九之丞様
「なりませぬ」
四郎左ヱ門が断言する。
「九之丞様は、里に居て下さらねばなりませぬ」
特有の強い訛りで語られる言葉を片耳で聞きながら、雪輪は土間で機を織っていた。シャンシャンハタハタと鳴る機織りの音を吸収する土の地面は、昼でも冷気を漂わせている。
老人のしわがれた声には、異論を許さぬ頑なさが重く沈んでいた。囲炉裏端で丸めている小柄な背中は、近頃めっきり歳をとった。そんな四郎左ヱ門は白髪も残り少ない頭を、ゆっくり横に振っている。
「御室の山をお守りする『山守』の首領は、九之丞様と昔から決まっておりますだ。所詮わしらは名代でごぜぇます。お血筋の方が、またしても里を離れるなど……」
「山守?」
狭霧の声が相手の言葉を遮った。
「山の権利なら、とうに里へ移譲しているではありませんか。今更、名ばかり『首領』と言われても困ります」
やや神経質さを感じる高めの声には、苛立ちが含まれている。
「そういえば、またあの山を禁足地にするそうですね。まぁ口を出す権利も無い僕らには、もう関係の無いことです。好きなだけ祀るなり、煮るなり焼くなり、すればいい」
いかにも刺々しい狭霧の言い様に、雪輪はちょっと眉を寄せた。
湾凪家が父祖伝来の土地と家屋敷を手放して、数年が経過している。手放した切欠は、父が始めた開発事業の失敗だった。失敗した時、里の者達は山や里の土地が他所者の手に渡らないよう金を出し合い、買い取ってくれた。この古い家も、雪輪達が住み続けられるようにしてくれた。それらの指揮を執ったのが代々名主を交互に務めてきた、四郎左ヱ門と六郎右ヱ門の両家だったのである。
そんな彼らに恩義を感じこそすれ、雪輪も狭霧もすでに偉そうな口をきける立場ではなかった。もっとも里人たちの持っていた金の殆どは、雪輪の『神通力』を利用して手に入れたものであった。
機を織る手は休めないまま、雪輪は格子窓の向こうに広がる外界の景色へ目を向ける。
里は周囲を山々に囲まれていた。谷底に円い盆を置いたような場所に存在している。その盆の三方の縁を、深い川が流れていた。里へ立ち入るには、この川を舟で越えなければならない。地形からして、外界を拒絶していた。川に沿って内側の土地には田んぼや畑が広がり、そこから一段高い所が里人の居住地となっている。
窓から見える冬の青空の下には、枯れた畑と茅葺の家々がぽつぽつと並び、灰色の雑木林が帯となって連なっていた。林の上に、先刻から主題となっている山が見える。
北の空を塞いで聳えるその山は、『御室のお山』と呼ばれていた。
きれいな円錐形をした、遠目には何の変哲も無いただの小振りな山である。特徴と呼べそうな点と言えば、長らく湾凪家以外の人間が立ち入ることを禁じられてきた『禁足地』ということ。もう一つは頂上に『要岩』と呼ばれる、岩の建造物があることくらいだった。
いつの時代から山への立ち入りが禁じられていたのかは、時の彼方に霞んでしまっていて誰も知らない。父には、ご先祖がここへ来た時には既に禁足地で、要岩も鎮座していたのだと聞いた。口伝が正しいとすれば、最初の征夷大将軍がやって来る以前から禁足地だった事になる。
御室の里と、その首領である湾凪家の歴史は古かった。何せこの最初の征夷大将軍と共にやって来た人物が祖とされている。ご先祖が禁足地の守り人であった一族の娘と結ばれ、暮らし始めたと伝わっていた。そして初の幕府が出来た時期には、湾凪家は一帯の国人だった。当時は半ば神職だったという。
一族と里の者達は各時代を切り抜け、様々な権力に近付いたり離れたりして山と近隣の地を守り、延々と生き残ってきた。時代に合わせてある時は鳥居を建て、ある時は山城を築いて戦い、ある時は寺を建立した。努力を重ね、いずれの時代の権力者にも一定の支配を認められ、最後は小さいながらも知行地として、御室の山と周辺を安堵されて現在に至っている。
どのような手段を用いて権力に取り入り、どんな由来でこの地を守り続けてきたかの詳細については、今や殆ど不明だった。長い時の間に、古代の歴史や縁起について記された古文書や絵巻は失われてしまったのだ。記憶の伝承者である湾凪家の者や、伝達者達の早世が続いた時期もある。太平の世も、古い記憶の劣化を加速させた。今では僅かな口伝と、藍色の玉の付いた簪。そして『歌』が、残った全てだった。
