化けの皮
七月も終わりへ差しかかり、日差しの強さが一際増してきた朝だった。
台所を片づけ、そろそろ蔵へ入ろうと考えていた雪輪の耳に、シャンと鳴る鈴の音と
「御免!」
知らない声が聞こえてきたのである。
「湾凪の姫にお目通り願いたい!」
甲高い声は庭の方から響いてきた。古道具屋に同居している若者達は裏庭で薪割りや掃除をしているので、彼らではない。まず雪輪の呼び方が違う。
知らない声のする方へ一瞬視線を飛ばした娘は、次いで書生達が戻ってこないのを確認する。それから足音も立てず、縁側へと向かった。今の呼び声の不自然さには、覚えがある。
雪輪が縁側へ出ると、眩しい光が跳ねる広い庭は夏草が青々と生い茂っていた。その庭先で、水色の羽織に金襴の袴を履いた子供が跪いている。足元には捻じれた杖が横たわっていた。杖の先端には、枇杷に似た形の鈴が付いている。
「湾凪はわたくしです」
縁側に座った雪輪は、小刻みに震える背を伸ばして答えた。それを受け、庭の子供は「これはこれは!」と大袈裟に言って顔を上げる。
「お初にお目にかかります。それがし、常清と申しまする。またの名をツネキヨ!」
跪いたまま溌剌と明るい笑みを広げる相手を、雪輪は縁側から眺めた。
歳は十二、三歳といったところだろうか。硝子玉を思わせる透き通った瞳に、陽光を反射する絹糸にも似た髪。大層整った顔立ちをしている。だがその美しさは、どこか作り物めいていた。この嘘くささは、何度か遭遇してみないとわからない。
「常世の者ですね」
胡乱な煌びやかさを纏う子供に問いかけると
「左様にございます」
笑顔の常清は、高い声で躊躇なく答えた。動きはきびきびしていて、それでいて少し落ち着きが無い。気配も何もかもが虚ろである。全体を一見して少年に見えたが、男装の少女だろうかと雪輪が思っているうちに
「此度は我が主、『布引姫』様の使いとして参上仕りました」
常清は語りだした。
「布引姫様……?」
「はい。我らが永久の美しき主にして播磨の城主。いと気高くやんごとなきバ……姫君でございます」
常清は何食わぬ顔で言上する。途中で間違えた箇所は聞かなかったことにして、雪輪は話しの先を繋げた。
「御名声は、わたくしも存じ上げております。そのお使者殿が、どういった御用向きでございましょう?」
促すと、派手な水色羽織が僅かに縁側へにじり寄り、改まって切り出した。
「単刀直入に申し上げます。我が主は、湾凪の姫を是非とも、養女として城へお迎え致したいとの仰せにございます」
申し出に、雪輪は真っ黒な瞳を少し見開く。
「……わたくしを?」
大きく一度頷いた子供の顔が、きりりと引き締まった。
「このままでは貴女様が無名の君の『針の先』となるは必定……それはあまりにおいたわしい、痛ましいと、布引姫様はそれはそれはご同情申し上げていらっしゃいましてございます。そこで養女として城へお迎えしたいとの由。失礼ながら、播磨の城はここよりずっと備えも整っております。しばしの間、身を隠すには打ってつけ!」
声が大きい。書生達に気付かれはしないかと、雪輪は背後に気を配る。と同時に『針の先』を持ち出され、つり上がった切れ長の瞳をすうと細めた。常清の頬は上気し、全身から自信が溢れている。
「……しばしの間とは、いかほどの時間でございましょう?」
陽光の下でも血の気無く、青白い肌の娘は尋ねた。
「“無名の君”が消えるまででございます! 後僅か。人の世で言うところの、およそ二、三百年。近頃は城のあちらこちらで人間が少々やかましゅうございますが、お耳を煩わせるほどのことではございません。どうか何卒お早く、我らが城へお入り下さりませ!」
綺麗な子供は晴れやかな表情で答える。百年以上とは人間にとって中々に長い時間なのだけれど、実に簡単な言い様だった。
「それは……」
と言いかけて、雪輪は口を噤む。
――――きっとわたくしも、あなたと同じようになるという事なのでしょうね?
