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天狗雲竜坊

 里を離れた雪輪と狭霧は山二つと峠を越え、日光街道へ出た。そこから最も近いH宿に着いた頃には、辺りは宵闇に包まれはじめていた。


 御一新で宿場制度は消えても、町は残る。H宿は街道の終着地として、幕府の庇護も厚かった。町の規模は今も大きい。山奥の小集落からやって来た姉弟は、人の数といい街道に並ぶ家々の大きさといい、驚かされることばかりだった。


 しかし宿場で何に一番驚いたと言えば、泊まれる宿がないという一事だった。原因は簡単で、雪輪である。


 青白い顔に異様につり上がった黒い目をし、身体が細かく震え続ける雪輪は、いくら笠と上っ張りで姿を隠していても怪しまれた。そして最初は愛想良く出てきた旅籠の者も、雪輪を見るなりガラリと態度が変わる。ある人はあからさまに嫌な顔をし、ある人は門前払いをし、ある人は顔面蒼白となった。


「姉さん、どこか悪いんだろう? うちは医者じゃねぇんだよ」

「他当たっとくれな。ウチは無理だ。無理ったら無理!」

「わ、悪く思うな! 悪く思うな! 勘弁してくれぇ!」


 反応は数種あったが、結論としては泊めてもらえなかった。どうにか宿場の端にあった木賃宿へ入り込むことが出来たものの、値段は随分高かった。でも他に選択肢は無く、値切りの交渉も知らない二人は言われるまま金を払い、一晩の宿を得たのである。のっけからこの有様だった。


――――これでは、路銀が足りなくなる。


 翌日、H宿を発って南下する道中。街道に行儀よく並ぶ道祖神横の石へ腰掛け、雪輪は考え事に耽っていた。奥州街道との分岐点まで、あと少しという地点。狭霧は一服茶屋へ、団子を買いに行っていた。


 雪輪が思案していたのは、増えてしまった心配の種について。

 頭上に広がる、坂東らしい突き抜けた冬晴とは裏腹な心模様だった。


 日光街道は昔でも、男の足なら帝都まで四、五日の距離。東海道や中山道ほど長距離ではない。だがこの調子だと、路銀が途中で底をついてしまいかねなかった。雪輪の考えとしては、旅費は最低限に抑え、大叔父の家へ行った際に渡す金を残しておきたかったのだ。金が有ると無いとでは、先方の態度も少しは違ってくるだろう。その計画が覚束なくなってきた。さりとて追剥ぎの危険や、狭霧があまり身体が丈夫ではないことも鑑みれば、野宿は避けたい。


――――どうしたものか。


 傍からは微塵も困っていると見えない無表情の下で、雪輪は困っていた。


 その時である。

 何かおかしな『音』が聞こえた気がして、娘は真っ白な顔を上げた。周りに人もいないので笠を外すと、冷たく清々しい風が長い黒髪を梳いていく。


「……?」

 周囲に見えるのは透き通った蒼穹と、青黒い山並み。街道の杉並木に、田んぼや畑。まだ春には早い雑木林。掘っ建て小屋に近い茶屋から湯気は上っているが、辺りに人影は無い。


「……なに?」

 意識せず、小さな声が漏れた。冷たい風に撫でられている雪輪には、わやわやと喋り合う声らしきものが聞こえる。何を言っているのかはわからない。声はだんだん近付いて来ていた。一体どこで誰が喋っているのかと考えて、ハタと気が付き横を見る。そこにいるのは、石で出来た道祖神。


 道祖神とは近隣の村と旅人達の守り神であり、昔から各地各所で祀られてきた石像だった。『賽の神』という呼び名もあり、主に居住地と外界の境界に安置されている。ただの丸い石や、文字が彫られただけのものをはじめ、石仏や男女一体のものなど様々な種類と形があった。


「これ……?」

 顔色の悪い娘は道祖神を見つめ、微かな声を漏らす。


 何者かの声は、近付いていたのではなかった。音源はすぐ隣で、大きくなっていただけなのだ。街道に沿って並ぶ石の神々が、空に向かってがやがやと喋っていた。そうしてお喋りに忙しそうだった石像の一体が、ぐりんと雪輪の方を向き口をきいた。


