襲撃
一言で言えば、油断した。
父が死んで以来、長二郎は単独で行動しないよう心掛けていた。どうしても一人で動かなければならないときは、最短距離を選んで動くようにしていた。しかし今日、賃訳を届けて金の入った帰りの道中。ほんの少し寄り道をしたくなったのだ。それで野村庵に立ち寄った。これがいけなかった。
――――やめておけば良かった。
古道具屋で探し物をしながら、長二郎は後悔していた。さっきから半ば上の空で、座敷を一人うろうろしている。探す気が無いものだから、時間ばかりが経過していた。探しているのは幼い頃、近所の婆さんがくれた『万能薬』。
『持っているだろう?』
先刻、蕎麦屋の前に五丈達が突然現れ、長二郎を取り囲んで詰め寄って来たのだ。婆さんの軟膏について、「自分達の物であるから返せ」と彼らは言った。どこで長二郎が薬を持っている事を知ったのかはわからない。けれど壁に耳あり障子に目ありという。きっと誰かが、こいつらにいらぬことを告げ口したに違いないと思った。それにそんな瑣末なことはどうでも良い。そもそも長二郎は五丈達の話しなど、頭から信じていなかった。
――――『薬壺』は、僕を連れ出すための口実だな。
そう判断していた。癒天教に目をつけられる理由なら、嫌と言うほど心当たりがある。
だから最初は一先ず蕎麦屋を離れ、隙を見て逃げようと考えていた。だがそこかしこに見張りがいる事に気がついて、逃げる事は途中で諦めた。何か他の手立てを考えるしかないと思った。いっそその場で大騒ぎして、警察沙汰にでもしてしまえば良かったのだと思い付いたのは、古道具屋へ辿り着いてからだった。自覚していたよりずっと焦っていたし、混乱していたのだろう。
――――こうなってしまっては、もう仕方がない。
長二郎は衣類を入れてある葛篭の隙間から取り出した小さな壺を片手に、勝手口へと向かった。ゆっくり下駄を穿いて裏庭へ出ると、そこには五丈をはじめ、頭に皿を乗せた男女10名が不気味な静けさで待っている。ここだけではない。庭の方や店の前も、癒天教から差し向けられた男たちが見張っているのだ。長二郎が数えた限り、内外合わせて15人はいた。多勢に無勢である。華奢な青年は僅かに顔をしかめた。ここはやはり、言われた通りにするしかない。
「これです」
長二郎が茶色の薬壺を差し出すと、五丈がおもむろにそれを受け取り、蓋を開けて中身を確認した。
「おお……たしかにこれだ。間違いない」
大男は落ち窪んだ眼窩の目を輝かせる。周囲からも小さくどよめきが起こった。感激している人々の中、長二郎は一人で白け切っていた。同時に、こいつらは本当に薬壺が欲しかったのかとわかって、ちょっと拍子抜けする。
「もういいですか?」
壺を懐へ仕舞い込んでいる五丈に向け、痩せた書生は溜息交じりで切り出した。
「五丈さん。父も僕も色々と世話になりました。今更こんな事を言うのも申し訳ないですが、僕はあなた方とこれ以上関わり合いたくないのです。父も亡くなったことですし、今後こちらのことは放っておいて頂けませんか」
顔を強張らせた長二郎は、淡々と申し出る。すると
「そうはいかない」
女郎蜘蛛みたいな男はそう言って、長二郎ににじり寄った。草履が乾いた土を踏みしめる音がして
「父親からどこまで聞いている?」
頬骨の浮き上がった顔面を近付け、暗い声で囁いた。
「聞いているって……何を?」
「とぼけるな」
背の高い男は目を剥き出し、自分を見上げて微笑む若者の言葉を遮る。
「原山伝助のことだ」
一際声を落として囁いた。乾ききった唇と土気色に近い五丈の顔色は、重篤な病人を思わせる。
「一体何ですか? 僕は何も……」
尚も頬笑みを顔面に貼りつけ、首を傾げる長二郎を大男は黙って見下ろしていた。それがやがて後ろへ一歩下がると、口を開く。
