古道具屋数鹿流堂
古道具屋の『数鹿流堂』は見越しの松に黒塀と、店構えだけ見れば料亭のようだった。それもそのはずでここは元々料亭だった。格安で売りに出されていたのを、今の主である中野善五郎とおのぶの夫婦が買い取ったのである。
しかし古道具屋に、池のある庭や洒落た離れ座敷は必要ない。建物を買い取る前、周囲も「古道具屋にしては大きいのではないか」と、それとなく指摘した。けれどこの家屋の外観と立地に惚れ込み、『得をした』と信じ切っている老夫婦の耳に忠告は届かず、彼らは今までせっせと貯めた金をはたいて移り住み、念願だった古道具屋を開いたのだった。
見当違いな運用をする家主に買い取られたおかげで、立派だった家屋敷は持て余され、今やすっかり荒れ果ててお化け屋敷のようになっている。元は美しかったのであろう見越しの松も、伸び放題になっていた。
その数鹿流堂に到着した柾樹は裏口へ回るため、板塀沿いの細い路地に入り込む。でも途中で気が変わり、娘を路地の途中に待たせて、一人で裏の戸へ向かうことにした。いきなり雪輪を連れて行くのは、色んな意味で危険だと思えたのである。
たどり着いた裏の戸を叩いて呼びかけてみるも、反応はなかった。両隣も空き家になっているとはいえ、夜中にあまり大声を張り上げて騒ぐわけにもいかない。それでも何度か呼ぶうちガタガタと家の中で音がし、やがて
「……どちらさんだ?」
少し眠そうな若い男の声が、戸の向こうから訝しげに訊いてきた。
「白岡か? 俺だ」
「……柾樹か?」
そう言って急ぎ戸を開けてくれた顔は、間違いなく白岡千尋その人だった。短い髪の下にあるすっきりした双眸に驚きを浮かべ、「おお、柾樹だ」と声を上げる。闇夜に慣れた柾樹の目には、彼が手にする蝋燭の灯りもまぶしく刺さった。深夜の客を敷地内へ迎え入れてくれた千尋の恰好は夜着ではなく、まだ袴を穿いている。着ているものも優しげな松葉色の紬の下に、小奇麗な白いシャツだった。
「ちっとばかり久しぶりだなぁ。どうした?」
「悪りぃな、こんな時間に」
驚いている千尋への挨拶もそこそこに柾樹が用件を述べようとした、そこへ
「なんだ、柾樹じゃないか。だったら僕が出ても良かったな」
明るい声がして、少し癖っ毛な鳶色髪が奥から出てくる。
「よう」などと言いながら、色白の顔がへらりと笑った。もう一人の悪友、田上長二郎だった。今日もくたくたに着古した紺絣の着物の上に、継ぎだらけの分厚い羽織をだらしなく着ている。ただでさえ猫背の背中を、寒そうに丸めていた。
「田上もいたのか」
柾樹が言うと、
「そりゃな。居候なんだから、いるだろうよ」
居候のわりに遠慮の無い態度で長二郎は答えた。
「全く人騒がせなやつだなぁ。こんな夜中に何事かと思ったぞ」
世渡り上手の居候はあくびをまじえて言う。その言い草を聞き、柾樹は「あれ?」と思った。
「田上お前、気づいてたのか? それならさっさと出ろよ」
「誰か来たな~とは思ったが、酔っ払いや強盗だったらヤだなと」
「それでわざわざオレを呼びに来たのか?!」
「いいじゃないか、千尋は見た目が強そうだし。僕も君も等しく居候の身だろ。客が来たら出るもんだ」
長二郎は悪びれる様子も無く、相手の驚きと不満を軽々と受け流した。千尋は怒るのも空しくなったようで溜息をつくと、柾樹の方へと向き直る。
「で、柾樹は何なんだこんな時間に。何かあったのか?」
改めて心配顔で尋ねた。
「ああ……しばらく俺も、ここで世話になることにした」
心配してくれている友人の顔を見返す柾樹の言い様は、既に決定事項のようである。大真面目な銀縁眼鏡を前に、千尋と長二郎は顔を見合わせた。次いで、笑い出す。
「何だ、ずいぶん急だなぁ。どうする千尋?」
「まぁ構わんさ。お前はそのうち来るんじゃないかと思ってたよ」