「お久しゅうごぜぇます、湾凪の姫様」

 鬼の顔をした岩が挨拶する。吃驚しても表情が殆ど変わらない雪輪は、反応もしないで止まっていた。こういう時はどうすべきなのか、考えることしばし。


 ちりん……――――


 と、彼方より可憐なおりんの音が聞こえる。

 振り返れば道の北から、ゆらりゆらりと大きく身体を揺らし、背の高い影が歩いてくるのが見えた。大きな人影は微かなお鈴の音と共にやって来て、雪輪の前で止まる。


 背中まで覆う深緑色の美しい頭巾を目深に被り、黄金色の篠懸すずかけを着ていた。足には一本歯の高下駄を履いている。山伏風の出で立ちで、肩幅の広さといい胸の厚さといい、堂々たる佇まいだった。だが堂々とそこに立っているのに、何故か薄っぺらい印象を受ける。紙風船か、張り子の人形か。白い影が動いているみたいだと雪輪は思った。


「山を離れるのだな」

「え?」

 道の果てを見つめた山伏が言い、雪輪は黒い目を瞠る。

「おぬしらとの縁も、これまでか」

 男は美しい声で朗々と語りかけてくる。


「何者ですか……?」

 戸惑いながら娘が尋ねると

「わしは、『雲竜うんりゅう』と申す者」

名乗り振り向いた頭巾の下から、男の顔が覗いた。


 人形浄瑠璃で使われる武者頭の如く、凛々しい顔立ちをしている。瞬きする瞼の下の目は鈍い金色に光り、白目の部分が無かった。口の中はお歯黒を塗りたくったより真っ黒になっている。


――――また、幻……?


 半ば唖然と山伏を見上げ、雪輪はそう思った。しかし


夢幻ゆめまぼろしと思うておるな?」

 まるで心を聞き取ったように、雲竜と名乗った大男の白い顔が微笑する。

「それは心得違いというものよ。おぬし達の有る『映し世』こそ、夢幻の如きもの。『常世』の影の如きもの」

高下駄の上で腕を組み、男はぐんにゃり首を傾げて語りかけてきた。


 頭上の空は相変わらず青く、太陽は眩しい。枯れ草の揺れる音と匂いが混ざる冬の風。乾燥した地面には、雪輪と雲竜と道祖神達の影が黒々と映しだされていた。北風に吹かれて、雪輪は呟く。


「幻ではない?」

「左様」

 鷹揚に雲竜が頷いた。一歩近付き、ぬっと身を屈めて手を伸ばすと

「触れてみよ」

差し出された大きな右手。不思議と拒否する気にならず、誘われるように雪輪もそろそろ手を伸ばし、相手の指先に触れた。瞬間、全身総毛立つ感覚に襲われる。


「あ」

 小声で叫び、娘は指を引っ込めた。確かな実在の感触があった。今まで現れた『九十九神』には、何も感じなかったのだ。普段の震えとは違う震えで、雪輪の肘と肩が痺れた。そのくせ何故か、強い恐怖を覚える心の反対側で


――――そうだったの。


静かに、そうも思った。


 一人『幻』と付き合い続けてきた雪輪は、何かとても得心したのである。幼い時から、周囲に起こる事象への『幻』という解釈を、どこか物足りなく感じていた。その心の隙間が、埋まった気がしたのである。安堵感すらあった。そして安堵は、恐怖と緊張を緩めてくれた。


「わしとの『約』も忘れたか?」

 背を伸ばして胸を広げ、雲竜は重ねて問いかけてくる。

「約束を?」

「忘れたようだな」

 娘を見下ろし、山伏は広い肩を愉快そうに揺らした。


「湾凪の一族もこうなるか……まぁ良い。映し世とはこういうものだ」

 口角を上げ、鈍い金色の瞳に笑みと似たものを浮かべた。道端の道祖神達も、わやわやぎゃいぎゃい騒いでは笑い転げる。さっきから下駄音がしないと思ったら、男の高下駄は地面に触れていなかった。


「貴方様は、わたくしどもをご存じなのでございますか? 『御室のお山』のことや、わたくしの『神通力』のことも?」

 雪輪は顔を上げ、深緑色の頭巾へ改めて問いかける。転げ回っていた道祖神達が、大人しくなった。


「お教え願えませぬか。たとえば、貴方様との『約』のことでございますとか……」

 恐怖感は、まだ完全に消え去ってはいない。だがそれよりも、雪輪は知りたい気持ちが勝っていた。雲竜は娘を見つめた後

「約は約。『言霊』の誓約とは全く異なものだ。おぬしらもわしも、縛られはせぬが」

真っ暗な口を開いて語り始める。


「ここは言うなれば、最後の外濠」

 山伏は白い羽団扇を取り出し、腕を伸ばして大きく水平に振る。濠になりそうな地形は、雪輪の目には見当たらなかった。けれど恐らく彼らには何かがあるのだろうと、黙っていた。


