 ボロ布寸前の服装とは不似合いな、物静かな口調で語る。静かでありつつ、気配は弱々しくもなければ柔和でもなかった。


「心学の先生でいらしたのですか」

「古い話です」

 狭霧の問いに、浅野は微苦笑で答える。


 浅野という人物の経歴は、雪輪も詳しく知らない。ただ父が『先生』と呼んでいたのは覚えている。浅野は父の招きで、御室の里を訪れていた。父が雪輪に『神通力』を使う事をやめさせる少し前だった。当時の彼はここまでの格好ではなかったと、雪輪は記憶している。湾凪の家でこれまで色々あったように、浅野も色々あったのだろうと思った。


「ご嫡男の狭霧様でございますか。立ち姿が父君と瓜二つになられましたな」

 狭霧を眺め、隠者は目元に小さな笑い皺を作る。


「私は恥ずかしながら、御一新の風雲の中で店の身代も何もかも潰しました。人並みの世渡りも出来ず、盛り返すほどの器量もなかった。今ではご覧の通りで、一人でそちこち歩き回っております。儒者が隠者に化けたわけですが、まぁ乞食こいじきさんと呼ばれる方が、性に合うくらいで呑気にやっております」

 世を捨てて久しい男は滑らかに語った。見掛けより、あまり悲壮感が無い。


「それにしても……お二人はどういったご事情でこちらへ?」

 声を落とした白髪の男に尋ねられ

「僕らは帝都へ行くのです」

「帝都へ?」

 はきはきと明確に示した狭霧の返答を、浅野が同じ言葉で聞き返す。


「何か?」

「いえ……御母堂は如何なされました?」

「亡くなりました」

「えっ」

 続いた湾凪家の嫡男の言を聞いた男の驚き様は、表面上それほど大きくなかった。しかし先ほど雪輪たちを見つけたときとは、別種の衝撃を受けている風にも見えた。


「父も他界して随分経ちます。加えて里人と悶着もあったものですから。そこで、もうあの土地を離れることにしたのです」

 狭霧が告げると、浅野は無精髭の生えた自らの顎を撫でて黙り込む。それがやがて

「雪輪様……立ち入ったことを伺いますが、その後『神通力』は?」

視線を雪輪へ向け、問いかけた。


「すでに祈祷は行っておりません。しかしながら故郷の里では『神通力』で、少し難儀も致しました」

 真昼の空の下でも青白い顔の娘は、ぽつぽつ述べる。「そうでしたか」と、浅野は俯いた。


「こういった話しは、人の口から口へ渡るたびに変容し、時に手に負えなくなるもの。お父君も、『故郷の里では、何もかも姫に結び付けられてしまう』と仰せでございました」

 腕を組み、空を見た男は眩しそうに眉をしかめていた。


「里を出れば、迷信に振り回されずにすむと思ったのですが……」

「それは、どうでございましょうな」

 狭霧の希望的な憶測にも、白髪の男は表情を緩めず疑問を呈する。


「湾凪様の『子授けの神通力』は、一時はこの宿場の辺りまで轟いておりました。時と共に人の口にも上らなくなったとはいえ……噂とは、些細な切欠で息を吹き返したりもするものです」

 酒焼けしたがらがらな声で、浅野は淡泊に言った。


「それに、どれもあまりめでたい話ではございませんでしたからな」

「と、申されますと?」

 零れた浅野の発言を聞き留め、雪輪が尋ねる。男はどことなく、気まずそうな表情を覘かせた。

「ご存知ありませなんだか……ご両親は伏せておられたのでしょうか」

 呟いて短く目を閉じた後、組んでいた腕を解くと、若い旅人達を見る。


「私はかつてお二人の父君が、如何わしい鉱山開発の話しに引き込まれたのをお止めすることも、後にご苦労なさった時にお救いすることも出来ませんでした。ご葬儀にも伺えず、十年来ご挨拶にも伺わず、御無礼をお許し下さい。今もこんな有様で大したお役には立てそうにもございませんが、せめてこれだけはお伝え致しましょう」