硝子玉に似た瞳を見つめ返し、心の内で呟いた。
「布引姫様は、もしお望みとあらば弟君も共にお城へ参られよと、そのようにも仰せでございます。お城まではこの常清がお供仕りますゆえ、ご心配は御無用!」
庭先では常清が揚々と語っている。
満面の笑みを浮かべる奇妙な子供に対して、雪輪の表情は変わらなかった。縁側に座り、常清の瞳の色が茶から緑、青へと次第に色を変えていくのを眺めている。明らかに人のものではないそれは、山深い湖面の色の変化に似ていた。小刻みに震えていた白い娘は、しばらくすると薄い唇を開く。
「常清殿……布引姫様のお心使い、真に有り難く、かたじけのう存じます。しかしながら姫様には、故あって御遠慮申し上げたく存じますと、お伝え下さいませ」
跪いている相手へ告げる。水色羽織は硝子玉の目と一緒に、口も大きくぽかと開いた。
「そ、それは何ゆえ……!?」
叫んだ声が一段と高くなり、常清の顔が、まるで風船が弾けたみたいにバリッと真ん中から裂けた。皮の下から薄茶色の毛に包まれた顔が現れる。みるみる手や首も毛むくじゃらになり、口元からは牙が覗いて獣の容貌へ変わっていく。綺麗な子供の化けの皮はどんどん剥がれていく。
その様に驚いていないわけではないのだけれど、見かけは眉一つ動かさず
「浅薄ながら、わたくしにも思うところがあるのでございます。御無礼、何卒お許し下さい」
青白い顔の娘は答えた。
そうしている内にも常清の姿はいよいよ変わり、そして最終的に丸きり狐そっくりの顔になると泡のように消えた。一瞬遅れて、空中に残った背中の『空』の文字が流れて消える。静けさが広がる青臭く蒸し暑い庭に、蝉の声が戻って来た。
「『痛ましい』、か……」
庭を見つめ雪輪が呟いた、そこへ背後から声がかかる。
「雪輪ちゃん……? こんな所でどうしたの?」
真っ白な顔が緩慢に見返ると、そこには薪割りを終えた長二郎が立っていた。
「庭の花がよく咲いておりましたので」
さらりと答えた雪輪に対し、縁側へ出てきた青年は周囲を見回す。
「今、誰かの声がしたみたいだけど……」
言いながら、手拭で汗をぬぐっていた。いつもと同じ紺絣は痩せた身を乗り出し、朝の光が遊ぶ広い庭を確認している。庭では小さな虫が飛ぶくらいで、人影は無い。
「外の声ではございませんか?」
青白い肌をした娘は、何食わぬ顔で言った。
「ああ……そう?」
雪輪の言に、一応長二郎はそう返す。でも返事は微妙に揺らいでいて、古道具屋を囲む黒い板塀に視線を向け、きょろきょろしていた。どうやら多少の疑念を抱いているようだと、雪輪は感じ取る。一方で、青年の少しやつれた横顔を眺め、複雑な気分を抱いていた。
癒天教に纏わる一連の事案が解決し、ある程度の時間も経過している。長二郎はこれまで通りの、疑り深くて皮肉屋で、よく笑う元気な阿呆として、何もなかった風に過ごしていた。
――――それでも、芯からお元気になられたはずはない。
それくらいのことは雪輪もわかるし、長二郎の多少の変化も見て取っている。
このところ長二郎は、夜更かしがひどくなっていた。反対に、昼間は机に向かいながらぼんやり過ごす時間が増えている。それでいて、本人は平気そうに振る舞っていた。変化に気付かれたくないようなのだ。だから女中はもう放っておく事にしていた。ただ、もしまたこの青年が何かを頼んでくる事があったら。その時は甘酒でも縫物でも、してやろうと考えている。
こうして雪輪と長二郎が、縁側で変な沈黙を持て余していると
「何してんだお前ら?」
土間の方から、柾樹がのっそり現れた。
「何かいるのか?」
黒格子に菱模様を織り出した上布の着物で身を包んだ銀縁眼鏡は、二人が眺める庭の奥へ視線を向ける。するとちょうどそこへ、千尋も庭の方から顔を出した。柾樹とは対照的に、千尋は縁側を見た途端、目を丸くする。
「あ、あれ!? 雪輪さん、まだ蔵じゃなかったのか! うわわわッ、も、もしかして……会いました?」
大声を上げ駆け寄ってきた。慌てふためく千尋へ、娘に代わって「何が?」と長二郎が尋ね返す。千尋は全身で周りを伺ってから
「いや、その……さっき店の前を掃除しに行ったら、子供がいたんだ」
