忠義者
夜明けが近い刻。奥の間で雪輪は鏡を覗き髪を整えていた。古い銅の柄鏡は、裏に松竹梅の繊細な模様が彫られている。これは母が祖母から受け継いだ品だった。台箱の付いた鏡架と小さな鏡は、僅かな道具の一つだった。
動きやすく髪を直した雪輪は囲炉裏のある部屋を横切り、土間へ繋がる場所から改めて全体を眺める。家具は殆ど手放してしまっている上、他に人の気配も無いため室内は広く感じられた。囲炉裏のか細い火を取り囲む冬の空気も手伝い、家内は冷え切っている。
囲炉裏の灰を片付けると次は手桶に水を汲び、拭き掃除を始めた。手に罅が走りそうなほど冷たい水で雑巾を絞っていると、母の声が耳の奥で蘇る。
――――家が古いならば尚の事、掃除は念入りにしなければなりません。
そう言い、床掃除をしていた姿が思い出された。
雪輪の母、『那智』は勝気な女性だった。生まれも育ちも、雪輪とは比べ物にならないお姫様育ちの奥様である。その人が御一新の後、夫に従って見知らぬ土地へ移った。引っ込んだ当時は、まだ昔からの家臣達も居たようである。だが養いきれなくなるにつれ、知己の人々は身辺から去っていった。
慣れない環境。新たな人付き合い。変わりゆく諸制度。今までとは異なる価値観と世界観。押し寄せてくる未知の『日常』を相手に、母も途方に暮れる事はあったに違いない。
でも母が弱音や泣き事を漏らしている姿を、雪輪は見た記憶が無かった。母は一から煮炊きや洗濯を覚え、畑仕事や糸紡ぎも身に付けて、黙々と暮らし続けたのである。父が亡くなった後は古い織機を譲り受けて機織りの内職をする傍ら、姉さん被りに父の形見の段袋を穿き、毎日芋や大根の並ぶ畑を耕していた。頑固なまでに微笑みを絶やさず、背筋を伸ばし胸を張っていた。そういう母は雪輪にも
『顔を上げなさい、雪輪。何も恥じる事などありません』
そう言い続けた。娘の身体の震えも
『いつか治りますよ』
そう励まし、嫁ぐ日のためにと料理や裁縫だけでなく、琴や華道も教え込んだ。外へ姿を見せるだけで人々を絶句させる娘に、嫁の片付け先があると本気で信じている人だった。
こんな母も半年前に亡くなった。葬式らしい葬式は出せず、墓も父の墓塚の横に簡単な穴を掘っただけで、埋めるのを手伝ってくれた里人は二三人。
残されたのは形ばかりの敬意。露骨な無視と異様な沈黙。漏れ聞こえてくる「厄介」、「困りもの」といった囁き。
『若様やひいさまには、“神通力”で稼いだ大層な蓄えがお有りに違いない』
という、根拠の無い噂。
狭霧がここでの生活に辛抱しきれなくなったのも、仕方無いと雪輪はわかっている。たとえ食物を毎日与えられても、針の筵のような環境。むしろ今までよく耐えた。だから弟が「里を出る」と言い出した時、雪輪は反対しなかった。僅かばかりの金を持って「帝都へ行こう」という夢も、後押ししてやりたいと思った。ただし
――――わたくしは、共に行く事は出来ない。
四郎左ヱ門に言われずとも、雪輪は最初からそう考えていた。すっかり一緒に行く気でいる弟に、いつ切り出すかと思案していただけである。
里の暮らしでさえこんな有様なのだ。自分が『普通の娘』からかなりかけ離れているのは、自覚している。帝都へ行っても狭霧の足手纏いになるだろう。そして昨日までかけてやっと、狭霧は姉を残して行く事に、しぶしぶ納得したのだった。
やがて雑巾がけが一通り終了した雪輪は桶を置くと、框の横へ腰を降ろす。拭くたびにきしむ黒い床は長い年月の間、数え切れない人の足で踏まれ続け、凹んでいた。滑らかに光る黒い床板を、震える指先で触れる。
「とうとう、わたくし一人になってしまいますね」
床に向け、独り言を零した。
ぎょろり
と、まるで返事をするみたいに、床へ大きな『目玉』が一つ現れた。
床から飛び出した目玉はお盆ほどの大きさで半球形。赤い虹彩も鮮やかに、ぎょろぎょろ揺れている。板敷きの上で動く巨大な目玉を見下ろし
――――また『幻』……。
無感情に、雪輪はそう思った。
幼い頃から雪輪はこういう『幻』が見え、聞こえる。家の柱や天井に変な目玉が現れたり、触れた壺から知らない誰かの喋る声が聞こえたりする。時には庭先へやって来た鴉が、恭しく挨拶をしたりした。こういった事柄は、世の中では『物の怪』や『幽霊』と説明されることも多い。