「七百年ほど前になる。我らの棲む山を安堵するのと引き換えに、我らも門番となる約を交わした。おぬしらは守り、わしも守った。だがそれも、今が最後となろう」

 山伏は昨日の事を話すように言う。


「別れを告げに参ったのだ、湾凪の姫。無名の君の、『針の先』」

 人間らしさの無い目で、また雲竜は微笑んだ。別離と見送りのために、姿を現したらしい。彼の言う『無名の君』が、故郷で呼ぶ『ムミョウサン』と同義であるとは雪輪も察した。それにしても


「針の先?」

 何かの聞き間違いかと思った娘の問いへ

「『人柱』よ。そんなことまで忘れたか」

答えた雲竜は、羽団扇で呑気に自らを煽いでいる。気楽な返事だった。言葉が持つ意味の重大さと繋がらず、雪輪は目を瞠る。


「人柱? ……わたくしが?」

 多少、声に動揺が混じった娘へ

「おぬしは肉体にしるしが現れているではないか」

同じ調子で語る雲竜の羽団扇が、雪輪の方を差した。たしかに幼い頃の『事件』以来、雪輪は身体に異変が起きている。頭から足先まで常に震え、肌は日に日に白くなり、目は異様につり上がっていた。


「針の先となった者は、多くが髪や目、時には顔立ちそのものが変容するものだ。もっともそれはあかしの一つに過ぎぬがな。証は他にも数多起こっておる。人には僅かな事しかわからぬだけよ」

雲竜は語る。


「無名の君の誓約は、『産児』であった」

 山伏姿の男は空を見上げ、懐かしそうな眼差しをして

「『子授け』をしただろう?」

美しい声で指摘した。『子授け』という言葉には、身に覚えが有り過ぎた。

「わたくしがお腹に触れた女に、子が生まれたのは……偶然と思うておりましたが……」

雪輪は何とか返事を捻り出す。


 『子授けの神通力』。偶然にしては出来過ぎていると感じても、偶然だと教えられてきたし、信じてもいた。対して

「人にとっては偶然であろうな」

金色の目の山伏は、穏やかに語る。


「それでは、わたくしは……人柱となるのでございますか」

 深刻になりきることも出来ないまま尋ねる娘へ

「左様。説き起こせば、おぬしはあの日より、既に半分は『針の先』となっておる」

躊躇いの無い雲竜の言葉が返って来る。


「わたくしは、山を離れぬ方が良かったのでしょうか……?」

 震えながら地面を見つめ、雪輪は少し掠れた声で独り言みたいに言った。

「望むようにすれば良い。まだ『その時』ではないが、時と縦横に括られた映し世の人間が、もはやどこに居ようと何も変わらぬ。言霊を用いて神を映し世へ招き、やがて常世へ渡す。それが『誓約』よ」

山伏は答えてくれる。穏やかな美しい声に、同情や憐れみといった情緒は籠っていなかった。


「我らは『常世』の者ゆえ、これ以上を語ることは叶わぬ。僅かなりとも知りたくば、おぬしの髪にいる男に聞いてみよ」

「髪……?」

 雲竜が言い、雪輪は山伏の鈍く光る金色の目を再び見る。深緑色の頭巾の下、武者人形は微笑んだ。

「それなる碧玉。“外道の呪禁師”だ」

言われた雪輪は自分の髪に刺してある簪に指先で触れる。


「我らが守ってやれるのは、ここまでよ。わしは古峰ヶ原を、これ以上離れることは出来ぬ」

 言いながら、金色の目をした山伏は組んでいた腕を解いた。

「だが目付けとして、この者を使わそう。こういうのを人は、『餞別』と言うのだろう?」

 そう言って、羽団扇を一振りする。煽られたように、一番近くにいた道祖神が土を巻いて独楽のように回転し始めた。最後に後ろへ一回転したと思ったら、大きな鴉に変わる。ばさりと黒い翼を広げた後


