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田上長二郎

 蔵の二階で、雪輪は耳を澄ませていた。膝の上には赤い小袖。畳に座り、じっと意識を集中させるが、何も『聞こえて』はこなかった。


「そう都合良くは、聞こえぬか……」

 やがて集中を解き、青白い顔をした娘は呟いた。細かく震え続ける指の先で、小袖を撫でる。ふと視線をやった四角い窓の向こうには、切り取られた外の世界があった。白い光で照らされた楠が、青々とした木陰を作っている。緑の隙間から、夏の日が蔵の中へと零れ落ちていた。雪輪は微かに息を吐く。聞こうとしていたのは、『過去』の声。


 故あって、雪輪は浮世とは異なる世界に関わっている。そのため古道具に触れると時折、『過去』の声や音が『聞こえる』ことがあった。どうやら古道具やそこに宿る九十九神を介して、膨大な時間の流れの中の、極小さな一点に触れているらしい。人間であるため『過去』しか拾えないのだと、火乱が言っていた。


 普段は特に興味の無いこんな能力に、今の雪輪は少しだけ用事があった。古道具屋に下宿している書生たちが、片付けついでにと母屋から運び込んできた長持。それを開け、わざわざ古い小袖を取り出す程度には、用事があった。


――――話せないか。


 もう一度この小袖を通じて声を聞き、僅かでもこちらの声を『相手』へ届かせる事は出来ないかと、試していたのである。経験的に、それが不可能なのは知っていた。未来は過去に干渉できないようなのだ。しかもこの力は、己の意志では操れない。おまけに一方通行だった。『向こう』の声は聞こえても、こちらの声は届かない。


 雪輪はしばらく試みていたが、やはり無理な様子だった。周囲は静かで、九十九神達すら出てこない。諦めた娘は、丁寧に小袖を畳んだ。


「呼んでいない時には、出てくるのに……」

 つり上がった真っ黒な瞳が、やや恨めし気に周囲を眺める。そこには蔵の黒い柱と、壁があるだけだった。最近までこの壁一面に掛けられていた槍や薙刀は、今は無い。何故なら槍達は先日、自らの意志でここから飛んで出て行った。


 この前、古道具屋の裏庭で起きた癒天教の大捕り物と、柾樹が蔵から転げ出た一件。これに関しては『地震だった』という事で、古道具屋内での見解は一致している。しかしちょっと事情が違った。


 あのとき、雪輪は最初から蔵の二階で騒ぎの一部始終を見ていたのである。ちなみに柾樹も蔵の二階に居た。でも彼は昼寝に忙しくて、起こしても起きなかったのだ。やがて千尋達も加わり、大きくなっていく河童騒ぎ。蔵の中で雪輪は迷った。階下へ降りて助太刀すべきか否か。すると迷っていた耳に、長二郎の叫ぶ声が聞こえたのだ。


――――僕以外は助けてやってくれ! 巻き込みたくないんだ! 頼むよ……ッ!


 雪輪にとって、あの言葉は痛かった。ぎくんと胸が痛んだのを覚えている。


 たぶん動揺したのだろう。急激に感情が波立った。その波に触発され、ぎょろりと目を覚ましてしまった者達がいた。柾樹ではない。蔵の槍や薙刀、古書や車箪笥。それら古道具に宿った『九十九神』だった。そして異界より現れたこの世ならざるモノたちは、柾樹に飛びかかったのである。飛びかかる方も無遠慮だったが、階段を転げ落ちながら攻撃を全部避けた柾樹も大概だった。結果的に彼が起きて癒天教の連中を粉砕してくれたので、良かったのかもしれないとはいえ。


 青白い顔の娘はあの日の出来事をなぞりつつ、考える。


 思い返せば、蕎麦屋の娘が蔵の窓に幽霊を見たと言って大騒ぎしたのが発端だった。鈴が帰った後。“幽霊”を冷やかしに黒漆喰の蔵へやって来た長二郎から、雪輪は尋ねられたのだ。


「雪輪ちゃん、それ、どこから……?」

 相当驚いたのだろう。煎餅を分けに来てくれた貧書生の顔は、やや青褪めていた。


 『それ』とは、雪輪が手にしていた赤い小袖のことだった。これはたまに古道具屋へやって来る床屋の主が、『静御前の小袖』と主張し、隠しておこうと古道具屋へ持ちこんだ品だった。その旨を伝えると、長二郎は小袖をためつすがめつしながら「うーん」「ほー」としきりに感心していた。そうして一頻り感心した後


「間違いない……見覚えがあるよ」

口中で呟き

「これ、僕の母上のだ」

そう零したのである。衿の部分にあった小さなシミは、赤ん坊だった弟の涎の跡なのだとも教えてくれた。


 用心深い長二郎にしては、随分と不用意な発言だったろう。そしてそんな彼の話しを聞きながら、渡された煎餅を手に、雪輪は気付かれない程度の密やかさで溜息が漏れたものだった。


