眠れぬ夜
「直りそうかい?」
夜闇に沈む部屋の奥から出てきた長二郎が囁く。破けた着物の袖を繕っていた雪輪は、土間に近い十二畳でランプの灯りに照らされる顔を、少し上げた。手を休め、「はい」と答える。長二郎は微笑みながら近寄って、娘の斜め横に座り込んだ。
「全く……酷い目にあったもんだよ」
呟く青年の目は、震える娘の指が着物の破けた箇所を一針ずつゆっくり縫っていく様を眺めていた。昼間、癒天教の押し込み騒動の際に破けてしまったのである。庭を通って流れ込む涼しい夜風が、蛙の声を運んできた。
あの後も、古道具屋は大騒ぎだった。
五丈が子供達に連れ去られたと思ったら、今度は弥助を筆頭に警察が乗り込んできたのである。鈴の母親が娘と長二郎の身を案じ、警察へ届けたのだった。
昼日中に始まった大捕り物に釣られて、野次馬まで古道具屋の周辺へ押し寄せて来る。既に柾樹がボロボロにしていた皿頭達は抵抗する気力も失い、衆人環視の中を引っ立てられて行った。野次馬達がそれに続き、古道具屋の留守居書生たちも騒ぎの顛末について証言するため、飛び出した古道具を蔵へ放り込むだけ放り込んで警察署へと出向いた。騒々しく過ごしているうちに、長い夏の日も暮れてしまう。一同が戻ってきた頃には、夜になっていた。
くたびれて帰って来た書生達は庭の土蔵から女中を呼び出すと、買ってきた天ぷらを渡してとりあえず酒の仕度をさせた。そして警察での聴取内容その他を披露し合っている間に、雪輪が天ぷら茶漬けを運んでくる。ご飯に掻揚げの天ぷらを乗せて塩を少し降り、お茶をかけた簡単なものだった。それを掻き込んで、それぞれがナワバリへ引き上げて二時間ほど経過しただろうか。
古道具だらけの部屋の中も外も、虫と蛙の声に支配され深まる夜の中。長二郎が起きてきたのである。癖っ毛気味の若者は、自分が頼んでおいた繕い物をしている雪輪の手元を、飽きもせず眺めていた。その目は娘の震える指先より、ずっと遠くを眺めている。上機嫌な酔っ払いの笑い声が、表通りを過ぎていった。
すると、縫い物から目を逸らさないまま雪輪が口を開いた。
「この際」
その声に、長二郎は一瞬遅れて「ん?」と反応する。ちょっと眠い目を上げると、無表情の白い横顔がランプの揺れる灯りに照らされていた。
「一つ残らず警察にお話ししてしまうのも、良いのではございませんか」
何でもない風に、雪輪は言った。
「わたくしは、ステテコ踊りのままでも宜しいかと存じますが」
まさかこの娘の口から、『ステテコ踊り』という単語の出てくる日が来るとは予想だにせず。ステテコ踊りにも吃驚した長二郎だったが、それ以外の点でも驚いていた。
「……知っていたのかい?」
たっぷり間を空けた後、確認とも質問ともつかない声を漏らす。日頃の癖で薄く笑んでいるけれど、目元が笑えていなかった。この娘は長二郎がまだ周囲に『隠している』ことを、知っている。
「他の奴らには?」
「誰にも申しておりません」
向けられた質問に、雪輪は事務的な口調で答えた。不思議なものだが突き放すようなこの無感情さで、逆に長二郎は緊張が解ける。僅かに安堵した。
「君が事情を知っているという事は、柾樹か千尋に何か相談でも持ちかけられたってトコかな?」
陽気な調子で、長二郎は問いかける。膝を崩したオンボロ袴の問いで、雪輪は一度手を止めた。小刻みに震え続ける真っ白な手を膝の上へ降ろす。
「……柾樹さまが、『悪霊に取り憑かれると、何故人間は飛ぶのか』と仰って」
話し出したが、その声には微量の脱力感が混ざっていた。
「アイツ、まだそんなこと気にしてたのか」
長二郎も呆れた。
昼過ぎに古道具屋へ戻った柾樹は、その足で蔵へやって来たという。そして昼でも涼しい蔵の中でごろごろしたりあやとりをする傍ら、突然雪輪に悪霊云々の質問をし始めたのだ。当然、話しの前後が全く見えない雪輪は、何ゆえそんな事を考える羽目になったのかと尋ねる所から話し始める必要があった。意味が分からない。そこで柾樹は長二郎と父親の癒天教にまつわる一件について、自分の知っている限りを娘に説明したのだった。
一先ず、悪霊と周辺事態については『それほど恐ろしいという、モノの例えなのでは?』と雪輪が説明すると、あの青年はそれで満足したのか寝てしまった。基本的にへそ曲がりで天邪鬼な柾樹だが、たまに信じられないほど素直な反応をすることがある。おかげで悪霊についての話しは片付いた。でも雪輪は柾樹の物語を聞きながら、別の事を考えていたようで。
「どの辺りで勘付いたの?」
優しげな声で尋ねる書生に
「河豚を一尾丸ごとお汁に入れたと、お聞きした時に」