「仙娥でごぜぇますだ」

恭しくお辞儀した鴉の名乗りで、雰囲気が一気に人間臭くなる。雪輪はつり上がった目を瞬いた。


「せんが?」

「『仙人』の『仙』と、女へんに『我』と書いて『仙娥』でごぜぇます。ちなみに雌でごぜぇます」

「……そう、ですか」

 鴉の名乗りに、娘は頷いてやった後

「お前は……いつぞや庭へ来ていた鴉?」

尋ねると、大鴉はひょこんと頭を下げる。


「へえ。あの時は油揚げを頂戴致しまして、有難う存じます」

 しわがれた声で礼を述べた。

 雪輪は小さい頃、庭へ飛来した鴉が挨拶をしたので、褒美に油揚げをくれてやったことがあった。でも母に叱られたため、それ以来やっていない。


「お前は、わたくしを知っていたのですか? ならば、もっと早くに色々と教えてくれれば良かったものを」

 雪輪が言うと

「何度かお声掛けしだけんど、ひい様はポケーっとしてたべ?」

鴉からは飄々と答えが返ってきた。言われればその通りで、これまで雪輪は話しかけてくる鴉の声を『幻』だと思っていた。あまり鴉のせいには出来ない。


「わしは御室の山の結界をくぐり抜けられぬ。やむなく烏天狗達に、歩哨をさせていたのだ」

 山伏が説明した。この者達は天狗なのかと承知し

「結界というのは……?」

雪輪は再び雲竜を見上げ、問いかける。


「御室の山を中心に、およそ十里四方が無名の君の『結界』。そして無名の君には封印も施されておる。一つは『要岩』。一つは『霧降』。残る一つは『人のかた』。映し世では、もはや他に見ぬ強力な封印が、二重三重となっていた。強過ぎるあまり、我らは近付くだけでも骨が折れる」

そう言って天狗は空を仰いだ。


「己より重い者の結界内にいる時、我らは力や動きが限られる。強力な封印の近くでは、ますますもってそうなる。『霧降』が外された事で、昔よりは近付けるようになったが……」

 そこまで言いかけた時だった。雲竜が羽団扇を翻し、西の方角を指す。


「捕えよッ!」

「カアアアーーーッ!」

 声が鋭く叫ぶ。同時に旋風が幾筋も足元を駆け抜けた。瞬時に鴉の姿へ変じた道祖神達が黒い矢となり、平野の一点へ飛び掛かる。たちまち枯れ草の生い茂った藪から

「ギャアー……!」

何者かの悲鳴が聞こえた。


「あれは……?」

 雪輪は遠ざかる声を聞き、尋ねる。鴉達はまだ上空を旋回していた。

「『土々呂』だ。逃げたな」

金色の目をした山伏は、一段声を下げて言う。


「これより先は、土々呂に用心せよ。己が軽さを良い事にわしらの目を掻い潜り、結界を通り抜け、近隣の町や村へ潜り込んでおる。見つけ次第食ってはいるが」

 雪輪の位置からはハッキリと見えなかったけれど、草の陰で白い影が逃げて行くのは僅かに見えた。


「何者なのですか?」

 娘の問いに山伏は深緑色の頭巾の裾を揺らし、音も無く地面から浮きあがって笑う。


「わしらは『鼠』と呼んでおる。奴らはどこにでも現れ、人の世のあらゆる事を知っている。しかし、己の事だけはわからなくなっているのだ」

 不思議な事を語り、口元を白い羽団扇で覆った。白い娘を見つめ

「土々呂が集まり始めたのも、無名の君の故であろうな」

囁いた後、再び羽団扇を一振りすると、黄金色の篠懸を纏った山伏は消えてしまった。


 空を見上げれば、たくさんいた鴉達も一羽を残して消えている。ただ一羽で空を漂っているあれは、『仙娥』だろうか?


 青空を旋回する鴉を目で追っていた雪輪の耳に

「姉上!」

呼びかける声が届いた。茶屋で団子を買い込んできた狭霧だった。弟は息を弾ませ近付いてきたが、姉の顔を見ると

「どうしたんですか? 疲れましたか」

心配そうな目で尋ねてきた。姉の極端に少ない表情や感情を読み取ってくれる弟に

「いいえ」

雪輪は努めて物静かな声で答えた。


「本当に? まるで夢でも見ていた風な顔だなぁ」

 狭霧は言って団子を手渡すと、さっそく自分も頬張り始める。無邪気な横顔を眺め、雪輪は弟の“実在”を確かめた。


 狭霧が居る、これが本当。これが現実。けれど先程の来訪者達も、たしかな“実在”の肌触りが残っていた。冷たい北風に吹かれるうちに、一足遅れてざわざわと空虚な恐ろしさが胸に湧いた。唇の隙間から、ゆるく息が抜けていく。まだ温かい団子を手に


「……“うつつ”とは、何であったか」


空の彼方へ囁いた。

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