――――では先程の『声』は、貴方のお母上様でしたか……。


 血が通ってないかというほど真っ白な顔の裏側で、そう囁いていた。先刻、赤い小袖に触れた時、雪輪の頭の中で、ある声が聞こえていた。


《この小袖は、残しておいて下さい……》


 優しい女の声が、誰かにそう頼んでいた。少し独特の訛りを持つ声は、更に言った。

《長二郎が上の学校へ行くとき、これで色々と支度してやりたいがです。あの子、何も言わへんでしょう……可哀想で》

 知人と同じ名が出てきて、小袖を手に雪輪は大層吃驚したのである。そこへ


《いらん心配はせんでええ》

今度は囁く男の声が聞こえた。声に潜むぬくもりで、この二人は夫婦なのだと雪輪はほぼ直感した。恐らく彼らは、小袖を売るか売らないかの相談をしていたのだ。男の声は続けて言った。


《長二郎に学問はさせる。学校へ行く支度の金も、わしが何とかする。あれは身体は強ないが、幸い頭の出来はそう悪ない。軍人にはなれんとしても、学問は身に付けさせるつもりじゃ。時代がどないな方へ転ぼうと、生涯の助けとなるさけな……あれが一人前になるまでは、きっとわしが守る。だが、まずはお前の病を治すのが先じゃ》


 夫はとくとくと言い聞かせていた。それを聞くと、病み臥せっていたと思われる妻は、ふふと照れたみたいに笑っていた。


《たまには長二郎と、何や美味しいもの、召し上がって下さい》

《病人の薬が先やと言うておろうが。当家の唯一の男子じゃ。甘やかしてはならん》

《でも近頃、私は加減が良えがです。もうすぐ治る気が致します……いいえ、きっと治ってみせます。負けるものですか》

 か細い中にも、凛とした口調で言う。それでいて明るさとは裏腹に、声はもはや我が身が助からない事を悟りきっているようにも聞こえた。


《武士の妻でございますさけ》


 妻は小さな声で言った。微かにおどけた風な、小娘が大事な秘密を教えるみたいな声だった。武士の妻という『おまじない』で、自らを奮い立たせていたのだろうか。そういう妻を前に、夫はどんな表情をしていただろう。雪輪には想像も出来ない。


 「どうした?」と柾樹に呼びかけられるまで、雪輪は四君子の咲き乱れる小袖を手に、ぼうっとしていた。そのため小袖を着ろだの何だの言われた時も慌ててしまい、言われるままやってしまった。そしてウッカリそんな事をしている内に、幽霊騒ぎへ発展してしまったのである。


 小袖を見た時の長二郎の表情や、聞こえた『声』。それらから総合的に判断して、彼の母親は亡くなったではないかと雪輪は思った。けれど、離縁しているだけということも無くはない。何れにせよ、詮索は無用と結論付けていた。後日、長二郎の母親がやはり亡くなっていたと千尋から聞かされて以降も、雪輪は特にこれといった行動をとっていない。小袖の『声』の内容についても、長二郎に伝えていなかった。まず雪輪に、他人へこの能力を打ち明ける気が毛頭無い。それに伝えても仕方無いと思った。大体、肉親が苦労していた過去を、何が楽しくて他人の口から聞かされなければならないのだろう。


 ただ一度、長二郎が沈みきっている姿を目の当たりにした晩だけは迷った。


――――どうして僕なんかが残ったんだろうなぁ……。


 生き残った我が身を嘆く長二郎の言葉を傍らで聞き、雪輪は少し腹が立った。長二郎の嘆きは、至って自然な情動である。それを理解して尚、彼の両親のやり取りを知っている分、歯痒さに似たものを感じた。おそらく進学の際に必要な金の支度には、赤い小袖も役立てられたはずなのだ。


 だがそういった経緯を経ても、雪輪は沈黙を守った。破けていた彼の着物を繕ってやりつつ、余計なことは一つ二つ言ったものの。


 余計なことと言えば、もう一つある。

 先般。千尋が気を利かせて、あの赤い小袖を袋田氏から譲り受けてはどうかと長二郎に提案していた。事情を話せば、あの床屋の主人はきっと、元の持ち主の所へ小袖が戻ることに賛同してくれるに違いないと勧めたのである。が、長二郎は千尋の提案を断っていた。


「僕には必要ない。風呂敷包み一つあれば、それで十分さ」

 そう言って、母の形見の小袖を手元に残そうとはしなかった。


 どうして断ったかの仔細については、雪輪も知らない。知らないながらも、長二郎の発言は、意地や誇りばかりが由来ではないだろうと見ている。


 本当に必要なかったのだ。彼の手元に残った風呂敷包みの中身は、使い古した筆墨と書物と、四つの位牌。それで十分だったに違いない。その身軽さは、あまりにも心許ないというか、風通しが良過ぎるようにも見える。食いしん坊で欲張りな、長二郎らしくない。


 それでも、もしかしたら彼は。

 通りの良過ぎる風の中にこそ、消え去った誰か達の存在を感じる日が、あるのかもしれない。何より、赤い小袖の最後の持ち主だった女性は、こんな息子を見たら、何も言わずに微笑むのではないか。思ったより早く自分たちの元へ来てしまった夫を、叱りながらも。少なくとも雪輪は、そんな気がしている。


「ご安心召されませ。田上長二郎殿は今も決して、お一人ではございません」


 古い小袖を長持へ仕舞うと、蔵の娘は囁いた。

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