針仕事を再開して、雪輪は答えた。
「河豚は種類や季節にもよるそうですが、毒は特に肝と卵、皮にあります。料理をするときには皮を剥ぎ、血を洗い、肝や腸を棄てるものです」
「君もよく知ってるね?」
長二郎は驚くのを通り越して感嘆すら覚える。どこで覚えてくるのか知らないが、雪輪は医学から雑学的な事までよく知っていた。しかし河豚の扱いまで知っていなくても良いだろうと思う。娘は長二郎の言葉に答えず話しを続けた。
「ですが、お父上様はいかにも奇妙な召し上がり方をなさっています。河豚の毒に、自ら当たろうとしているようなお振る舞い。聞けば、生真面目なお方だったとのこと。ならば尚の事、ご道楽や酔狂ではないでしょう。貴方様のお父上が、子供も知っているような河豚の毒について無知であったとも思えません」
若い娘にしては低めの声で、ぽつぽつ語っていた言葉が途切れる。つり上がった真っ黒い瞳が青年を見た。
「最初から、ご自害されるおつもりだったのでしょう? そうまでされる、何かご事情があったのでは? そしてそのご事情とは、癒天教と関わりがあるのではございませんか? それはたとえば、原山伝助の行方知れずと関係がおありであったりするような」
聞くなり、長二郎がニヤッと笑った。
「アタリ。参りました。仰る通りでございます」
芝居がかった口振りで言い、顔を上げる。
「父はね。原山伝助の死体を埋めるのを手伝わされたんだよ」
語る表情は、場違いに明るかった。
「五丈達は逃げた三姉妹の行方を聞き出そうとして、原山伝助を癒天教の道場まで連れ去ったんだ。しかし、どうも五丈達にあまり悪気は無かったようだね。伝助が嘘ばかり言うから『悪霊を落とすため』に水攻めにしたら、息の根を止めてしまったんだとさ。それでも人殺しはまずいだろう? そこで死体の片付けに困って、道場の裏の空き地に埋めたんだ。父はこれを手伝わされたんだよ。五丈達から言われるままに動く以外、何も出来なかったんだ。連中を正すどころか、逃げることも出来なかったってわけさ。情けない話しだよ。せめて奴らの悪事を詳らかにして、自分も腹を詰めるくらいのことすれば少しは格好がついたってのに。いやぁ、あそこまで臆病者だとは思わなかった」
大きく手を振り、失敗談を語る時の陽気さで長二郎は言う。
「父は何度か自決しようとしていたみたいだ。だが怖くて出来なかったんだよ。それで自分も何もかも嫌になっていたところへ、河豚が降って湧いたものだから、後先考えずに飛びついたというわけさ」
青年は髪をくしゃくしゃ掻き、困ったみたいに微笑んでいた。
「されど、思ったように死ぬことは叶わなかったのでございますね」
雪輪は静かな声で呟いた。
「そういうこと。楽して死のうなんて考えが間違っているんだ」
長二郎は尚も明るく言って、ランプの光が作る深い影と薄い煙が揺れる天井を仰いだ。雪輪は床へ視線を落とし、長い睫毛を伏せる。
「毒が弱かったため、仮死状態から息を吹き返してしまわれたのでしょう。樒の葉を入れるため、何度目かに早桶の蓋を開けたら、お父上様と目が合って……」
「何で知ってるの」
青年が思わず隣を見ると、目が合った娘は微かに首を傾げた。
「焼き場へ向かう夜道で転んだのは、わざとでしょう?」
「え」
「如何にもわざとらしゅうございます」
雪輪に言われ、長二郎は口を閉じるのも忘れる。
「人払いをするために、転んで早桶を壊したのでございますね。何故なら中に潜んでいるお父上様が、生きていらっしゃることをご存じだったから。周りに知らせないで欲しいと、密かに頼まれたのではございませんか? そこで貴方様は何とかして他の人には知られぬように、ここから逃がさなければと機会を伺っていらっしゃいました。ちょうどそこへ、猫が飛び出してきたので……」
橙色の灯りの中で娘がそこまで言うと、書生は諸手を上げた。
「あ~あ、そうですよ。その通り。エイヤー! と後ろから思いっきり蹴飛ばしたんだ」
投げやり気味に白状した長二郎は、大きな溜息を一つ吐き項垂れる。前屈みになるとそれまで明るかった表情に、俄かに影が差した。
「安物の早桶は呆気なく壊れてくれたよ。おまけに怖がりの又一さんが大騒ぎしたものだから、五丈もその場から離れてくれた」
見張り役として死人の息子を一人を残し、代わりの桶を調達するため、同行者二名は元来た道を戻っていった。やがて彼らが闇の彼方へ消えるのを確認した後、長二郎は樒の山に飛び掛かり、埋もれていた父親を引きずり出したのである。乗政は脱出してからも、しばらくむせ返っていた。
――――父上! これは何事ですか?!