非常識な真夜中の訪問にも、友人たちは笑顔で了解してくれる。さっそく「上がれ上がれ」と言われたものの、新入りは少々気まずい顔で二人を引き止めた。
「それでだな……実は、もう一人、置いてもらいたい奴が居るんだが」
「は?」
やっと本題に入ることが出来た。
「……どこに?」
「向こう」
長二郎の質問に仏頂面で答え、柾樹は路地の方角を指差す。
「女なんだが」
苦虫を噛み潰し、尚且つ租借しまくってるみたいな顔で告げ、金茶色の髪を掻いた。
柾樹の髪の毛は生まれた時は栗色だったらしいのだけれど、長じるにつれて琥珀に近い金茶色になってしまっている。そのくせ肌は地黒だから余計に目立った。その髪の毛をぐちゃぐちゃにしながら、どうして俺がこんな思いをしなければならないのだという気持ちで胸一杯の柾樹は、理由のわからない緊張で自分がうまく喋れているか自信が無い。千尋も長二郎も揃って固まっていた。
そして当然というか、誤解された。
「お前なぁ……腐っても子爵家の跡取りだろ? ここだけは立場をわきまえてだな」
「そうだぞ駆け落ちするならせめて、こう、行き先くらい考えてから……」
「違うーーーッ!! 違う違う! 断じて違う! そんなんじゃなくてだなッ!」
脱力しきった表情の二人に弁解しようとしたそこで、絹を裂くような女の悲鳴が聞こえる。
柾樹は咄嗟に裏口から飛び出した。路地へ出るとさっきより少し離れた場所で、白い女が月を背に振り返る。一緒にいて慣れたと思っていたのだが、少し間が空いただけで初対面時のショックがぶり返した。危うく消えそうだった魂を持ち直して早足で近付き
「今の声……、お前じゃねぇよな?」
尋ねると、雪輪が俯きがちに「はい」と答える。それから
「今、その道を芸妓が通りました」
震える細い指を伸ばし、さっき入ってきた通りを指差した。
両国界隈は大きな料亭も多いので、きっとお座敷帰りの芸者だろう。
雨も上がって月の出てきた帰り道。通りかかった小路を何気なく見やったら、そこに白っぽい女がぼうっと立っていて、目が合ったという塩梅に相違なく。先方は悲鳴を上げ、一目散に逃げ去ったのだった。逃げたくなったその気持ちは、柾樹もわからなくはない。表通りを覗いたが見た限り人っ子一人おらず、通りは静かなものだった。
こうして無駄な疲れと雪輪を連れて入った古道具屋。友人達には事前に「驚くなよ」と前置きをしたが、そこでも似た現象がおきた。
柾樹に命じられ勝手口から入ってきた娘を一目見るなり千尋は腰を抜かし、普段あまり顔色の変わらない長二郎も、思わず後ずさって柱にぶつかった。女が来ると聞き、何となくそわそわしていた二人の浮つく気分など、それこそ根こそぎ消滅してしまう。ランプの灯りに浮かび上がる娘の姿に二人とも声も出ないまま、目だけが柾樹へ説明を求めている。でも柾樹は疲れていて、こいつらにここまでの出来事を一から話すなど億劫だった。
「まぁ、こういうわけだ。よろしく頼むぞ。俺はもう寝る。疲れた」
お前もその辺で寝ろと娘に言い、柾樹は勝手に家へ上がりこんで奥へ行ってしまう。
「ちょ、ま、待てッ! 何が『こういうわけ』だ! おい、待てって! 柾樹ッ!」
千尋が悲鳴に近い声で呼び止めても、知らん顔。
置いてきぼりにされた三人のうち、男二人は恐る恐る土間を見た。そこには全身をそぼ濡らした青白い顔の娘が、何故か身体を小刻みに震わせながら、異様につりあがった黒い眼で彼らを見つめている。
「雪輪と申します。ご厄介をおかけするかと存じますが、暫くの間、何卒宜しくお願い申し上げます」
娘からは思ったよりも常識的な台詞を添えて、丁寧なお辞儀をされたとはいえ
「あ……、ハイ」
「こちらこそ……」
青年たちは返事をするだけで精一杯だった。