しかし雪輪の両親は、娘の見ているモノ達をそのようには解さない人々だった。
『雪輪は病気で、幻を見ているのだよ』
そう教えられ、雪輪は自分でも『幻』だと理解していた。だから驚きもしなければ、恐ろしいとも思わない。長い付き合いで、慣れてしまったのもある。
「出なくて良いの」
囁いて、指先で『幻』を軽くつつく。触った感触も無いまま、たちどころに大目玉は消えた。黒い床には何の痕跡も残っていない。白い娘は尚も、目玉の消えた辺りを見つめていた。そこへ
「また『九十九神』ですか、ひいさま?」
外から男の声が入り込んでくる。半分ほど開け放してある戸の向こうは、明るくなってきていた。佇んでいる影がある。名乗られる前に、わかった。
「平蔵ですか」
名を呼ぶと、戸の向こうで佇んでいた男が頭を下げて土間へと入ってきた。
「少しばかり、ご無沙汰をしておりました」
雪輪の真っ黒な目と目を合わせ、男の日に焼けた顔が微笑んだ。
雪輪より十ほど年上のこの男は、名を『加東平蔵』という。
六郎右ヱ門の倅であり、里の中で湾凪家の、特に雪輪に対してこんな表情を向ける、唯一人の人間だった。娘が促すと慇懃に礼を述べ、平蔵は人一人分ほど開けて上がり框へ腰かける。
「糸が仕上がりましたので、お持ち致しました」
そう言う手には、使い古した茶色い風呂敷包みを持っていた。
里では古来よりの慣わしで、殆ど外から婿や嫁を迎えず近親間での婚姻を繰り返してきたため、男も女も顔や身体つきが似ている。だが平蔵は里の男の中では、背が高かった。日々の野良仕事で鍛えられた肩も広く、腕や首も逞しいのが隣に居るとよくわかる。まだ寒い季節ゆえに厚着だけれど、着古した紺の野良着と浅葱木綿の股引。加えて草履という格好だった。
「良い色ですね」
風呂敷包みの中から出てきた糸を眺め、雪輪が言う。
「はい、上等でごぜぇます。そうそう、ひいさまが織られた反物、出来が良いと評判でごせぇましたぞ」
「そうですか」
笑顔で報告する平蔵を前に、青白い顔色の娘も幾分表情を和らげる。平蔵だけは、雪輪に対する態度が今も昔も変わらなかった。これは希有な事である。
この土地には昔々から言い伝えられてきた、御室の山と『無名様』の伝承が息衝いていた。古い記憶が霊気を伴い、空気の如く満ちている。
――――ムミョウサンが起きてしまわれた。
“あの日”から震えの止まらなくなった旧旗本の娘を見て、極自然に古老たちはそう口を揃えた。
山に眠るとされる『ムミョウサン』は、里において常識に基づいた存在である。それゆえ里の中で雪輪の外見的な不自然や周辺の現象は、みんなその仕業と信じられ語られてきた。何かが起こり、現れるたびに古老達は恐れた。
――――ムミョウサンの神通力よ。
そう言って不安がり、不安は今も続いている。
この里の中で平蔵は、「馬鹿を言うな」と怒る人だった。
「何が神通力だ! そんなもん、あるはずねぇべ!」
平蔵はそう言って憚らず、里人達が恐れる『ムミョウサン』の存在や伝承にも、一貫して否定的な反応を示している。ここで生まれ育ったにも拘らず、土地柄に全く沿わぬ発言をする男だった。しかしそれは生来の個性と言うよりは雪輪の父、抛雪の影響だろうと、里の誰もが考えている。
抛雪はほんの短い期間、里で学校に近いものを開いていた。平蔵はその時に教えを受けている。父も
「平蔵は中々見込みがある」
と喜んでいた。平蔵少年自身も農夫の倅である自分に期待をかけ、読み書きそろばん以上の『教育』を与えてくれた『殿様』に恩を感じ、また敬愛していた。未だに何かに付けて殿様殿様と言うので、周囲には呆れられている。
平蔵は父が存命だった頃も死去した今も、湾凪の家へ通っていた。他の里人からは陰口や悪口も囁かれている。雪輪の母が気にして
「そなたとて、家や立場もあるでしょう」
あまり来ないよう諭した。けれど平蔵は「殿様のご恩」と言って、引き下がらない。大した忠義者だと、母が感心していた。そういう男は今日もやって来たのである。
「そうだ、若はどちらに?」
家の中をそれとなく見回し尋ねてきた農夫へ
「畑へ行っています」