樒の葉を払いのけて尋ねる次男坊に、すっかり痩せた肩を落として父親は言った。
――――長二郎……わしはもう駄目だ。
もはや老年の気配漂う枯れた声で父が語り出したのは、自分が人殺しに関わったという告白だった。乗政の声は弱々しく、提灯の弱い光を灯りを反射する眦には涙が浮かんでいた。
長二郎は何も考えられなくなった。癒天教の悪い噂は聞いていた。いつかこんな事も起きるのではないかと危惧していたのだ。悪夢を見ているような気がした。目の前には、今にもこのまま死体に戻ってしまいそうな父親が背を丸めて地面を見つめている。父は額に擦り傷まで拵えていた。早桶がひっくり返った時にぶつけたのだろう。
長二郎は膝をつき、懐に抱えていた自分の癒天膏を取り出して、父の額に塗ってやりながら言った。
『警察へ行きましょう。全て話すんです。そこでお裁きを受けて下さい。その後、癒天教からきっぱり足を洗って、やり直しましょう』
それ以外、出来る事も成すべき事もない。
そのとき、遠くから近付いてくる小さな灯りが目に入った。こんな時間にこんな場所で、そうそう通る者はいない。それに光の動き方でわかった。
『戻ってきた……』
五丈たちが戻ってきたのだ。長二郎は立ち上がり、闇に揺れる灯りに目を凝らした。まずはこの場をどう切り抜けるか、思案しようとしていた。すると、背を丸めていた父が突然立ち上がったのである。
『長二郎。すまん……少しばかり時間をくれ』
袂や懐に挟まっていた樒の葉を払い落とし、言い出した。
『な……?』
急な事に加え、声がさっきと違うことに長二郎は驚いた。今の声は、昔の父の声だった。河童信心を始める前。長二郎の勉強を見ては、口やかましかった頃の父の声に戻っている。提灯の灯りではハッキリ見えなかったものの、隣に立つ父の表情が変わっていた。何故父が正気に戻ったのか、理由もわからない長二郎に
『すまん。必ず戻る! 今この時だけ、見逃してくれ!』
裸足の足で一歩二歩と後ずさり、乗政は来た道とは反対側の暗闇の向こうへ走り出した。
『父上!?』
息子の呼ぶ声に返事はなく。土を蹴る音は月の無い夜空へ消えていった。でもここで長二郎に、狼狽している暇はなかった。背後から又一の呼ぶ声が聞こえてきたのだ。
『おーい、待たせたな! 運が良いぞ、そこの家でちょうど空いた大きな漬物桶があったんでな。事情を話してそいつを譲ってもらったんだが………? おい、どうした? 親父さんはどこだ?』
空の漬物桶を担いで戻ってきた男達は、揃って辺りを見回す。夜と夏草と樒の匂いを孕んだ風が吹いて、地面に山となっていた木の葉を舞い上がらせる中
『じ、実は……』
長二郎は腹を決めた。
「……それで『飛んで行った』と、咄嗟に嘘を吐いたのでございますね」
死人が飛んで逃げた晩の真相を聞き、雪輪が話しの先を繋げる。橙色のランプの灯を見つめ、書生は小さく笑った。
「あはは、あんな嘘をつくなんて、あの時の僕は相当取り乱していたんだろうね……さて、どうする? 偽証した僕を、警察へ突き出すかい?」
上目遣いで娘へ問う。
「どうやって?」
雪輪はぴくりとも表情を変えず、逆に尋ねてきた。問われて、ハタと考える。
「ああ……うん。そうか。君は外に出られないか」
気まずくなった長二郎は、口の中でもしょもしょ呟いた。外界との接触を神経質なまでに拒んでいる雪輪である。この件を警察へ届け出る事も、長二郎を巡査へ突き出す事も難しい。青年の様を雪輪はつり上がった横目で見て、縫い物を再開した。
「知っていながらお上に申し上げないとなると、わたくしも同罪でございますね」
言われた側はうろたえる。「いや、君は別に……」と、また小声で呟くも、娘は何も聞こえない顔をして針と糸を操っていた。そうして縫い物を続ける女中の隣で、長二郎は数十秒間沈黙していたのが
「しかし骨折り損だったなぁ……せっかく僕が色々苦労したのに。親父殿ときたら尻尾を巻いて逃げ出した挙句、他所の家の屋根で死ぬんだから。やるべき事なら他に幾らでもあっただろう」