「お前たち親子は長い間、この妙薬を隠し持っていた。この薬で、死んだ父親も生き返らせたのだろう?」
突如、大声で言う。想像もしていなかった事を言われ、長二郎は一瞬声が出なくなった。
「そ、そんなわけないでしょう!? あれは、河豚の毒が弱かったからで……!」
俄かに平静さを失い、怒鳴り返してしまう。食って掛かろうとしたそれを、五丈の大きな手が再び遮った。
「そう何度も騙されるか! 道場へ連れて行くぞ!」
五丈の声と共に、後ろで控えていた皿頭の男や女が長二郎を取り囲んだ。たちまち無言で腕や頭へ掴みかかってくる。
「わ、は、放せ!」
乱暴に首へかけられた縄を振り解こうと、長二郎は手足を振り回して暴れた。途端に、手下たちへ五丈の命令が飛んだ。
「止まるな! 怯んではいかん! 曼福様の仰せだぞ! そんな事では各々方も、再び前世の因果に絡め取られてしまうぞ! 曼福様に全てをお預けするのだ! 迷いが生じるのは信心が足りん証拠だ! 弱い心を切り捨てるのだ。この者は現世の嘘と汚濁にまみれている! 我らが曼福様を信じきる事が、この憐れな青年を救うことにもなるのだ。さあ唱えよ!」
指揮者の音頭により、皿頭の一団は声を合わせて歌い始めた。
「かっぱっぱー、うんぱっぱー、かっぱっぱー、おんぱっぱー」
歌とも呪文とも判然としないものを唱えながら、人々は何処かから持ちこんだ大きな麻袋を、捕えた人間に覆いかぶせようとする。地面に引き倒され、長二郎は顔面を地面に打ち付けた。口に土が入り込み、抑えつけられた恐怖で総毛立つ。同時に泣きたくなった。自分はこんなにも大変な危機へ陥っているのに、その伴奏が「かっぱっぱー」である。
「いやだあああ! 放せぇッ!!」
死に物狂いで喚いたその時、裏の戸が壊れそうな勢いで開いた。裏庭へ、千尋と鈴が飛び込んでくる。
「長二郎!? 何やってんだアンタ達!?」
「田上さん!!」
汗だくになって肩で息をした二人が、口々に叫ぶ。
「長二郎を放せ、人を呼ぶぞ?!」
千尋が皿頭の人々を怒鳴りつけた。見るからに腕っ節の強そうな青年に凄まれ、長二郎を抑えつけていた面々は一瞬怯んで動きを止める。だが
「仕方ない。そいつらも一緒に連れて行け!」
人々の後ろから五丈が命じると、皿頭の人々はそれだけで魔法がかかったみたいに再び勢い付いた。荒縄を手に、今度は鈴と千尋にも飛び掛かってくる。
「鈴! 逃げろ!」
地面に倒れたまま咄嗟に長二郎が叫んだ。しかし
「きゃあああ! やめて! 放して下さい!」
鈴は悲鳴を上げながら、バッタバッタと三人投げ飛ばした。鈴は見かけより馬力も戦闘力もある娘だった。千尋が飛びかかり皿頭の人々を追い払った隙に、駆け寄った鈴が囚われ人を皿頭集団の手から助け出す。
「田上さん、大丈夫ですか?!」
おさげ髪の娘が長二郎を助け起こそうとしたそこへ、新たに若い男三人が裏戸から木刀を手に雪崩れ込んでくる。男達は物も言わずに千尋の後ろ頭を殴りつけた。
ガッ! という硬い音がして千尋が倒れ、続けざまに鈴も背後から飛び掛かられ取り押さえられてしまう。
「きゃあ!」
「うわ……ッ!」
顔面を蹴りつけられた長二郎も、後ろへ吹き飛ばされた。後は数がものを言う。また起き上って来た皿頭達に寄ってたかって押し潰され、二人とも取り押さえられてしまった。
「大人しくせんかぁ!」
目を血走らせた男達が怒鳴る。無骨な手が、綺麗な長い濃茶色のおさげ髪を強引に引っ張った。「痛ッ!」と鈴が小さく叫ぶ。
「わかった! わかったから僕以外は助けてやってくれ! 巻き込みたくないんだ! 頼むよ……ッ!」
ねじ伏せられ大きな袋に詰め込まれる直前、長二郎が叫んだ。その瞬間
ガシャン……!