青白い顔の娘は小刻みに震えつつ答える。平蔵は小さな声で「そうですか」と答え、視線を下へ向けた。
「何かあったのですか?」
雪輪の問いで平蔵は一瞬返事に詰まり、指先で自分の膝頭を細かく叩く。
「はは、ひいさまには隠せねぇか」
困った風に笑い、一度息を飲み込んで
「うちのお婆とお父が、若が『里を出ようというのに、挨拶にも来なさらん』と、またつまらねぇ愚痴を零していたもんで……」
言って、硬そうな髪をがしがし掻いた。
――――違うな。
何か誤魔化している。ほぼ直感で雪輪はそう察したが、きっと言いにくいのだろうと追及はしなかった。代わりに
「わかりました。帰ったらもう一度、狭霧によく言って聞かせます」
真っ黒な瞳で、そう答えた。
狭霧が里を出るという噂は、既に知れ渡っていた。良く言えば人間関係が濃厚であり、悪く言えば相互が監視し合う力の働く里の中では、隠す方が無理なのだ。湾凪の家となれば、輪をかけてそうなる。これだけならまだ良いが、問題は漏れ聞こえてくる里人達の噂に、「所詮は、よそ者か」という声が混ざっている点だった。居ても厄介扱いされ、出て行っても罵られるのだからたまらない。狭霧も挨拶など行く気が失せるだろう。里人達に頭を下げて回れと要求されるのも、旧旗本として屈辱的だった。
「我儘と言われても仕方のない事やもしれませんが……許してやって下さい。あの子のせいではないのです。姉の咎に巻き込まれているようなもの」
黒い床板を見つめ、雪輪は呟いた。平蔵は驚いた表情を浮かべた後
「ひいさま。違います。ひいさまの咎でもねぇ」
懸命に首を横に振る。
「何度も申し上げますけんど……『子授けのお騒ぎ』は、ひいさまのせいじゃありません。あれは……あれは、あの頃は、皆どうかしていたんだ。どこの家も赤ん坊がぽんぽん生まれて、幸いここは天下の騒乱も、天災も飢饉も縁が無かった。飯が食えて、一人残らず達者に育ったもんだから。それがたった数年続いただけでなぁ。子供なんかいくらでも増えると勘違いした」
平蔵は勢い込んでそこまで言い、自分の草履の先を睨みつけた。
「『わしらにはムミョウサンのご加護がある』なんて言ってよ。たしかにムミョウサンは『子授け』の神様って話しだが、それまで大して拝んでもいなかったでねぇか」
忌々しそうに言う。声音には強い嫌悪がこめられていた。雪輪は平蔵の話を片耳で聞き、過ぎた日々の記憶を頭の中で反芻する。今となってはあの異様な『子授けのお騒ぎ』すら、幾許かの懐かしさを伴って思い出された。
「里の子らの不幸だって、流行病のせいだべ。それをウチのお婆が、何を思ったか祟りだ呪いだと言い触らしたばっかりに……恥ずかしいったらねぇや。お詫びを申し上げなきゃならねぇのは、おら達の方だ。本当に、面目次第もございません」
平蔵は向き直り、隣で座している娘へ頭を下げる。寒々とした土間の壁に、白く漂う平蔵の吐息が消えていった。
「平蔵! 何してる!」
そこへ鋭利な声が飛んでくる。
屋内の二人が外を見ると、開け放ってあった扉の向こう。少し離れた場所で杖をつき、こちらを物凄い形相で睨みつけている白髪の老婆が居た。平蔵の祖母だった。足腰の丈夫さが自慢だった老婆も、さすがに最近では一人で歩くのが困難になってきて、今日も近所の女達を引き連れている。
介添え役をしているのは、おしず、お蝶、おたつ、おちやの四人だった。すっかり痩せさらばえて小さくなった『お婆』を、四人が前後左右で支えている。雪輪がじろりと黒い視線をくれると、いずれの女達も大急ぎで目を逸らした。ただ一人、お婆だけが真正面から雪輪を睨み続けている。
「そ、それじゃ、おらはこれで」
平蔵はそそくさと頭を下げ、荷を置いて家を出ていった。
「何しに来た、お婆……」
「何しにじゃと? この馬鹿わらが! この家へ行ってはならぬと、ぬしには幾度も幾度も言うておろうが! ぬしまで祟り殺されたらどうするがじゃ!」
「まだ言ってるのか? 大概にしろ!」
背を向け歩き出した孫息子を、杖をついたお婆はよろめき追いかけていく。怒鳴りつける老婆の声が、しばらく聞こえていた。声だけは、今も大きい。
残された糸の束を無言で手に取ると、雪輪はその場を後にした。