 そう言って、世捨て人は黒ずんだ顔でまた少し微笑んだ。だが微笑はすぐに掻き消える。


「子授けの神通力ですが……これにより、『授かったのは鬼子であった』。『孕んだ女は物狂いになる』という話が、まことに多うございましてな」

 今までより更に声を落として物語る。男は表情も暗く険しくなっていた。

「何ですかそれは?」

 狭霧が綺麗な眉を顰める。浅野はそこにすぐ答えない。


「まぁ……また、こんな話しもございました。ある所に子の無い新造がおりましてな。『子授けの神通力』を人伝に聞き、夫と遥々、山奥のとある里へ祈祷をして頂こうと向かいました。しかしご祈祷を終え喜んで帰る道中、悪党に襲われました。夫は殺され、新造は手籠めにされました。命だけは助かり家へ帰った妻は十月十日後、父親のわからぬ子を産んだと……」

 そこまで滔々と、感情少なく語った。不運な妻は後に儚くなり、生まれた子も間もなく死んだというのである。


「これは、ほんの一部に過ぎません。他にも似た話が、現れては消えました。さりとて人の集まる所に『噂』はつき物。元となる小さな話に、尾鰭や背鰭がついたと考えておりました。しかし私が調べただけでも、十のうち七は真だったのです」

 当時これらの話しを耳にしていた浅野は、『噂』の大元が知己の娘と知り、驚いたという。


「どういった話しか、もしお気に掛かるようでしたら宿場の者にお聞きなされませ。十年ほど前のことゆえ、まだ何かしら覚えている者もおりましょう」

 痩せた男はそう言った。


「そういえば、お父上は日記をつけていらっしゃいましたな。いつ、どこの誰に子授けの祈祷をしたか、書いていらしたのです。私も拝見しましたが、お二人はご存じでしょうか?」

 昔のことが思い出されてきたようで浅野が尋ねると、狭霧は少し首を傾げるだけだったが、雪輪は頷いた。


「存じております。父の帳面には、日付と名前が書かれておりました」

「名前に、バツ印がついていたのでは?」

「はい、全て付いておりました」

「悪い報せがあったときには、その印をつけておられたのですよ」

 みすぼらしい隠者となった儒者は、静かに言う。そして抛雪に招かれた浅野は、雪輪と周辺環境を目の当たりにし、『もはや女人には近付かぬが宜しい』と助言したのだと語った。


「わたくしも……子授けの祈祷で『授かった』との報せまでは、聞いておりました。でも生まれた子や親がどうなったかまでは、存じませんでした」

 娘は光まで吸い込みそうなほど漆黒の目で、隠者を見つめる。

「やはり伏せておられたのでしょうな。経緯や仔細までは、もうわかりませんが」

 そう言って、浅野は俯いた。その場の誰もが次の言葉に迷い、黙り込む。


 雪輪だけでなく狭霧も、子授けの祈祷を受けた親子はどこかで達者に暮らしていると思っていた。けれど、そうではなかったとしてもおかしくはないのである。経緯や経過はどうであれ、子授けの神通力と祈祷を経て人々は子を授かったのは違いない。だが父の帳面の記述から察するに、軒並み何らかの悪報が続いたことになる。


「これでは『子授けの神通力』は……何やら不幸の種のようでございますね」

 故郷の里の子供らが全滅したことも含めて、雪輪にはますますそう思えた。


「あの頃はまだ動乱の続きで人心荒廃し、命が羽より軽い時世でした。それに親子の不幸など、世に星の数ほどあるもの。ですが、もし再び周辺で何か起これば、貴女様の『神通力』が引き合いに出される事も考えられましょう」

 気遣うような眼差しで真っ白な娘を見、浅野が進言する。


「姉はこれからも、人前にはあまり出ない方が良いとお考えですか?」

 佇む隠者へ尋ねる狭霧の表情には、暗い影が差していた。

「いらぬ心配で終わるやもしれません。そうは申しましても、用心に越したことはございますまい。特に『女』は、まだしばしの間、出来るだけ避けた方が宜しいでしょう。噂が一体どこまで広まったやも、わかりませぬからな」

 浅野の忠告に、二人は口を噤む。


「つまらぬ話しでございました。これだけでは申し訳ない。私が渡し舟をご案内致しましょう。知り合いに船頭がいるのです」

 隠者を自称する男は申し出て、湾凪家の姉弟を船着場の方へ導いてくれた。


「さすがに帝都まで行けば噂も追いつけませんよ、姉上」

 浅野に続いて川へと向かう細い道すがら、狭霧が小声で姉を励ます。

「ええ……」

 弟へ返した雪輪の声は、殆ど音になっていなかった。

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