――――父上がお健やかなうちに、もっと色々お聞きしておけば良かった。
今更ではあるが、雪輪はそう思った。一族の過去を、せめて知識としてもう少し詳しく知っていれば。現状も多少は違ったのではないかと考えていた。
父が亡くなり、早五年。母も半年前に他界した。
「若は一体、何がそれほどご不満か? 米も野菜も、里人が毎日お運びしておりましょう」
宥めるというよりは、うんざりした口調で四郎左ヱ門が尋ねた。
「そうですね。父が存命の間は、米の一粒も分けてもらえなかったのを思えば、有難いことです」
狭霧が尖った口調で答える。
「里人がお持ちした野菜や米を、先にお断りになられたのは、九之丞様でごぜぇますぞ」
「それはあなた方が食物と引き換えに、姉上の『子授け』を望んだからでしょう。父上はそれがお辛かったんだ。娘を見世物のようにするのが……。子供を売って手に入る黄金に目のくらんでいたあなた方には、きっとわからないでしょう」
四郎左ヱ門へ負けじと言い返す。今にも噛みつきそうな気配の“若様”へ
「しかし若も、そうした米を食うてお育ちになられましただ」
まるきり我侭な子供相手といった調子で、老人は平然と返していた。それきり冷たい静寂が広がる。土間で雪輪は迷ったが、一先ず機織りを続けた。
「……とにかく、僕たちは牛や馬ではない。飼葉さえ与えれば、納屋の中で大人しくしているというものではありません」
相手の言葉には答えず、狭霧は冷静さを装えていない口振りで、当初の話題へ戻った。
「僕たちは里を出る。もう決めたんです。父上や母上も、元々ここで暮らしていたわけではないのですから」
一方的に相手へ告げる。四郎左ヱ門が溜息をついた。
「路銀はどうなさるおつもりか?」
「少しくらいならあります。帝都の叔父上に、手紙も出した」
「お返事は届いたので?」
「どうせ手助けする気など無いのでしょう? ならばこれ以上の詮索は無用です」
言い放って話しを断ち切り、席を蹴ろうとした。その湾凪家の若き当主を
「若。お待ちなされ」
少しだけ大きくなった四郎左ヱ門の声が引きとめる。
「当家は長きに渡り、頭屋の務めを仰せつかって参りましただ。三十五代目の『四郎左ヱ門』として、やはりお許し致しかねまする。ひいさまを外へお連れして、また何か起きては一大事」
老人のその言葉で雪輪の機織の手が止まるのと、狭霧が怒鳴り声を上げたのはほぼ同時だった。
「だから違うと言っているだろう! 何が起こると言うんだ! まだ姉上が村の子を殺したと思っているのか?!」
気色ばんだ少年に対しても、微塵もたじろぐ気配を見せず
「若はまだまだ、信心が足らねぇのでごぜぇますな」
逆に凄味を秘めた低い声で、老人は言った。
「湾凪様が里を出なすったのが、そもそもの間違いだったのでごぜぇます。都暮らしに染まり過ぎましただ……お武家様になどならず、せめて神主になられるべきだった。わしらと同じく里で暮らし、ムミョウサンの山を守って暮らしていれば」
「いい加減にしてくれ! 何百年前の話しをしているんだッ!」
老人の嘆きを遮った狭霧の声は、悲鳴も同然だった。やり取りを聞いていた雪輪は、織機を離れる。
「狭霧」
囲炉裏端で細い肩をいからせている弟に、声をかけた。
「そのように大きな声を出すものではありません」
静かに嗜め、所定の場所へ座る。四郎左ヱ門が雪輪に黙礼し、狭霧は気が抜けたみたいな、泣きそうな目をして俯いた。居心地の悪い静けさが広がり、雪輪は微かに吐息を漏らす。
湾凪家が里を出て数百年。守護者として里と共に生きた時代は遠ざかり、かつて慕われていたはずの首領たる『九之丞様』は、もはや他所者でしかなかった。湾凪家の方も外界の生活に染まり、山の古い儀式も、里の習慣や習俗も忘れてしまった。