おどけに混ぜて零れ出す。雪輪が再び、針先を止めることなく口を開いた。
「お父上様はあの時一瞬、呪縛が解けていたのではございませんか。状況を不利と見て、一旦身を隠そうとなさったのでは?」
淡々と、無感情な声で言う。
「顔を隠そうとして、頬かむりをしておいでだったのでしょう。でも四ツ谷まで辿り着いたそこで、恐らく巡査か何かに見つかりそうになったのです。近くの建物の屋根へ上り身を隠していたのが、周囲の様子を伺おうと頬かむりを首まで降ろし、立ち上がった弾みで足を滑らせて……」
「屋根から滑り落ちたって? それでご丁寧に、首に掛けていた手拭が壊れた雨樋に引っ掛かって? 首を吊る格好になったと?」
娘の発言へ被せがちに長二郎は言う。長い黒髪の娘は小さく頷いた。
「自決のために首を括るなら、もっと他に具合の良い場所が幾らもあったはず」
雪輪が言う。けれどそれを聞いた長二郎は、恐ろしく冷めた目で微笑んだ。
「慰めのつもりか? いつになく優しいね。何を企んでいるんだ?」
只でさえ静かな室内が、シンと静まった。静けさを齎した青年は、すぐに細い吐息と共に項垂れる。
「……ごめん。僕はこんな言い方しか出来ないんだ。昔から」
背を丸め、俯いて詫びた。
「たぶん元々情の薄い人間なんだよ。材木屋で親父殿の死体に会ったときも、正直悲しむよりも先に、ホッとしていたんだ」
床を見つめ、自嘲気味な笑みを浮かべる。雪輪は何も言わない。着物の袖を繕い続けている。だから長二郎の言葉は殆ど独り言だった。
「どうして僕なんかが残ったんだろうなぁ……母上や兄上や、仁が生き残ったら良かったんだ」
唇に笑みを乗せ、華奢な書生は囁いた。
「そうすれば親父殿も、いかがわしい河童女なんか拝まなかったさ……あんな死に方しないですんだんじゃないかな」
一度溢れた後悔の言葉は、次から次へと零れ出す。
母の死後、狭い部屋で黙々と痛飲し、面白くもないことを言っては無理やり笑っていた父。たった一人生き残った者として、長二郎は兄や弟の分までと必死になって勉強した。でも何をしても一つも褒めてはもらえず、叱られてばかり。たとえ学校で先生から勉強を褒められたと伝えても
『お前は阿呆なのだ。勘違いをするな』
と、そんな事しか言われなかった。
――――僕じゃ足りないんだろうな。
そう思っていた。自分のような倅では、張り合いが無いのだろうと思った。もし自分の頭脳がとびきり優秀だったら。周囲に自慢できる才覚があれば。もっと心身が強かったら。あるいは
「もっと勉強していれば……何か違っていたかなぁ?」
鳶色髪の痩せた若者は、幽かな声で呟いた。そこへ糸を切る音がして、繕い物を終えた雪輪が言う。
「直りました」
娘は相も変らぬ無表情だった。着物の主が目を上げて見れば、破けていた袖の部分は綺麗に直っている。震える娘は針と糸を箱へ仕舞うと、まだぼうっとしている長二郎に尋ねた。
「明日は長屋の片付けに行かれるのでございましょう? もうお休みになられた方がようございます」
無愛想なくせに、存外世話焼きな事を言った。
「眠くない」
長二郎は不貞腐れた声で答える。駄々をこねる青年を真っ黒な瞳で一瞥して、雪輪は短く息を吐いた。
「では、甘酒をお持ち致しましょう」
直した着物と裁縫箱を傍らに置き、腰を上げかける。が、途中で止まった。
白い娘の視線の先には、下を向いたきり動かない長二郎がいた。雪輪はゆっくり瞬きした後、黙ってその場に正座し直す。そうして先ほど直したばかりの着物を広げると、鳶色の頭にふんわり掛けた。
「後悔もまた、弔いとなりましょう。御存分に後悔なさいませ」
木綿の紺絣の下にいる人へ、静かに言う。
「しかしながら貴方様は、お一人でよくなさいました。この一事だけは、お疑いにならないで頂きたいのです」
娘の言葉で、青年の痩せた肩が僅かに身動ぎした。
「お優しいご子息でございますとも。これまでも、今も」
そう囁いた後。白く細い指先が布越しに頭を撫でてくれた気がしたのだけれど、気のせいだったかなと長二郎は思っている。