と、台所で何かの落ちる音がした。
人々の動きが一斉に止まり、裏庭は水を打ったように静かになる。音がしたのは、薄明るい台所だった。人影は無い。どこから落ちてきたのか鍋が一つ土間に転がっていて、場の緊張が緩む。一瞬後。台所の笊や釜が、カタカタと小刻みに震え始めた。振動は次第に拡大し、家屋も蔵もギシギシガタガタと細かく揺れ始める。
「な、何だ?」
「家が……」
「蔵もだ!」
突然の異常で、人々が僅かにうろたえた時。地鳴りに似た音が轟き渡って、家屋が一回ゴゥン! と大きく揺れた。驚く声と悲鳴が上がる。それと一緒に、「だわあ!」とか何とか蔵の方から声が聞こえた。続いて
「うっぎゃああああ!」
物がガラガラ崩れ落ちる猛烈な音が響き、黒漆喰の蔵から何かが飛び出して地面を転がった。茶色い土埃の中、むくりと起き上がったのは
「ま……柾樹……?」
寝起き顔の柾樹だった。と、唖然としている一同の前で琥珀色のぼさぼさ頭が横っ飛びする。転瞬
ドドドドドドドッ!
という爆発音に近い音と共に、蔵の扉から飛んできた槍や箪笥が古道具屋の壁へ激突した。もう少し柾樹が避けるのが遅れていたら、串刺しになっていたに相違なく。
壁へ突き刺さっている十数本の槍と、地面にめり込んだ車箪笥。木の葉のように舞い飛ぶ浮世絵などの古い紙切れを凝視し、息を荒げて金茶色の髪の青年はギッと顔を上げた。
「ふっざけんじゃねーッ! 壁に括りつけとけバカヤローがぁッ!!」
悪党の三下みたいな口の悪さで、蔵に向かって怒鳴っている。そして埃まみれで立ち上がると眼鏡をかけ直し、やっと周囲の見物人達の存在に気付いて「あ?」と目つきの悪い目を細めた。
「……テメェら、俺ン家の庭で何してやがる」
物凄く真面目な顔で言う。お前の家でも庭でもないだろうとは、長二郎もさすがに言う余裕がなかった。状況が状況である。
「鈴? お前まで何やってんだ?」
捕まっている人々の中に鈴を見つけ、珍しそうに言った。まさか鬼ごっこでもない。
「何って……」
「捕まってるんだよ!」
気が抜けた顔の鈴と、こんな時でも状況説明をする役回りの長二郎に、柾樹は「ふーん」と返事した。
「お、お前こそ何やってるんだよ?」
地面で拘束された状態の千尋が目を覚まし、首を持ち上げ掠れた声で尋ねると、珍入者は土埃を払いながら答えた。
「蔵で昼寝してたんだよ。そしたらさっきの地震で、壁にかかってた槍が全部俺の方に落っこちてきやがってだな。それ避けたら今度は階段から落ちるしよー……落ちてぶつかった弾みで、箪笥まで転がりやがって」
「いや、その箪笥とか、『転がった』って感じじゃないだろ……?」
「うるせーな、知るかよ。でも他に考えられねぇだろうが。あー、死ぬかと思った」
長二郎の指摘へ、面倒くさそうに言い返している。そのうち銀縁眼鏡は近くで目配せしあっている皿頭の集団をじろりと睨み
「そんなことより、事情がイマイチ飲み込めねぇが……おい、そこのハゲ」
まずは鈴を羽交い絞めにしている、禿頭に皿を括りつけた男を指差した。
「俺は今キゲンが悪い。でもまぁ、紳士だからな。少しだけ待ってやる。とりあえずそいつを放せ」
とてつもない上目線で言い放つ。もちろん禿男は銀縁眼鏡の要求など飲む気は無かったのだろう。懐から抜き出した匕首を、おさげ娘の鼻先に突きつける。「ひっ」と鈴が息を呑んだ。
「動くな。この娘がどうなっ……!」
男が言い終わる前に、柾樹の握り拳が顔面へめり込んだ。
「あッ!」
という短い声を残し、禿頭は後ろへ吹き飛んでいく。同時に柾樹は男の手から鈴を毟り取っていた。返す拳で横の一人を殴り飛ばし、残る一人の足元を掬って蹴り転がす。転がった男の顔面を上から踏みつけ、いつの間にか取り上げていた敵の匕首を、男の頭上に突きつけた。瞬きする間の出来事だった。
「放せ、つっただろうが」
一瞬で三人倒しても、柾樹の声は普段と変わらない。眼鏡越しの目の無感情さは、肉食昆虫のようだった。
「俺はキゲンが悪いんだよ」
そう言って、ぎょろっと横を見る。邪魔なものを排除する事に何の抵抗もない柾樹の眼に、癒天教の面々は僅かに後ずさった。だが