広い肩を縮め、ちょっと気まずそうに話し始めた。
「ほら、前にもそこの道端で会っただろう? 派手な水色の羽織に金の袴の……」
「水色の羽織? ……ああ、もしかして赤坂の長屋の前でも見かけた、あの子か?」
「うん、そうだそうだ! どこの子か知らんが、威勢が良くて声の高い」
長二郎に言われ、庭先の黒い短髪頭は何度も頷いている。
「ツネキヨか?」
柾樹が言うと、すごく嬉しそうな顔をした。
「ああ、そういえばそう名乗っていたらしいな。うん。それでその子がさっきまた来て、しきりに店を覗き込もうとしているじゃないか。どうしたと尋ねたら、『中が見たい』と言い出して……それで、まぁ、古道具を少し見るだけならいいぞと……」
「ここに入れたのかッ!?」
言いかけた千尋の声を柾樹が一歩踏み出して遮った。雪輪の真っ黒な瞳が柾樹の横顔を見る。その横で
「あ、ああ……すまん。目を離さなければ良かったな」
友人の反応に、少し面食らった様子で千尋は謝っていた。
「それじゃ、さっき聞こえたのは、その子供の声かな?」
軽く首を傾げ、長二郎が横から口を差し挟んだ。
「アイツ、ここに来たのか?」
縁側で座っている娘を見下ろし、柾樹が詰問した。鋭い眼差しを向けられても、雪輪は震えるだけで動じない。
「いいえ。誰も来ておりません」
声も静かに言い切った。
「な、なーんだそうか、いやそれなら良かった!」
娘の答えを聞き、誰よりホッとした顔で千尋は胸を撫で下ろしている。しかし長二郎が再び横から口を出した。
「え……? じゃあ、その子はどこへ行ったんだ? 出て行く姿は見たのか?」
千尋は口を半開きにしたまま首を捻る。
「さぁ? 見ていないが……目を離した間に、すぐ帰ったんじゃないのか? 面白くもなかったんだろ」
千尋の予想を聞くと、長二郎は腕を組み目を細めた。
「何か……近頃こういう事が多いな? そう思わないか?」
鳶色癖っ毛の貧書生は他三名に言いながら、飛んできた蚊をぱちんと両手で叩くも、叩き損ねて逃げられる。少し悔しげな顔で聴衆を見回した。
「この前の子供の一個大隊もそうだ。千尋が道端で会った『梅花皮』を名乗る女も、現れてすぐに消えたんだろう?」
周囲で起きた諸々を呟く。騒ぐほどではないが、奇妙と言えば奇妙なアレやコレ。それを聞くと千尋が縁側に腰掛け、真面目に話し始めた。
「実はそのことなんだが……あれは本当に河童だったんじゃないかと、オレは考えているんだが」
「おいおい」
友人の答えに、長二郎は苦笑いしていた。だが当の千尋は真剣である。
「この前も話したじゃないか。梅花皮さんは、長二郎からキュウリを貰ったと言っていた。長二郎も子供の頃に、水神様へお参りした記憶があるんだろう?」
千尋は大きな身体を捻って振り向き、説得している。
「そりゃ、その辺は合致しているが……」
気の無い返事と共に、長二郎は首を掻いていた。でも千尋は素直な笑顔を引っ込めない。
「そんなに疑わなくても良いんじゃないか? あれはきっと河童の梅花皮さまで、お前は河童に守られているんだよ」
大らかな笑みで語り掛けた。だが対する長二郎は
「ハ……どーだかなぁ。そいつらも癒天教の分家筋で、薬を探していただけと考えるのが合理的というものじゃないか?」
いかにも呆れたといった表情になっている。
「やれやれ……まぁいいけどな。ちなみに僕は、君が暑気あたりで幻覚を見たという可能性をまだ除外していないぞ」
「な、何!? 何だその言いようは! ……ん? もしかしてオレを馬鹿にしているのか!? ひどいぞ謝れ! コラ長二郎、聞いているのか!?」
踵を返し手を振る長二郎の後を追い、憤慨した千尋は縁側から這い上がると、揃ってばたばた台所へ向かう。
二人を見送っていた雪輪だったが、そのうち斜め上方向から自分に突き刺さってくる視線に気付いて顔を上げた。そこには柱に凭れて腕を組み、眼鏡の奥で物言いたげな目をしている柾樹がいた。
「何か?」
白い娘がゆっくり尋ねると
「……別に」
ぶっきらぼうに言っただけで、悪い目つきはふいと庭の方へ向けられる。
濁った池では蓮の花が、ぽかりぽかりと咲いていた。