雪輪の両親も、里へ戻ってから何もしていなかったわけではない。父は里で受け継がれてきた祭や仕来りを学び直し、母も掟や禁忌を可能な限り尊重してきた。それでも外で育った父が、この土地の古過ぎるやり方で閉口したのは一度や二度ではなかったし、母も武家の女として譲れない部分はあったろう。価値観の齟齬は大きくなり、馴染む事が出来なくなった両者の心が離れてしまったのは、きっと普通なのだと雪輪は思っていた。やがて
「四郎左ヱ門。わたくしはここに残ります」
雪輪の声が、囲炉裏端の沈黙を破る。
「姉上?!」
目を瞠り、狭霧が声を上げた。四郎左ヱ門が向けてくる視線を受け止め、雪輪は真っ直ぐ背筋を伸ばし先を続ける。
「わたくしは女の身。里から出ないのも良いでしょう。毎日の水垢離や、要岩への『お水運び』もこれまで通り行います。ですが狭霧だけは、帝都へ行かせてやってはもらえませんか。外を知り見聞を広めるのは、湾凪家の者の務めでしょう?」
語る雪輪の真っ白な顔を、四郎左ヱ門は皺に埋もれた細い目でちらりと見やった。口をもぐもぐ動かしていたが、そのうち
「……まんず、六郎右ヱ門達にも話してみましょう」
すぐには回答せずに、湾凪の姉弟の頼みを一旦引き受ける形で、家を出て行った。
そして老人が足を引きずり、古い農家の戸を潜り出て行った直後。狭霧は姉の膝の前へ飛んできて、白過ぎるほど白い姉の手を握り締めた。
「姉上、駄目だ! こんな……こんな牢獄で暮らすのは、人間の暮らしじゃない。それに姉上一人を、置いて行けない」
色白の細面を蒼白にし、形の良い口元を歪めた狭霧は姉の心を変えようとしている。
立ち姿もしなやかな狭霧は、継ぎ接ぎだらけの着古した藍木綿を着ていても気品が漂い、泥臭さが無かった。綺麗な着物を着せたら、それこそお内裏様のようになるだろう。雪輪ほどではないにしろ、肌も随分と白かった。これは母も同じだったので、元々日焼けしにくい家系とも考えられる。だがこの姉弟の似ている所は、睫毛の長さと色の白さくらいだった。そんな似ていない弟が、怯えた眼差しを向けてくる。雪輪は震えのとまらない手で弟の手を握り返し、一段と冷静な声で語りかけた。
「諏訪の叔父上、叔母上たちもお暮らしは楽ではないはず。二人で押しかけては、ご迷惑となります。狭霧一人で行きなさい」
「ダメだ! 姉上だけになったら、里の者達に何をされるかわかったものじゃない。あいつらは僕らを、人間だと思っていない」
狭霧は猜疑に満ちた眼をして答えた。里人から供される米も野菜も、金も着物も。『ムミョウサマ』の力を示す雪輪と、その弟である自分をこの地に縛り付けておくためのものだと、狭霧は十二分に知っていた。
狭霧は本来なら、率先して里と山を守るはずの湾凪家の当主である。しかし周囲の態度の激変や両親の不幸な死に様により、柔らかかった幼い心は傷つき過ぎていた。守護者としての意思が完全に失われているだけでなく、守るはずの里人たちや『御室の山』すら、仇の如く思っている節がある。だが肩身の狭い生活と、畏れ蔑まれる不安定な暮らしの中。心が凍てつき強張ってしまった弟を、雪輪は責められなかった。
「里の者たちとて、こちらに近付いては来ないけれど、危害を加えてきたことは一度も無いでしょう? それに、完全に味方がいないというわけではないのですから」
雪輪が言った、それを聞いた途端
「平蔵ですか」
特定の名を出して、狭霧は今までと違う不満を滲ませる。たしかに“その人”を無意識で想定していたというか、他に該当しそうな者もいないとはいえ、弟からこんな反応が返ってくると雪輪は思っていなかった。
「……僕はあの者に、あまり気が許せません」
「何故?」
狭霧の発言へ、少々の驚きを伴って問い返す娘に
「姉上に馴れ馴れしい」
ちょっと拗ねた声音で、答えがあった。雪輪は少し呆れる。
「他がよそよそしいから、そう見えるだけでしょう」
淡白に受け流し、話しを終わらせた。改めて弟に正面から向き合うと
「帝都へ行き、人力車夫でも何でもして、いつか一身独立を成すのだと話していたではありませんか。瑣末なことで、男子の志を曇らせてはなりません」
姉の使命感から、そう諭した。
こういったやりとりがあった翌日。古老たちの許しを得て、狭霧一人の出立が決まった。