「怯んではいかん! 行けっ!」
五丈の声を合図に、再び荒縄や匕首を取り出し、叫び声を上げて一斉に飛びかかってくる。数では圧倒的に有利だった。でも柾樹が彼らとの間合いを侵略する方が早かった。
あっという間に新たに二人が殴り飛ばされる。次いで木刀を振り上げた男の顎を匕首の鐺で殴り上げ、脳天から殴りつけた。この二撃で頭の皿が割れた男は、それきり動かなくなってしまう。幾つもの手が服や髪を掴もうと、荒縄や刃物が怒声と共に飛び掛ってくる。が、柾樹は奪い取った木刀と匕首をくるくると使いながら、自分に触れようとする何もかもを竜巻の如く破壊していく。
「ギャッ!」
「ぐえッ!」
男も女も鈍い音と短い悲鳴を残し、地面に叩きつけられていく。誰も彼もが顔面を割られ血を噴出し、地べたで白い泡を吹き痙攣して足掻くばかりだった。
「こっ……この野郎ッ!」
どうにか竜巻から逃れた男の甲高い怒声がして、銃声が三度鳴り響く。
「きゃああッ!!」
鈴が耳を押さえてしゃがみ込んだ。だが三回の銃声の内、二回は柾樹だった。男は手中のピストルを弾き飛ばされ、頭に乗せていた皿も割られて硝煙の中、白目をむいて昏倒する。
「下手糞」
言いながら愛用の拳銃を手に笑う柾樹の顔は、楽しそうとしか言いようがない。寝起きの不機嫌は治ったようだった。
「どうして僕はあんな野蛮人と関わっているんだろう……」
「ま、まぁ味方としては、頼りになるんじゃないか……?」
混乱に乗じて地味に敵の手から逃れた長二郎と千尋が、硬直している鈴を残虐な光景からかばいつつ、裏庭の隅でぼそぼそ話しをしている。
「あ、あの、助けてあげた方がいいんじゃ……」
鈴がくしゃくしゃになったおさげ髪を撫で付け、青年達の背後からそおっと顔を出して言う。
「どっちを?」
「放っとけ放っとけ。大丈夫だろ。殺す気は無いみたいだし」
千尋も長二郎も、柾樹の身の安全については欠片も心配していなかった。事実、癒天教からの刺客達は既に軒並み地面でのびている。唯一無事な五丈だけが、壺を隠した懐を固く抱いてガタガタ震えていた。もはや誰の目にも、彼らの計画遂行が不可能なことは明らかだった。
「クソッ!」
五丈は呻くように吐き捨てる。そして地面に積み上げられた人々を置き去りに、外へと走り出した。
「逃げる気か!?」
青年達の声を背に、女郎蜘蛛みたいに手足の長い男は狭い戸口をくぐり、小路へと飛び出していく。見た目に反して敏捷だった。力任せに閉められた古い戸はズレが生じたか、千尋達がこじ開けようとしても開かなくなってしまう。逃亡者にとっては好都合だった。しかし五丈は数歩も進まないうちに、それ以上進めなくなったのである。
「な? こ、子供……!?」
小路で急停止した大男は、掠れた声で呟く。道の向こうからざわざわと現れたのは、茶色い着物に黒い帯をしめた見知らぬ子供達だった。慌てて振り返り背後を見る。そこにも、近所の壁や屋根を乗り越え、子供が次々湧い出てきていた。
「な、何だお前たちは? あ、あっちへ行け!」
青ざめた五丈が怒鳴りつけ拳で殴りつけ、押しのけようとしても子供達はびくともしない。どこからともなく湧いてきて、次第に小路を埋め尽くしていく。子供達の円らな瞳は、異様に見開かれていた。まばたきもしていない。同じ顔をして、みんなにこにこ笑いながら五丈を見上げていた。そして突然、子供達は男の腕や足へ飛び掛かったのである。
「うわああああああああああ?!」
子供達の小さな手で持ちあげられた五丈の悲鳴が、狭い小路に響き渡った。
「見ツケタ」
「見ツケタ」
「見ツケタ」
「見ツケタ」
茶色い着物を着た子供らは、小鳥に似た高音で口々に言い合い、男を担ぎ上げて走り出す。古道具屋の住人達が裏の戸をようやく開けた時には、既に最後尾の子が道の角を曲がっていくところだった。
その後。
隅田川沿いを川上へ向かってひた走っていく奇妙な子供の大集団と、子供達に担がれた男の姿が多数の人間に目撃されている。けれどその子供たちも五丈と思われる男も、これを最後に何処へともなく消えてしまった。




